プロローグ
短編『壁に、窓が現れた。』から派生したお話になります。
一応、あちらを読んでいなくてもわかるようにはなっていると思います。
兄が行方不明になったのは、私が中学の時。大学の友人たちと旅行に行った先でのことだった。
最初に兄の友人から連絡が入り、母が慌てて父に連絡を取って、父が戻ってきてすぐに警察からも連絡があった。その時点では私はまだ何が起こっていたのは教えてもらえず、ただ慌てて出かけて行った父を、母と一緒に見送った。
ただ、何となくわかってはいた。兄に、良くない事が起こったんだって。
詳しい事を教えてもらったのは、その日の夜。
遅くに父から連絡があり、母は泣いていた。そして、その時になって初めて、兄が行方不明になっていると知ったのだ。
旅行先で、予定になかった漁港へ何となく立ち寄った兄たちは、堤防の方へ抵抗する子供二人を引きずるようにして進む女性を見つけ、ただ事ではないと急いで駆けつけたらしい。ただ、僅かな差で女が子供たちを海へ突き落としたため、兄は上着だけ脱いで飛び込んだそうだ。その後、レスキューが来るまで片手で子供二人を支えつつ、もう片方の手でロープみたいなのを掴んで耐えていたらしい。
でも、兄だけは救助が間に合わなかった。
子供二人を引き上げたレスキュー隊員が視線を戻した時には、すでに兄の姿はなかったらしい。
捜索は翌日も、その翌日も続けられたけど、結局兄は見つからなかった。
後日、兄が助けた子供たちとその両親が、我が家に来た。何度も何度も頭を下げて、子供を助けてくれたお礼と、その所為で行方不明になってしまった事に対する謝罪をしてくれた。
でも、両親も私も、その家族には特には何も言わなかった。思うところが全くなかったわけじゃないけど、それでも目に前にいる小さな男の子二人が助かったことは、本当に良かったと思えたから。兄の行動がこの子たちの命を繋いだのだと考えれば、まだ複雑な感情も飲み込むことは出来た。
でも、あの女は違う。
それは、両親も同じだった。子供たちを突き落とした女に両親は報復した。
あの暴挙は、その子供たちのお父さんに横恋慕してアプローチしたものの、全く相手にされなかったことに腹を立てての犯行だったそうだ。そのお父さんにしてみたら部下の一人でしかなかったし、重役の娘だからといって特別扱いもしなかったので、適当にあしらっていたらしい。ただ、その女はちやほやされる事に慣れていたようで、適当にあしらわれるだけで全く相手にされない状況に徐々に怒りを蓄積していき、その末の犯行だった。
その後、女は子供二人に対する誘拐と殺人未遂では立件されたが、兄に対しては殺意があったわけではないとして、殺人罪での立件は叶わなかった。コイツの所為で兄がいなくなった事には変わらないのに。
だから父は、子供のお父さんにも協力してもらって、この女の父親、支社長を追求したんだ。幸いにもそのお父さん以外にも協力者はたくさんいて、証拠は山ほど集まった。それらを使って父が相手の支社長を追い込んだ。
父は弁護士を連れて本社へ乗り込み、集めた証拠を提示してこう尋ねたそうだ。
こんな倫理観の欠片もない人間を支社長に据え、娘の件があれだけ大騒ぎになっているにも関わらず、未だに処分のひとつも下していない時点で会社としても有り得ないと思うが、これが御社では当たり前なのかと。そして、その倫理観の欠片も持ち合わせていない御社の社員の所為で幼い子供二人の命が危険にさらされ、助けた息子は今も行方知れずとなっているが、その辺りはどう考えているのかと。しかも被害者である子供二人の父親に対して事件発覚後すぐに地方へ左遷を命じているようだが、これはある意味報復人事ではないのかと。
支社長はあの件の後も平然と会社へ通い、娘の件も口外するなと部下たちに圧力をかけていた事は、父でも簡単に証明することが出来た。そんな状況だったのに、子供の父親には堂々と冤罪を吹っかけて地方への左遷を命じていたらしい。
