11.ボビィのアドバイス
結婚を機にアンジェラは大幅に仕事を減らし、プライベートに重点を置いた。その重点項目のひとつにシーナとの交流も含まれているようで、彼女はランチタイムになるとシーナの勤め先であるラボを訪れることが増えた。
初めのうちはアンジェラ・ブラントの来訪にいちいち騒いでいたラボのひとたちも今ではすっかり落ち着いて、
「やぁ、アンジェラ。シーナなら部屋にいるよ」
「ありがとう、行ってみるわ」
と、普通の会話をしている。
その日もアンジェラは勝手知ったるでシーナの部屋にやってきた。
「シーナ、ランチを持ってきたわ」
最近のアンジェラは手作り料理を持参するようになった。
それは、料理の腕を磨いて愛する夫を喜ばせたいという、大女優とは思えないとても可愛らしい動機からの行動で、つまりシーナに味見をさせようというのだ。
「いらっしゃい、アンジー。今日は何を食べさせてくれるの?」
「ミートパイを作ったんだけど」
アンジェラはバスケットの中から大きな楕円形の皿を取り出してテーブルの上に置く。
その途端、部屋中にいい匂いが広がってシーナはそれに空腹を感じた。
「いい匂いがするね」
それはシーナだけではなかったようで、いつの間に来たのか、フレデリックが部屋の戸口に立っている。
「あなたも食べる?飛び切り美味しくはないでしょうけど、まずくもないと思うわ」
アンジェラの手料理を食べられるチャンスを逃すような彼ではない。
「せっかくだからご相伴にあずかろうかな」
フレデリックが室内に入ったところで、シーナは入れ替わるようにラウンジへと向かった。
「飲み物をもらってくるわね」
彼はいつもアンジェラが来るとすぐにシーナの部屋にやってくる。それほどにアンジェラの来訪を待ちわびているのだろう。
アンジェラのご主人には申し訳ないと思うが、少しでもふたりきりにしてあげたい。念のため、ドアは開けてあるし、透明な板で仕切られたあの部屋でいかがわしい状況になるはずもない。
ラウンジに向かったシーナはできるかぎり時間をかけて丁寧に三人分のお茶を淹れ、部屋に戻った。
「正直に言っていいのなら、シーナのパイのほうが美味しいかな」
「えぇ?!あなた、シーナの料理を食べたことがあるの?」
「あるよ、パイだけじゃない。プディングにローストビーフ、それから」
「ちょっと。姉のわたしを差し置いて、どうしてあなたが?」
珍しく目を三角にして怒っているアンジェラにシーナはお茶を手渡しながら言った。
「フラットの大家さんの家で開かれた新年祭のパーティーに彼も参加したのよ。そのパーティーでは料理を持ち寄ることになってたから、わたしはいくつか作って持っていったというだけよ」
フレデリックがシーナの手料理を食べた経緯を説明する必要はないと思ったが、彼が愛する女性に誤解を受けるのは気の毒だと思い、必死になって釈明してしまった。
それをアンジェラがどう思ったかはわからないが、
「そうなのね」
と、大人しくなり、そのあとに少し首をかしげて可愛らしい仕草をした。
「ねぇ、シーナ。わたしにもあなたの手料理を振る舞ってくれない?」
「それは別にいいけど」
「本当?嬉しい!わたしのほうはいつでも都合をつけるわ」
「じゃぁ、今週末でもいい?大家さんから新鮮な野菜をたくさん頂いたから、それを使ったピザと、あとはアンジーの大好きなチキンキャセロールなんてどうかしら?」
「素敵、じゃぁわたしもなにか作って持っていくわね」
姉妹の間で話がまとまりかけたところにフレデリックが口を挟む。
「おいおい、女性ふたりでそれだけの料理を平らげられるのかい?」
「ご心配なく、わたしは食べることが大好きなの」
間髪入れずに応じたアンジェラにシーナは思わず笑ってしまった。
「ふふふ。フレデリックにも是非、いらしてほいしわ」
「だったらアンジェラの旦那さんも誘ったらどうかな。結局、結婚パーティーでは話ができなかったからね」
パーティー会場でサマンサに絡まれたあと、フレデリックは早々にシーナを連れて会場を出てしまったのだ。
「まだアンジーに挨拶ができてないわ」
反対するシーナの肩を抱いてフレデリックはさっさと車のドアを開けると、彼女を助手席に座らせてしまった。
「また君が傷つけられたらたまらないよ、アンジェラだってきっと同じことを思うはずだ」
そう言われると反論ができない。
アンジェラがシーナを大切に思ってくれていることはよくわかっている。シーナがサマンサに意地悪をされたと知ったら、彼女はこのパーティーの主役であることも忘れてサマンサに掴みかかってしまうかもしれない。
