13.シーナの伴侶
どこまでも広がる雪原をシーナはひとり楽しんでいた。
白いコートに身を包み、同じく白い毛糸で編まれたベレー帽を被っている。暖かなムートンブーツも白に近いベージュで、シーナは全身、白づくめといういでたちで雪空の中の散歩をしている。
足元の雪はきゅっ、きゅっといい音を鳴らしている。上質のパウダースノーを踏みしめるのをもったいなく思ったシーナはそこで立ち止まり、目の前に広がる壮大な景色に意識を向けた。
この街の空港に降り立ったシーナとフレデリックは、情報提供者である学者の出迎えを受け、彼の研究室へと招かれた。
調査記録、実際の石碑、彼や他の学者たちの仮説といった様々な観点から検証した結果、この国で発祥した文化が遺跡大国まで伝わった可能性が高いことが分かった。
はぁっと吐いた息は途端に白く染まる。
シーナはこの冷えた静寂がとても気に入った。雪のもたらす静けさが様々な騒音の全てを吸い込んでくれる。
この山奥の小さな集落では、シティとは違う時間が流れているようで、世界同時上映という鳴り物入りの映画も、その主演女優であるアンジェラ・ブラントも、話題にあがることはなかった。
降雪量と明日の天気、それに洗濯物がしっかりと渇くかどうかが彼らの最重要項目であり、それ以外は一様に『どうでもいいこと』に分類されているようだった。
シーナは、あの日のフレデリックの言葉の全てに納得したわけではないが、彼の言うようにアンジェラと距離を置かなければならないとは随分前から感じていていて、だからこそ叔父の話を引き受けたのだ。
フレデリックは、シーナがアンジェラを優先している、と表現したが、本当は支配されていると言いたかったのだと思う。
アンジェラの気配のないこの地に来てみるとよくわかる。シーナはアンジェラが傍にいてもいなくても常に彼女を気にしていた。
女優のアンジェラ・ブラントに迷惑をかけまいと誰からの橋渡しも引き受けず、そのせいでシーナの交友関係に影響が出ても仕方がないことだと諦めた。
アンジェラと比べられたくなくて地味な服装、地味なメイクを選び、素敵な男性と知り合ってもいずれはこの人もアンジェラに惹かれるのだからと興味のないふりをしてきた。
今なら、フレデリックが誰かをだしにして何かをなそうとするような人でないと言い切れる。彼がアンジェラを欲しいと思えば直接アピールをしただろうし、シーナの助けなどなくても彼ならばきっと彼女の心を得ることができたと思う。
つまりフレデリックは彼の言葉の通り、シーナを愛していて、だから求婚をしてくれた。
彼の真摯な想いを歪めて受け取ってしまったのは、誰もがアンジェラを好きになるに違いない、というシーナの思い込みが発端で、それはつまり彼女に支配されていることになるのだろう。
「シーナ」
声のほうへ顔を向けると、フレデリックが遠くから息を弾ませ、こちらに向かってきているのが見えた。
何か用があるのかと彼のほうに行こうかと思ったが、この心地よい静寂を手放すのが惜しくなって、シーナは結局、その場で彼の到着を待つことにした。
「探したよ、ユキウサギみたいに真っ白な恰好をしているから分からなかった」
「それはごめんなさい。ここはとても素敵な場所だから、滞在中に目一杯、楽しんでおきたくて」
かくれんぼをするつもりなんてなかったのよ、と笑ってみせるとフレデリックも微笑んだ。
「平気さ、僕は君がどこにいてもきっと見つけ出してみせるから」
フレデリックはシーナに一歩近づいてその肩を抱き寄せると、そっと触れるだけの口づけをした。
フレデリックと手をつないで雪原を行く。
「この寒さから逃れるために、人類は南下を始めたのね」
「異常な伝達の速さは氷河期のせいだろうな。急激に気温が下がり、辺りが雪に閉ざされていく中、彼らは必死で生き残れる土地を目指したんだ」
この北の大地は氷河期時代、厚い氷に覆われていたことが分かっている。この土地で生きていくことは不可能だと悟った人々は、新天地を求めて始めた壮大な旅の末、遺跡大国へとたどり着いたのだろう。その長い旅路の中で、例の単語の形は少しずつ変化しながら伝承されていったというわけだ。
「そう言えば、あの単語。どういう意味なのかしら?」
シーナの質問にフレデリックは穏やかに微笑んだ。
「そうだな、家族?いや、もっと近しい関係の。そう、伴侶かな」
「伴侶」
シーナは思わず立ち止まってそうつぶやいた。
