5.姉のアンジェラ
レストランを出て、エレベーターでふたりきりになったところでフレデリックが言った。
「女優のアンジェラ・ブラントが君のお姉さんだったとは知らなかったよ」
「黙っていてすみませんでした」
「いや。有名人を身内に持つ苦労もあるだろう?」
シーナはその言葉に曖昧に微笑むしかできなかった。
「明日、部屋に来てほしいと言われていたね」
「久しぶりに会ったから話をしたいんだわ。姉は世界中を飛び回っているから家族と過ごす時間が少なくて、たまに会うと夜中までずっとおしゃべりをしているくらいなの」
その様子を思い出したシーナはつい顔がほころんでしまい、それにフレデリックは微笑んだ。
「お姉さんが本当に好きなんだね」
「えぇ、自慢の姉よ」
そこでエレベーターはふたりが泊まってる部屋のある階に到着した。フレデリックの部屋はホールから右に行ったところでシーナはその逆だ。
「このドレスは明日の朝に返せばいいのかしら?」
「いや。それは君へのプレゼントだ、ネックレスもね」
「え?!でもレンタルドレスがあるって」
「あるけどそのドレスは違う」
やはりこれは売り物だった、これほど素敵なドレスがレンタルできるわけがない。
「そんな、困るわ。こんな高価なもの、買えないわよ」
「支払いは済ませてある、気にしないで」
反論を言いかけたシーナの唇にフレデリックは人差し指を出して黙るような仕草をした。
「これを着た君が見たかった僕のわがままだから受け取ってほしい」
そして彼はシーナの手を取り、その指先に口づけを落とすと、おやすみ、と言って彼の部屋へと歩いて行った。
突然のことにその場に立ち尽くしていたシーナは慌てて火照る頬を隠すように両手で押さえると、自分の部屋へと駆け込んだ。
朝が来た。シーナは今、シャワーを浴びている。昨夜はあまりよく眠れなかったのだ。
フレデリックにシーナの姉がアンジェラだと知られてしまった。それに彼から贈られた高価なドレスとアクセサリー、そして指先への口づけ。
様々な出来事が重なった夜だった為、なかなか寝付けなかったのだ。
熱めのお湯でシャワーを浴びたシーナはフロントに電話して、部屋に朝食を持ってくるように頼み、受話器を置くと今度はアンジェラの部屋のベルを鳴らした。
「ハロー?」
数回の呼び出し音の後に女性が出たがアンジェラの声ではない。きっと彼女はまだ眠っているのだろう。
「アンジェラの妹のシーナです。今日、部屋を訪ねるように姉から言われているんですが、何時頃がいいかしら?」
「十時でお願いできますか?お昼前にはホテルを出発しないとならないので」
「わかりました」
このホテルに一部屋しかないスイートルーム。指定された十時にそこへ向かうとフロアの入り口を塞ぐように立っていたセキュリティの男性がシーナに向かって胡乱な顔をしてみせた。
「アンジェラ・ブラントの妹です、十時にアポイントを取ってあります」
彼にも話は伝わっていたようで、無愛想な顔を崩すことなく黙ってその体を少しずらし、シーナが通れるだけの隙間を作ってくれた。
「ありがとう」
シーナは礼を言って横をすり抜け、その奥へと進んだ。
部屋の扉の前にもセキュリティが立っていたが彼はシーナの入室に合わせてドアを開けてくれた。
「アンジー、来たわよ」
シーナはそう言いながら中に入っていくと、
「シーナ、会いたかったわ!」
と金切り声をあげたアンジェラが飛びついてきた。
「わたしもよ」
シーナもアンジェラの体を抱きしめ、この再会を喜び合った。
「こんなところで会えるなんて思ってなかったわ」
シーナの言葉にアンジェラはにこりと笑った。
「あなたがここにいるってお母様から聞いていたから、この国を訪問先に入れてもらっていたの。でも偶然に会えるなんて思ってなかったからすごく嬉しい」
「世界同時上映ですってね、空港はアンジーのポスターだらけだった」
