佐賀のやばい嬢ちゃんepisode.9 虎になった女
西暦二〇一九年、東京オリンピックを前にして佐賀は世紀末的な治安悪化に苦しんでいた。これに対し佐賀県警は全国初のバウンティハンター制度を導入。一攫千金、人生逆転を夢見る人間たちが我先にと犯罪者の捜索に乗り出した。長崎生まれ佐賀育ちの少女、新地輝夜もその一人である。
二〇二〇年を迎えて間もないある日、輝夜が選んだ狩りの舞台は鹿島市のとある高校だった。日曜日の正午近く。三年一組の教室に、人影は油を撒く一人分しかない。輝夜がドアを開けると、紺色のブレザーを着た背中が振り返った。
「……こんにちは。誰かの妹さん?」
どうしてこんな時間に人が、と言いたげな表情だった。輝夜は中学校の制服を着ていたので、このクラスに所属する生徒の妹だと判断しての発言だろう。
あなたのお迎えに来たんです、と決め顔で言うつもりだった輝夜は、教室の中にいた人物の顔を見て台詞を変えた。
「もしかして、ユリナさんじゃないですか?」
「ええ、溝川百合奈ですけど」
「輝夜です。覚えてますか?」
「……輝夜ちゃん? 佐賀の? ……そっかぁ、中学生になったんだね」
百合奈の声がそれまでの警戒するものから優しいものに、表情は思い詰めたものから悲しげなものに変わる。
「ひょっとして、私を捕まえにきたの?」
相手が百合奈でなければ、輝夜は確かにそうするつもりだった。
「百合奈さんはどうして放火しようとしてるんですか?」
「敬語じゃなくていいよ」
百合奈が灯油缶を置き、輝夜に近づく。
「『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』」
「……どういう意味?」
「そのうち習うよ。私にも、臆病な自尊心と尊大な羞恥心があった。失敗が怖くて挑戦しなかったことがたくさんあるし、傷つきたくないから関わらなかった人もたくさんいた。そういう生き方をしているとね、だんだん自分を人前に出したくなくなるの」
「具体的にお願い」
輝夜がそう言うと、百合奈は少し笑った。嗤った、と書くのが、より近いかもしれない。
「嫌だよ、恥ずかしい。それに、どうせ『苦しいのはみんな同じ』とかって言われるだけだから」
「ああ、そう。それでヤケになって放火しようとしたんだ」
「まあね。……どうしてわかったの?」
「賞金稼ぎのネットワークってすごいんだよ。『鹿島に怪しい女子高生がいる。今日あたり高校に火をつけるかもしれない』って聞いたから、来ちゃった」
「そうじゃなくて、どうして私がヤケになってるってわかるの?」
「今の百合奈さんの顔を見て、苦しそうだったから。『苦しいのはみんな同じ』なんでしょ? あたしだって苦しかったらヤケになるよ。……誰もそう言ってくれなかった?」
百合奈は肯定するように俯いた。
「百合奈さんの臆病なところとか、尊大なところとか、教えてくれない?」
しばらく沈黙の時間が流れた。
やがて百合奈が灯油缶を拾い、輝夜に渡した。
「昔は、お姉ちゃんって呼んでくれてたよね」
輝夜は百合奈が犯行を断念したと判断し、会話を続ける。
「そうだったっけ」
「うん。確かにそう呼んでくれてた。輝夜ちゃんの前でくらいは、ずっとかっこいいお姉ちゃんのままでいたかったなぁ……」
「……どこ行くの? 百合奈さんの家は、引越していなければこっちでしょ」
「警察署はあっちだよ。連れて行かないの?」
「うん。だって、油を撒いた程度の迷惑行為は大した金額にならないもん」
「……バカだね。火をつけてから捕まえればよかったのに」
赤の他人が犯人なら、本当にそうしたかもしれない。百合奈の昔話を聞きながら、輝夜は重大な放火未遂を見逃してよかったと思った。