伴侶。それは愛を持って結ばれたふたりの関係だ。太古の昔にも愛は存在し、それを示す単語があったのだ。
そして今、自分の目の前で穏やかな笑みを浮かべているこの男性こそ、シーナの伴侶になりたいと言ってくれた大切なひと。
シーナはしっかりと彼の目を見て言った。
「フレデリック、わたしを選んでくれてありがとう。わたし、あなたを愛してるわ」
言葉は途切れることもなく自然に出た。
シーナのこの告白にフレデリックは目を見開き、それから蕩けるような笑顔を向けた。
「嬉しいよ、シーナ。きっと君を幸せにする」
彼はそう言ってシーナに深くて甘い、恋人同士の口づけをしたのだった。
貴族の慣例通り、一年間の婚約期間を経て、フレデリックとシーナは式を挙げた。
アンジェラはもちろん、ラボの仲間やボビィ、それにシーナの住んでいたフラットの大家であるメーガンまでもがパーティーに参加をしてくれた。
「あなたが男爵夫人になるなんてねぇ」
メーガンはおかしそうに笑っているが、それはシーナも同じだった。
「遺跡のほうはどうするんだ?」
ボビィの言葉にシーナは笑顔で答えた。
「もちろん続けるわ。コナー家の仕事は当面、義母様が引き受けてくださることになったから、遺跡の全貌が明らかになるまではラボに在籍させてもらえることになったの」
しかし発見された遺跡はかなり規模が大きかったようで、どこまでその裾野が広がっているのか、まだ見当すらついていない状態だ。
「貴族様がそれでいいの?」
アンジェラの言葉にはフレデリックが応じた。
「いいんだよ。僕はシーナのやりたいことを妨げる気はないし、障害はむしろ僕が取り除くと決めているからね」
と言い、そのあとの彼女への口づけもしっかりと忘れない。
「あーぁ、とうとうシーナを取られちゃったわ。シーナのお婿さんはわたしが探してあげるつもりだったのに」
アンジェラの発言にシーナは目を丸くする。
「そんな計画を立てていたの?」
「そうよ、芸能活動をしている男性と結婚したら、シーナも一緒にパーティーに出られるでしょう?おそろいのドレス、おそろいのヘアスタイルで参加して、シーナを皆にお披露目したかったのよ」
「義姉さん、妻を着飾らせるのは夫である僕の役目ですよ」
「わかってるわ、だから今日だって遠慮したんじゃない。本当はわたしが個人的に雇っているメイクアップ専門のチームを派遣したかったのに」
花嫁の着付けやメイクはコナー家で働いている使用人たちが整えた。彼らは若奥様の為にと張り切ってくれたのだ。
「おやおや、シーナは大層な人気者だねぇ」
メーガンの冗談に一同が声を上げて笑ったそのタイミングで舞踏曲が流れ始め、それを合図にフレデリックはシーナに言った。
「シーナ、おいで。僕たちのダンスの時間だよ」
結婚披露パーティーではまず、花嫁と花婿のダンスが招待客に披露される。仲睦まじい様子を見せ、誕生したばかりの新しい夫婦の将来が安泰であることを示すのだ。
甘く見つめあいながら踊るのは少し気恥ずかしいものがあったがシーナはもう、それから逃げだすことはしなかった。アンジェラではなくシーナを選んでくれたフレデリックの愛に応えたかったからだ。
頬を染めながらも決して視線を外そうとしないシーナの健気な一面に、フレデリックの心にはますます愛しさが募っていった。
フレデリックがシーナと出会ったのは、彼女の母国で開かれた展覧会でのこと。ブラント博士の高尚な会話についていけるような若い女性は珍しく、それが彼の姪だと知ったのは随分後になってからのことだったが、フレデリックはシーナという女性に興味を持って話しかけた。
「すみません、この像にはどんな意味があるのでしょう?」
フレデリックの問いかけにシーナはにっこりと微笑んで、
「これが像であるとお分かりになるのでしたら、わたくしの説明は必要ありませんわ」
と言った。
回答を得られないと思っていなかったフレデリックは内心で驚きつつもそれを表には出さなかった。
「それはどういう意味かな?」
「失礼ながら、お客様は考古学に造詣の深い方とお見受けしますわ、これを『像』であると、一目でお分かりになられたのですもの。
一般の方は『像』とは表現しません、『この石は何?』とお聞きになるのです」
フレデリックはシーナの知識レベルを試そうとして先の質問をしたのだ。失礼なことをしたというのに彼女は怒るでもなく笑顔でフレデリックの正体を言い当て、さらには一般人ならこう考えるのだ、ということまで教えてくれた。