この辺りの事も調べ終えていた父は、その証拠をすべて本社の重役に提示して追求したんだ。その結果、本社の重役たちは顔面蒼白になったそうだ。どうやら、当事者でもある支社長からの報告には、そんなことは一言もなかったらしい。
直ちに支社長だった女の父親は本社に呼び出され、父も同席したその場で本社の重役により厳しく追及されたらしい。どうやら創業者の親族という事でこれまでは多少の事は目を瞑っていたらしいのだが、さすがに今回の件は許されなかった。
その結果、お父さんの左遷命令は取り消され、支社長が出勤停止となった。その間に本部から送られた調査員によってこれまでの事が次々に明るみになり、支社長は懲戒解雇となった。ただ、女同様、これまで不利益を与えて来た部下に対する賠償や兄の件でも慰謝料等を支払わなければならなくなった為、創業者の知り合いの所に放り込まれたとの事。娘はまだ裁判中だが、出所後は同じ所へ入れられ、延々と賠償金を支払う為だけに働くことになるそうだ。
ここまでで、兄が行方不明になってから丸一年かかった。
元凶たちへの制裁は完了したけれど、兄は見つからないまま。
見つからないうちはと僅かな希望を抱き続けてはいたけれど、冬場のあの寒い時期、冷たい海に長時間浸かっていた兄が自力でどこかに泳いでいけるとは思っていない。剣道有段者の体力バカだったけど、さすがにあの状況は無理だと思っている。
兄に関する手掛かりが何一つ見つからないまま、一年が過ぎ、また一年が過ぎ。
気づけば兄がいなくなった時の年齢を超えた自分がいた。
兄は戻ってこないけど、年月は待ってくれない。
歳を重ね、就職する頃には実家で一人暮らしをしていた。
両親は私が大学に通っていたころに転勤で移り住んだ土地が気に入り、そこで終の棲家を手に入れた。だから元の実家手放そうかって話も出ていたんだけど、兄との思い出がたくさん詰まった実家がなくなるのはどうしても嫌で、私が受け継ぐことで話がまとまった。それを機に私は実家へと戻り、実家での一人暮らしとなった。
両親の家、新しい実家は高速で二時間くらいの場所だったので、お互い連休の時には行き来していたし、実家で一人で居る事も寂しいと思った事はない。年末年始は両親の家に行って一緒に過ごしていたし、両親も休みになるとお土産をたくさん買い込んで来てくれたりしていた。
そんな感じで数年が過ぎた、ある年末。
その年は仕事の都合で両親の家に行けなかった私は、家でパソコンをいじりながら年末を過ごしていた。
その時に、突然壁に現れた窓。
最初、疲れて幻覚を見ているんだと思った。でも、どこからどう見ても普通の窓だし、そもそもこんな場所に窓なんてなかった。この窓が現れた壁の向こう側は、外ではなく風呂場だ。
しかし、そこに広がる風景は自然豊かな田舎の風景と言った感じで、自分が住む周辺にはない光景が広がっていた。
疲れているんだと無理矢理納得してその日は寝た。
しかし翌日、やっぱり窓はあった。
そうして、その窓を通して知り合った一人の少年。
その子との交流がきっかけとなり、しばらくするともう一人の少年が加わり、護衛だと言う青年が加わり。
不思議な窓を通しての交流は思いのほか楽しくて、利発な少年二人からの鋭い質問には答えに詰まる事もあったけれど、本当に楽しかった。少年二人は可愛かったし、口数は少ないながらも物腰柔らかで好青年な護衛さんは、何かあればさりげなくフォローを入れてくれる優しい人で。
仕事でのイライラも帰宅してこの三人と話すことで解消できていた。
でも、そんな癒しの時間は、そう長くは続かなかった。
何となく、予感はあった。そもそも、こんな意味不明な状況がずっと続くわけがなかったのだ。
その日は少年たちは姿を見せずに、現れたのは一人の男性。四十前後くらいだろうか、整った顔立ちの紳士。
