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「リティ、リティ」
そう何度か私を呼ぶ声が聞こえて、瞼を開くと目の前にはきらきらと輝く金色が目に入った。私の寄りかかっていた窓の外はすっかり明るく朝の時間を過ぎていた。
「あ...ラ、スさん」
どうやら昨晩の出来事は夢ではなかったらしい。目の前にサラサラな髪を揺らし微笑みを浮かべるラス。何度見ても彼の容姿は美しく、神々しくも見える。
ふと、手の中にある本に目を向ける。ラスが閉じ込められている新緑色の本は、私の腕の中にある。焦茶色の斜めがけの鞄に入れられた本を抱くように眠っていたみたいだ。
思い出したように、婚約者の事を考える。今頃家族は私を血眼になって探しているだろうか。それはちょっと言い過ぎかもしれないが、激怒しているに違いない。考えを振り払うように頭を振っているとまた声をかけられた。
「おはよう」
まだ寝ぼけた頭にラスが挨拶をする。
「おはよう、ごめんなさい。結構寝ていたわね。もう着くのかしら」
「あと1時間くらいかな。汽車は狭いから少しくらいなら離れられるし、さっき朝食を持って来てもらったよ」
お礼を言いながら野菜とお肉のサンドイッチにココアを受け取ると小さくお腹が鳴った。ラスは昨夜、私がココアを気に入ったのがわかったのだろう。
再度お腹が鳴り、恥ずかしさを誤魔化すように温かいココアに口をつけた。昨日は結婚のことばかり考えていて、あまり食べられなかったからとてもお腹が空いたのだ。
昨日と同じように私の前に座るラスの手には朝食はない。
ラスはもう食べたのかしら?そういえば、本の中にいる間は空腹も感じないと言っていたわね。
「食べながら聞いてほしいんだ。次の着く場所はガーネット国。この街を抜けてアメシスト国まで歩いて行かなくちゃいけないから少し食糧を買うよ」
彼の口から初めて聞く国の名前が出てきたので思わず首を傾げた。ガーネットにアメシストなんて、宝石の名前の国は初めて聞いたのだ。
「魔法使いの国なの?初めて聞くわ」
「魔法使いではないけれど、リティが住む国の人たちとも違うかも。例えばガーネット国の人は皆、ガーネットのように紅い瞳をしていてるからそう名付けられたんだ。あとは薬草作りが上手だね。ただし、気をつけないといけない事がある。彼らは魔法使いを嫌っている。だから魔法が禁止の国なんだ」
国の名前を決めるのに安直過ぎないかしら?と思いつつ、魔法使いが嫌いな国もあることに驚く。
私の住む国では魔法使いは御伽話の話のような存在であり希少な存在だ。魔法使いであれば一生困らない生活が出来るだろうと謂れている。その代わりに国に仕えなければいけないから、自由ではなくなってしまうと聞いたこともある。まだ過去に前例がないから分からないのだが、もてなされる存在には間違いない。
「魔法を嫌う国もあるのね」
私の言葉にラスは苦笑する。
私たちが思っているより魔法使いは存在していて、縛られるのは窮屈だから姿を表さないのかもしれない。
それより、アメシスト国はどういう国なのかしら。
「アメシスト国は貴方のような紫色の瞳なの?じゃあ、貴方はアメシスト国の出身かしら」
「残念ながらアメシスト国は瞳の色は関係ないかな。ここは空飛ぶ魔法が得意な国。魔法使いでも空を飛べる人は限られているから。でも僕は此処の出身じゃないよ」
「そうなの」と呟いた声は汽笛の音に掻き消された。ラスは空も飛べるし、私の動きも魔法で止めることができた。もしかしたら、彼は魔法使いの中でもかなり優秀な人なのかもしれない。
前に腰掛けていたラスは急に私の隣に腰を下ろし、整った顔を耳元に寄せた。少し驚いて引き気味になった私だったが、彼は深刻そうな顔をしていたので、私も耳を寄せた。
「それと本の事なんだけど」
少し躊躇しているように、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「昨日も言ったように、僕はその本から離れられないし触れられない。だから、君が持っていて。出来れば大切にしてほしい」
深刻な面持ちで話すラスは、私の膝上にある鞄を見ている。私の手の中にある本が無くなってしまえば、彼は出られなくなってしまうから心配にもなるのだろう。
ふと疑問に思うのは、ラスの本が叔父様の家にあった事だ。叔父様は本集めが趣味で、屋敷には壁一面本棚になっている部屋があるが、ラスがいる本が売られていたとも考えられない。叔父様はラスの事を知らなかったのだろうか。私は開いた途端、彼が現れたというのに。
「大丈夫よ、離さないわ」
疑問を呑み込みながら安心させるように言うと、彼は少し笑みを浮かべ私の背後にある窓を見つめた。
「もう駅が見えてきた。さあ行くよ、リティ」
私の名前を呼びながら差し出された手に手を重ね、椅子から立ち上がった。