「失礼しました。あなたがブラント博士と対等にお話しされていたので、つい、試してみたくなったのです」
「あなたほどの方ならばきっと博士とも話が合いますわね、彼はとても喜ぶわ」
シーナは嬉しそうにそう言って彼女を探しに来たスタッフと一緒にフレデリックから離れていったのだった。
その頃のフレデリックは爵位を継いだばかりで、彼の持つ権力にすり寄ってくる女性たちにうんざりさせられていた。彼女らは皆、気取り屋で、浅はかで、そのくせプライドばかり高く、要するに扱いが難しかった。
シーナを試そうとしたように彼女らを試そうとでもしようものなら、たちまち目を釣り上げて、馬鹿にしないでちょうだい!と金切り声をあげるのだ。そんなとき、フレデリックは必ず、馬鹿にしているんだ、とはっきり言ってやることにしていた。
おかげで新たなコナー男爵となったフレデリックの評判はあまり良くなかったが、それは一部の『扱いの難しい』女性に限ったことだった為、彼も、彼の両親も、全く気にしていなかった。
女性たちに辟易していた彼はつい、女性というだけでシーナに挑みかかってしまい、その結果がこれだった。
博士と話が合う人物の登場を素直に喜び、嬉しそうな顔で微笑んだ心優しいシーナにフレデリックはすっかり心を奪われてしまった。フレデリックほどの人物がシーナに心惹かれるというのも不思議なことだったが、恋の訪れとはこういうものなのだろう。
彼はいつかきっと彼女を捕まえてみせると心に誓い、その決意のとおり、五年という歳月を経て再会を果たすことができたのだった。
アンジェラという輝かしい太陽の陰でひっそりと生きるしかなかったシーナ。そんな彼女に自信を持たせるというミッションはなかなかに難しく、フレデリックはあの手この手で彼女に働きかけ続けた。
コナー家の所有する別荘での夜会に連れて行ったのもそのひとつだった、美しく着飾った彼女を男爵の自分が崇拝するがごとく扱えば、周囲はシーナに一目置くだろうし、それで自信をつけてもらおうと考えたのだ、もっともそんなことをしなくても彼女はパーティーで一目置かれたが。
しかし、不運なことにアンジェラも招待されており、そのうえ、言葉の分からないアンジェラを気遣った男爵夫人がシーナに通訳を命じてしまった。さらに悪いことにシーナは愛する姉の手助けを厭うような娘ではなく、彼女は喜んで通訳役に徹してしまい、姉妹の間にフレデリックが入り込む隙がなくなってしまった。
シーナをダンスに誘ってもアンジェラのパートナーをしてやってほしいと強請られてしまう。乗り気ではなかったがシーナに乞われたら断りにくく、仕方なくアンジェラの手を取った。
「そろそろ妹離れをするべきだ」
フレデリックがダンスの最中にアンジェラに言うと、彼女は分かりやすく顔をゆがめて、
「あなたこそ妹に手を出さないで。あの子のボーイフレンドはわたしが用意するわ」
と言った。シーナは自分の支配下にあると言っているようなそのセリフにフレデリックはカチンと来て、
「シーナは君の所有物じゃない、彼女に選択を委ねるべきだ」
と言い、さらに、
「そして僕はきっとシーナに選ばれてみせるよ」
と宣言した。
この国の新年祭には素晴らしい風習がある。それは、開催宣言と同時にパートナーと口づけを交わす、というものだ。
シーナのキスを他の男性に譲る気のないフレデリックだったから、やや強引にパーティーへの同行をこぎつけた。シーナの用意した愛情のこもった手料理でお腹を満たしたフレデリックは、最愛の女性との初めての口づけにすっかり浮かれてしまった。勢いもそのままに、アンジェラの結婚式でのエスコート役を申し出れば彼女は快く許可してくれた。
今、自分はシーナにもっとも近い異性だろう。このまま愛を育んでいけば、彼女はきっと求婚を受け入れてくれるに違いない。アンジェラの式までの半年間、フレデリックは逸る気持ちを懸命に抑えてシーナに歩調を合わせ、ゆっくりとその距離を縮めていった。
そんな中で執り行われたアンジェラの結婚式。しかしここで思わぬトラブルが起こった。どこの誰だか知らないがフレデリックがちょっとシーナの傍を離れた隙に、彼女を散々にこき下ろしていたのだ。
悪意ある言葉にもシーナは毅然とした態度を崩さず、それは彼女の半生を垣間見るようだった。アンジェラの陰でシーナはいつもこうやって耐えていたのだ。
なんて可哀そうで、愛らしく、そして素晴らしい女性なのか!