「業界初の試みよ、楽しみだわ」
アンジェラはソファに座り、その隣にシーナを座らせた。
隅に控えていたスタッフのひとりが茶の給仕をはじめ、それを眺めながらシーナは言った。
「それで、なにか話があったんじゃないの?」
シーナがそう聞くとアンジェラは目を輝かせた。
「昨日、一緒にいた男性はシーナの恋人?」
「まさか。同僚だと紹介したでしょう?」
「とても素敵な男性なのに、惹かれないの?」
そう言われてシーナは返事に困ってしまう。惹かれてないと言えば嘘になるが、それを告白したところでシーナと彼の関係は進展しない。
そしてなにより彼はアンジェラに出会ってしまった。今までの経験上、男性は、いや女性だって皆、アンジェラに恋をするのだ。実らないとわかっている恋に身を焦がすほどの勇気はない。
「彼は同僚よ、それ以上でもそれ以下でもないわ」
「そう、それは残念ね」
アンジェラはがっかりした顔で出されたお茶を一口、飲んだ。それからあとはお互いの近況報告をしていたらあっという間に予定の時間になってしまった。
「アンジェラ、そろそろ出ないと」
スタッフの声掛けにアンジェラは慌てて立ち上がった。
「テレビの生放送に出るの、良かったら見てね」
彼女はそう言ってあわただしく部屋を出ていき、シーナは飲みかけの紅茶やお菓子を隅に寄せて簡単に片づけをしてから、スイートルームを出て自分の部屋へと戻った。
目的の階に付き、エレベーターを出ようとしたところで、フレデリックと会った。
「やぁ、シーナ。お姉さんに会いに行ってたのかい?」
「えぇ、そうよ」
「それで彼女は?」
「生放送に出演するからって、慌てて出ていったわ」
フレデリックはアンジェラに会いたかったのだろうが、彼女の時間はそう簡単にはあかない。
何でもないという顔をしているが、内心はがっかりしているであろう彼が気の毒になって、シーナはランチに誘うことにした。
「ランチに行こうと思っていたの、良かったら一緒にいかが?」
「いいね、是非」
「ラボの行きつけのお店なのよ、あなたもわたしたちの仲間になったのだから教えるわ」
「それは楽しみだ」
シーナは一度部屋に戻って簡単に身支度を整えると、フレデリックと一緒にホテルを出て、少し歩いたところにある一軒のカフェに入った。
「シーナじゃないか、久しぶりだね!今日はずいぶんといい男を連れてるんだな」
遺跡が見つかって以降、この店はラボの仲間たちの行きつけになっていて、シーナも遺跡に来る度に寄っていた。
「新しくメンバーに加わったフレデリックよ。フレデリック、彼はオーナーのボビィです」
「初めまして。なにがおすすめ?」
握手をしながらそう言ったフレデリックにボビィは笑った。
「なんでもおすすめだよ、たくさん食べてってくれ」
勝手知ったるでシーナが窓際の席に座るとフレデリックもそのあとに続いた。
ウェイトレスがメニュー表を持ってやってくる。
「いらっしゃい、決まったら呼んでね」
彼女はフレデリックに向かってそう言い、ウィンクをしていったが、彼はそれにげんなりした顔をしている。
「いい男なりの悩みね」
くすくすと笑うシーナにフレデリックは恨めしそうな顔を向けた。
「女性たちはどうして僕を放っておいてくれないのか」
「それは無理じゃないかしら、あなたはとても魅力的だもの」
「本気でそう思ってる?」
「思わない女性がいたら会ってみたいわね」
シーナの冗談にもフレデリックは憮然とした顔を崩そうとしなかった。
食後のコーヒーを楽しんでいると店に設置された小さなテレビにアンジェラが映った。
「アンジーだわ」
「映画の宣伝か」
「空港のポスターを見ました?どこもかしこもアンジェラだらけだったわ」
それを思い出してシーナはまたくすりと笑った。
「彼女は世界的な女優なんだね」
「そうよ、素晴らしいことだわ」
「そう思うならどうして黙っていたんだ?」