少年の一人がこの人にそっくりだったので、父親なんだろうなとは思っていた。
『マキ』
声は違う。
姿も違う。
でも、同じだった。自分の名を呼ぶときの響きが、こちらを見つめるその穏やかな目が。
目の前の男性は、兄だった。いや、兄だった人。
ラノベでよく見る異世界転生、その実例を自分が目撃する事になるなど誰が思うだろうか。
でも、兄はやっぱり兄だった。
ちょっと話をすればそれは疑いようもなくて、私の事もそうだし、両親の事も色々と聞いてきた。どうやら兄は自分が行方不明になったあの件に関しては覚えていないらしい。兄の中では大学に通っていたはずなのに、気づいたらこうなっていた感じだったと言っていた。
だから、私もあえて説明はしなかった。私の口からわざわざ言わなくても、自分の記憶が大学時代で途切れている時点で察しているだろうから。
兄も、これまで色々とあったようだった。ただ、記憶が戻ったからこそ防げたこともあったようで、それに関してはお前のおかげだなと笑っていた。何がどうして私のおかげなのか、その時は聞いても教えてくれなかったけれど。
兄の記憶、何がきっかけになったのかはわからないけど、どうやらある朝起きたら唐突に記憶が蘇っていたらしい。窓に映る自分の姿に誰だこれってなったらしく、そこから今の自分と過去の自分の記憶がごちゃ混ぜになって、思い出したその日は大混乱だったと笑っていた。
そして、その時は来た。
最後に渡された、手紙と細長い箱。
窓は、目も眩むほどの輝きを放ち、ただの壁に戻ってしまった。
そこからしばらくは、自分でもよくわからない感情が沸き起こり、涙が止まらなかった。
ある日、突然いなくなった兄。
体だけでも見つかれば、まだ諦めはついたのかもしれない。
しかし、あの現場に残されていたのは海に飛び込む前に脱ぎ捨てた上着だけ。
兄本人が見つかったわけじゃない。
だこらこそ、諦められなかった。私も、両親も。
一晩泣いて、何とか落ち着いて、やっと手紙を開いた。
そこに書かれていた内容に、一瞬殴っておけばよかったかなと思ってしまったのだが、それでも手紙から兄が幸せに暮らしていることは理解できた。そして、私が感じていた既視感の正体も判明した。
行方不明だった兄が異世界転移していて、しかもそれが私が一時期ハマっていたゲームの世界だなんて、何の冗談だ。
ただ、どんな形にしろ、以前の兄ではないにしろ、今は元気で幸せに暮らしていることだけは理解できた。それだけでも、心が軽くなった。
当然、両親にも手紙は見せた。
最初、こんないたずらをしてみたいな感じで怒られたけど、それでもとにかく手紙を読めと促した。
仲良く二人で読んでいたけど、読み終わった時には母は泣いていたし、父は難しい顔をして考え込んでいた。当然だろう、長年行方不明になっている息子からの手紙だと言って渡されれば、困惑する。しかもその手紙に、父と兄しか知らないはずのことが書かれていれば、尚の事。
私は実際に兄に会って言葉を交わしているので、信じる信じないの話ではない。
でも、手紙を見ただけの両親がどう判断するかは、私にはわからなかった。
しばらくして、家で寛いでいた時に父から連絡が入った。近いうちに、兄の失踪宣告を届けてくると言う。
それを聞いて、両親もやっと気持ちに区切りをつけることが出来たんだなと思った。
兄がいなくなってから、残された私たちの時間はある意味止まっていたから。
区切りをつけて、これでやっと時間が動き出す。自分も前を向て歩ける。
そう決意してから、一年と少し。
まさか、自分自身も兄の生きる世界に行くことになろうとは、当時の自分にそれを知る術はなかった。
基本、不定期。
続きが気になるって事にはならないように、一話づつ区切りがつくように書いて行こうと思っています。
この後、もう一話投稿予定です。