会場にはたくさんの記者たちが詰めかけている。ゴシップの種になりかねないのならシーナは早々に立ち去ったほうがいい。
「あとでアンジェラに電話をするわ」
力なく肩を落とすシーナの頬にフレデリックはそっと口づけをしたのだった。
そんなわけでシーナはもちろん、シーナと婚約したフレデリックもアンジェラの夫となった映画監督とはまだ対面を果たしていない。
「それはいい考えね、わたしたちは義理とはいえ家族になるんだもの。仲良くしなくちゃ」
こうして週末にシーナのフラットでちょっとしたパーティーが開かれることが決まった。
その日、シーナはひとりでボビィのカフェを訪れていた。
「よう、シーナ。今日は色男と一緒じゃないのか?」
「仕事でここに来ただけよ」
シーナがカウンター席に座るとボビィは注文もしてないのにティーケーキとコーヒーを出してくれた。
「まだ注文をしていないわ」
「これは俺からの婚約祝いだよ、おめでとう」
シーナは一瞬の間をおいて、ありがとう、と言ったが、それにボビィは怪訝な顔をした。
「なんだ?色男との婚約が決まった割には浮かない顔だな」
「そんなことは」
言いかけたシーナはボビィの顔色に口をつぐんだ。
彼は見かけによらず繊細で、特に感情の機微に敏感なひとだ。
ボビィはそれを、客商売のたまものだ、などとおどけてみせているが、他者を気遣い、寄り添えるという彼の本質によるものだとシーナは思っている。
だから彼の前で虚勢を張ったところで何の意味もない。それが分かっていたシーナは何も言えなかったのだ。
黙ってしまったシーナにボビィはため息をついた。その日は雨で客足は少なく、ランチタイムの終わった店内は閑散としている。
「ちょっと早いが休憩にするか」
ボビィはスタッフにそう声をかけると自分用のコーヒーをついでシーナの隣に座った。
「あの男、フレデリックとかいったかな。やつがどうかしたのか?」
ボビィの問いかけにシーナは迷いながらも重い口を開いた。
「彼は姉のアンジェラを愛しているの。でも姉は別の男性を選んでしまって。だから彼は義弟になりたくてわたしにプロポーズしたのよ」
こうして言葉にしてみると思った以上に滑稽で笑い話のようだった。
姉は結婚したというのにそれでも諦めようとしないフレデリックも、そんな彼を応援すべく求婚を受け入れた自分も、どちらも愚かでしかない。
案の定、ボビィは遠慮なく盛大なため息をついてから言った。
「シーナの目には一体なにが見えてるのか不思議でならないよ。一度、フレデリックときっちり話をしてみるといい。全くの思い違いをしてるってことに気づくだろうからね」
「思い違いですって?わたしがなにを勘違いしているというの?」
「なにもかもだよ。全く、学者さんってのはどうしてこうなんだろうな。人生は学問なんかじゃない、理屈をこねくり回す必要なんかないんだよ。
人間なんてものは、結局、シンプルで分かりやすい生き物だ。恋に落ちた男なら、なおさらね」
フレデリックはアンジェラに恋をした、だから彼女のそばにいたくて義弟になる道を選んだ。
これ以上、シンプルで分かりやすい答えなんてないと思う。ボビィはどこが間違っていると言いたいのか。
怪訝な顔をするシーナにボビィは呆れ顔で言う。
「店の電話を使っていいから、今すぐフレデリックに連絡してデートの約束を取り付けるんだ」
「それならまずアンジーを誘わなくちゃ」
「どうしてそうなる」
「だって、彼はアンジーと過ごしたいのよ?姉不在のデートなんて、彼には何の意味も持たないわ」
「いいから、今すぐ、電話しろ!」
ボビィは手を伸ばしてカウンターの向こう側にあった電話を取り出すと、シーナの前に置き、彼女を睨みつけるようにしている。
その無言の圧力にシーナは渋々、受話器を上げるとラボに連絡をした。
「シーナです。あの、フレデリックに代わってもらえるかしら」
電話に出た受付係は快く彼を電話口に呼び出してくれた。
『やぁ、シーナ。なにかあった?』
「別に大したことじゃないの。ただ、その、あなたの週末の予定を聞きたくて」
『いいや、何もないよ。ひょっとしてデートに誘ってくれるの?』
「えぇ、まぁ」
『嬉しいな、十時に君のフラットに迎えに行くよ』
「ありがとう」
『週末が待ち遠しいな、それじゃ』
フレデリックの弾む声を最後に電話は切れた。
すぐ近くにいたボビィにはやり取りが聞こえていたのか、彼は片方の眉を上げ、それみたことか、とでも言いたげな顔をしている。
「いいか、シーナ。人生は理屈じゃない、ハートだよ、ハート」
そう言ってボビィは自分の胸に親指を突き立てた。
お読みいただきありがとうございます