「それは」
フレデリックの指摘にシーナは思わず口ごもった。
アンジェラのことは愛しているけれど、彼女の妹であるとわかった途端、シーナは彼女の付属品の一部になってしまう。友人だと思っていた人たちはシーナというツールを利用してアンジェラとのコネクションを求めるようになり、彼らとは『利用する者』と『利用される者』という関係になってしまうのだ。
そうなるのが嫌でこの国に逃げて来たとは言いにくい。シーナの考えは聞く人が聞けばただの被害妄想でしかなく、そもそも知り合ったばかりの彼に自身の心の内を告げる気もなかった。
「アンジーのプライベートをかき乱したくなかったのよ。わたしのような妹がいるなんて知ったら、マスコミが黙ってないわ」
何とかそれらしい理由を持ち出しては見たものの、フレデリックのチョコレート色の瞳に見据えられてはそれを押し通す勇気もなく、目を伏せて視線を逸らすしかなかった。
きっと彼は怒っているのだろう、おまえが隠さなければもっと早くアンジェラと知り合いになれたのに、と。
でも彼女と知り合ったところであなたのものになるとは限らないわ。アンジェラの周りにはフレデリック以上に素敵な男性が大勢いるのだから。
「君のようなって何だい?君は君だ、評価なんか気にしなくていいさ」
思いがけない言葉にシーナは目を丸くした。
いつだってシーナはブライト家の『美しくないほう』の娘で『美しいほう』の付属品だった。そう評されることに慣れ切っていたシーナに、気にするな、と言ってくれたのは彼が初めてかもしれない。
「ありがとう」
つぶやくように言った礼にフレデリックは苦笑して、
「わざわざ礼を言われるようなことは言ってないよ」
と言う。
彼にとってはそうかもしれない、でもシーナは嬉しかったのだ。
フレデリックはテレビに映るアンジェラに目を向けて言った。
「いつかアンジェラとゆっくり食事をしたいものだな」
そう、たとえ彼の心がアンジェラに奪われていたとしても。
食事を終えたシーナはその場でフレデリックと別れて、地元の図書館へと向かった。
街の図書館に置いてあるような歴史の浅い資料には遺跡との直接的な関わりがないことがほとんどだが、風土や習慣が関連していないとは言い切れない。
シーナは時間が許す限り地元の図書館で郷土史を読むことにしていて、これは彼女の趣味でもあった。
遺跡とはかつて人が生活していた跡だ、人々がなにをもってこの地に根付いていったのか。その探索の旅は楽しい。
閉館間際まで資料を読み漁り、心地よい疲れを感じてホテルに戻ってみると、ロビーにフレデリックがいた。
彼はきちんとした正装を身に着けていて、誰かの招待を受けたのだと分かる。この場に居合わせた女性たちは昨夜同様、彼の姿にチラチラと視線を送っていて、誰もがその存在を意識していた。
「シーナ」
彼が軽く手を挙げて合図をした為、シーナは仕方なく彼のところに歩いて行ったが、女性たちの視線が痛い。
「おでかけ?」
「アンジェラから晩餐の申し込みを受けてね」
「まぁ、そうなの」
何でもない顔をして素敵な男性を見送ることにはもう慣れている。
「君も一緒にどうだい?昨日のドレスを着ればいい」
フレデリックの申し出にシーナは首を振った。
「今朝、クリーニングに出したばかりだからまだ仕上がってないわ。わたしのことは気にしないで、二人で楽しんできて」
アンジーによろしくね、と言ってシーナはフロントでカギを受け取り、そのまま部屋へと戻った。
どうやらアンジェラも彼に狙いを定めたようだ。想い合っているのだから今夜にでも恋人同士になるのかもしれない。
「義兄さんと呼ぶ練習をしなくてはいけないわね」
シーナは部屋の窓から見える夕暮れにそっとつぶやいた。
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