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「...甘くて美味しいわ」
冷えた手の中には真っ赤なマグカップがあり、その中にはチョコレートを溶かしたような色の甘い飲み物が入っていた。ココアという飲み物らしい。
列車に乗ってからラスさんが頼んでくれたのだ。
空の遊歩が終わった後、暫く誰もいない駅のベンチに腰掛けていると、どこからか汽笛を鳴らした列車がやってきた。
不思議な列車に乗り込むと、隣町に行くと思いきや線路を越えて空に向かって飛び出したのには驚き思わず口が開いてしまった。
列車の中にはぽつぽつと人が座っている。
暫く立ったまま窓の外を見ていた私たちは空いている席に向かい合わせで座ると、慌ててラスに声をかけた。
「あの...ラスさん、ごめんなさい。お金を忘れてきてしまったの、列車代もないわ」
何も考えずに家から出てきたせいで、最低限の物しか持って来れなかった。大事なお金を忘れてしまうなんてと思っているとラスは「大丈夫だから、もともと僕が原因の旅だからお金はいらないよ」と言ってくれたのだ。
「この列車に乗れる条件はたくさんあるんだけどね、まずは魔法使いであること。そして魔法使いに許された同行者が乗れる列車なんだ。俺がいればチケットはいらない。普通の人間には見えない列車なんだよ、汽笛だって聞こえやしない」
「ん?でも私は見えているわよ」
「僕が同乗を許したからね」
ラスは少し長めの髪を耳にかけて、耳についたアクセサリーを指差しながら口を開いた。真紅の綺麗な雫の形のアクセサリーが揺れている。
「魔法使いの証」
アクセサリーやそれ以外でも、魔法使いは何かを身に付けてそれを魔法使いの証にしているのだとか。
ラスがつけているアクセサリーは一見普通の物だから、誰がどう見ても魔法使いの証には見えなかった。
この列車に乗っている人たちも魔法使いなのだ。乗っている人は少ないが新聞を読んだり、私のようにカップを手にした人もいる。
その中に不思議と目を惹かれる人がいて、無遠慮にしばらく見つめてしまった。フードを深く被り、腕を組んで下を向いている。横には長い杖のような物が立てかけられている。先端にはサファイヤのような宝石が付いていて、とても綺麗だった。
あの方の魔法使いの証?なのかしら。
フードを被った人は私の視線に気付いたのかゆっくりと顔を上げ、こちらを向いた。にっこりと微笑まれ手を振られた私は失礼なことをしていることに気付き、慌てて顔を下げた。
魔法使いって結構いるんだわ。
恥ずかしさを誤魔化すようにココアを口に入れる。少し冷めてしまったが、美味しさは変わらない。
初めて飲んだけれど、ココアはこんなに美味しいのね。ココアに夢中になっていると、ラスが口を開いた。
「さっきの話の続きだけど、僕は魔法使いの国イリュジオンに行きたい。そこに行けば僕のまじないも消えて自由になれる約束なんだ」
ラスは本の中に閉じ込められている。そのせいで自由には移動できないらしい。確かに部屋で見た光景は、狭い空間に閉じ込められているように見えた。
ラス曰く、お腹も空かなければ身体も成長しない、時が止まったままなのだとか。
彼はいつから閉じ込められていたのだろう。もし自分だけが成長もせず、本の中に閉じ込められていると思うと怖くなるが、彼は恐怖を感じているようには見えなかった。
少しの旅仲間。だからか深く事情を聞こうとはしなかった。私たちは友人でもなければ、知り合いでもないのだからあまり深く聞くのは良くないだろう。
「此処からイリュジオンに着くまで7日かかる。この列車が着いたら、歩いて幾つかの国を越えるよ」
7日、短い様で長いわね、なんて考える。
「この列車で魔法使いの国へは行けないの?」
「イリュジオンは常に動き続けているから行き方も毎回違うんだ、面倒だよね」
動き続ける国、なんて不思議な国なんだろう。
ふと、向かいに座るラスの瞳に目がいった。瞳の色が最初会った時の薄紫色に戻っている。その瞳の色を眺めていると、随分と昔にラベンダーの花を見に連れて行ってもらった日の事を思い出した。
今はもういない優しい叔父さまとの思い出。
思い出に少ししんみりした気持ちで、またあの花を見に行きたいなと思っていると、気が付けば口から言葉が出ていた。
「ラベンダーの花」
最初は宝石のような色だと思っていたが、花の色合いのような優しい紫色だ。
「貴方の瞳はラベンダーみたいね」
「...あまり見つめながら異性にそういうこと言わない方が良いと思うよ」
「あら、どうして?素敵な色よ」
「...ありがと」
私から目を逸らしながらお礼を言ったラスは気まずそうに見えた。
私にも聞こえないくらい小さな声でぶつぶつと独り言を呟きながら頬を掻いている。
そういえば、家族と婚約者以外の異性とこんなに話したのは初めてかもしれない。
胸に手を当てる。とくんとくんと、生きているよと私の中で音を立てる。こんなにも美しい異性が目の前にいるというのに、私の心は何も感じないのは彼の見た目が私よりも年下に見えるからだろうか。
愛する人と結ばれるお姫様の絵本に憧れていた幼い私はもういないのだろう。7日過ぎれば、帰らなければいけないのだから。
少しの警戒心も忘れ、窓の外を流れる幾つもの星を見ながら、うつらうつらと眠気に船を漕ぐ。
昨夜は結婚の事を考えていたせいで眠れなかったのだ。
眠気の限界に窓に寄りかかり、重たい瞼を閉じようとすると優しい声が耳に届いた。
「次の駅までまだ時間がある。少しおやすみ」
高くもなく低くもない心地の良い声を耳に、私は睡魔に身を任せた。
「おねえさま」
弟が私を呼ぶ声がする。
辺りを見渡しても弟はいない。私はまだ幼い可愛い弟、ユーリアを置き去りにして家を出てきてしまった。7日といえど、婚約者は許さないかもしれない。家族に何かが起こってしまったら...そう思うと後悔が襲う。
私の最後の我儘を、どうか、どうか許して。
泣きながら懇願する私を家族はじっとこちらを見つめていた。