その瞬間、フレデリックはシーナに対する愛情が抑えられなくなり、ありったけの愛を囁き、心に抱いてきた彼女への愛しさのすべてを伝えてしまった。そしてすぐに性急に事を進めすぎたと慌てたが、シーナは柔らかく微笑み、フレデリックの愛を受け入れた上に彼女から口づけをしてくれたのだ。
勝利を確信したフレデリックがその場でシーナの前に跪き、求婚の言葉を口にしたのは言うまでもなかった。
翌日には花嫁姿のアンジェラに負けないくらいでかでかとした写真付きでふたりの婚約が報じられ、気のいい仲間たちはこの婚約を祝うささやかなパーティーを開いてくれた。
「やったな、フレデリック」
「おめでとう、ついに恋が実ったのね」
ラボの仲間たちは皆、フレデリックがシーナに恋をしていることに気づいていた。それは彼がそれを隠そうとしなかったからだが。
「ありがとう、シーナを世界一幸せな花嫁にしてみせるよ」
フレデリックの率直な惚気に仲間たちは呆れながらも祝福をしてくれたのだった。
しかし、その衝撃は突然にやってきた。
順調に交際を続けていると思っていたのはフレデリックだけで、シーナは自身の結婚すら、アンジェラの為だと考えていたのだ。
「僕をそんな男だと思っていたのか」
声を荒げてはならないと頭では分かっていても言葉は自然に厳しいものを選んでしまう。だが、この怒りをシーナに向けることは間違っている。彼女にそう思わせていた自分の未熟さと、アンジェラという呪縛から抜け出せないシーナ自身が原因なのだから。
「君はアンジェラから離れたほうがいい、彼女の放つ強すぎる光は君にとっての毒だ」
声を上げることすらせず、はらはらと静かに涙を流すシーナにフレデリックの胸はずきりと音を立てた。
「僕が愛しているのはシーナだ。可愛い人、僕がきっと傍にいるよ」
彼女が泣き止むまでシーナを抱きしめて過ごしたその休日は、とても切なく悲しいものとなった。
ありがたいことにそのタイミングでプロジェクトに動きがあり、シーナはアンジェラのことを考える余裕もないほどに忙しくなった。それでも時折、手を止めてぼんやりしていることはあったから、そのたびにフレデリックはシーナに声を掛け、たわいもない会話をしたり、食事に誘ったりした。
遺跡調査の一環で訪れた雪の街をシーナはとても気に入ったようだった。毎日、飽きもせず雪原に散歩をしに行っている。
雪空の中で白銀の世界に佇むシーナはとても美しい。ニット編みのベレー帽から覗く金色の髪は曇り空の淡い光りを受けて透けている。
「シーナ」
フレデリックはその日も彼女を追いかけた。彼女を追いかけるのはいつも自分のほうだったが、彼はそれでもかまわなかった。
シーナは今、自身の心を立て直している最中で、それを見守り、支えると決めたのだから。
そしてその献身はついに報われた。
「フレデリック、わたし、あなたを愛してるわ」
そう言ったシーナの頬はほんのりと染まっていて、これがまぎれもなく彼女の心からの言葉だと知った。
「僕も君を愛してるよ」
フレデリックは初めてシーナに恋人同士の口づけをおくり、自身と彼女に訪れた幸福に思う存分、酔いしれたのだった。
花嫁らしく恥じらいの頬を染めながらもフレデリックを見つめるシーナ。少し前の彼女ならこんなふうに誰かと視線を合わせるようなことはできなかっただろう。彼女はいつだって他者の評価を恐れて逃げていた。
シーナはいずれフレデリックの母がそうしているように女主人として夜会を采配し、社交界をわたっていかなければならない。フレデリックを辟易させた『扱いの難しい』人たちはきっと、幸せな彼女を妬んでどうにかしてやろうと手ぐすねを引いて待ち構えているだろう。
だとしても、自信を取り戻した今のシーナならきっと大丈夫だ。賢く聡明な彼女なら女主人の仕事など難なく捌いてしまうだろうし、他者の悪意にはフレデリックがいる。彼の持つ男爵という立場は彼女を守る大きな盾だ。
「シーナ、愛してるよ」
フレデリックの愛の囁きにシーナは微笑んだ。
「わたしもあなたを愛してるわ」
うっとりと見つめあって踊る新郎新婦の姿に、集まったひとたちは心からの拍手と喝采を送ったのだった。
これでおしまいです、お読みくださりありがとうございました。




