私と魔法使い
小さな時から決まっていた婚約。
高貴な生まれでありながらも貧しい暮らし。
貴族の地位が欲しいお金持ちな商人。
私より遥か歳上の婚約者は小太りで意地悪な顔していた。出来る事なら自由とまではいかなくても、少しは選べる人生でありたかった。
「いよいよ、明日...」
窓の外にはまんまるの月が雲の間にひっそりと浮かんでいる。
明日の誕生日で十八になる私の元へ、婚約者の男は迎えにやって来る。遠い国に嫁ぐのだ。家族とは皆、離れ離れになるし滅多に会えなくなるのだろう。
数回しか会ったことのない婚約者だが、見るからに横柄な感じだったなと不安にため息を吐きながら、冷めた紅茶を口にした。
ソファに近付くと、最後に整理しようと寄せていた木箱を開く。この木箱は小さな頃からの宝箱だ。大事な物を入れてきていたが、整理はしたことがなかった。
「お母様くれたペンダントに羽ペン。これは何だったかしら...?」
木箱の奥底に1冊の本を見つけた。深緑色の本に題名はない。
「確か、叔父様の家に行った時に書庫の本を1冊くれたのだったかしら?」
その本の内容は覚えていない。深緑色の美しさよりも何故だか心が惹かれて選んだのを覚えている。
手に取って開くと急に淡い光が溢れ、あまりの眩しさに目を閉じた。
「な、にっ!?」
驚きに本を手放すと「あっ」と男性の声が聞こえた。
恐る恐る瞼をあげて見ると、目の前には金色の髪に淡い紫色の瞳をした中性的な顔立ちをした人が立っていた。
驚いて後ろに下がると木箱に足がぶつかりよろけてしまう。
「おっと」
よろけた私の腰に回る力強い手に慌てて体勢を整えると、足元に気をつけながら再度距離を取る。
「あ、あなたは?」
「支えてあげたのにお礼もないの?ずっと待っていたのに、君はなかなか本を開いてくれないから待ちくたびれたよ」
つかつかと歩き勝手にソファに腰掛け、足を組みながら私を見上げる。白いシャツに黒のスラックスと格好はシンプルだ。
「ふ、不法侵入よ!誰なの!?」
「僕は本の中にいたんだ、あの緑色の本」
床に落ちている本を指差しながら話す人物に顔を顰める。もっとマシな嘘がつけないのかしらと思う程、信じられる話ではない。
「...貴方は泥棒ね」
私は使用人を呼ぼうと急いで扉に駆け寄ろうとすると、急にまるで身体が石になったかのように動かなくなった。
「!?」
声も出せず、焦りと恐怖に涙目になる。
「ああ、泣かないで。落ち着いて聞いてほしい。君が信じられないのも分かるけど、僕はあの本から離れられないし触れないからこの部屋から出られないんだ」
そう言って不審者はつかつかと扉まで歩くと、少し先にある扉よりも前に何かに弾かれて尻餅をついた。何もない空間に不審者はペタペタと見えない何かに手をついている。まるでそこに壁があるみたいだ。
「これで信じてくれた?」
ふっと急に体が動くようになり、またよろけた私は何かの力にふわりと体が浮き、ソファに降ろされた。
「ま、ほう」
「そう、魔法だよ」
魔法使いは滅多に人前には姿を見せない。絵本に登場する物語くらい希少な存在だった。本当に存在しているなんてと思いながらも、不思議な力に納得をせざるを得なかった。
「君が本を選んだ時もこの本に惹かれる魔法を使ったんだけど、君は読もうともせず直ぐに箱の中に入れたから出られなかったんだよね」
確かに本を貰った後に婚約が決まって、あまりの衝撃にとりあえず宝箱に仕舞ったままなのを忘れていた。
「君は運があるね、結婚が嫌なら此処から逃してあげるよ」
手を差し伸ばしながらにっこりと笑う魔法使いに無意識に手を差し出しそうになる。
だけれど、私が結婚しなければ貧乏な家はどうなってしまうの?
「...それよりもどうして家の事情を知っているの?」
「ずっと本の中に居たからね、色々と聞こえて来たよ」
婚約者が小太りで性格は横柄だとか。ぽつりと呟きながら私に視線を合わせる。
「...貴方は本から出られたのだから、自分で目的地に行けないの?」
「それが出来たらこんなお願いはしていないよ。さっきも言ったけれど、僕は自分で本から出られないし、触れもしない。本を持つことさえ出来ない、そんなまじないがかけられているんだ」
まじないをかけた人はどんな事情があってこんな酷い事をするのだろう。あまりにも酷い話に顔を顰めていると、魔法使いが私の顔を覗き込んできた。
「家のことを気にしてる?じゃあさ、僕の目的地まで連れて行ってよ、少し遠いけど帰りは送るからさ」
もちろん家のことは気になる。私が数日とはいえ、いなくなってしまったら婚約者は怒るだろうか。私の中で魔法使いの言葉と自分の使命が揺らぐ。
しまいには「最後の旅だと思ってさ」なんて言われたら自然と頷いていて、差し出された手に自分の手を重ねていた。
ずっと家の為に我慢してきたんだもの。
「...少しくらいなら親不孝でも許してくれるかしら?」
「そうだね」
最低限必要な物をお気に入りのトランクに詰める。勿論、あの本も忘れずに。
そして机に一言だけメモを残した。
風に飛ばされないように婚約指輪をメモの上に置いた。机の端に置き去りにしていたぎらぎらの宝石があしらわれた金色の指輪は、今は必要ないから。
窓を開くと、すっかり夜になっていて少し冷えた風がそよそよと流れ込む。
「行こうか?」
こちらに笑みを浮かべながらさらさらした淡い金色の髪が揺れる。
名前も知らない魔法使いの手に手を重ねて、私たちは窓から飛び出した。
この時、警戒心よりも自由を知らないまま結婚するのが嫌だった。名前も知らない魔法使いに着いていく不安よりも逃げ出したい気持ちが強かった。
だから愚かな行為をしていることに、私は気付かなかった。
開きっぱなしの扉から風が流れ込み、カーテンレースを揺らす。燭台の蝋燭は消え、月に照らされて指輪がきらきらと煌めいていた。
少し時間をください。 リティ
「っわあ」
お互いの髪が風に揺れる。
私たちはいま、空の上を飛んでいた。まるで鳥になったかのようにふわりふわりと飛んでいる。少しの恐怖に、繋がれている手をしっかりと握った。
いつ落ちるかもしれない不安が過ぎるが、上から見た真夜中の街の景色は綺麗で、ちらほら灯る光は宝石を散りばめたようだった。婚約者が贈ってくれたどんな宝石よりも美しい。
「怖い?」
「少し、怖いわ」
また手を強く握りながらふと隣にいる魔法使いを見上げる。私より少し背が高い彼。
彼と呼んでいるが、おそらく性別は男であろう。
女性にも見える美しい容姿に、月明かりに照らされた風で揺れる金色はきらきらと輝いている。ふと瞳の色が違うことに気がついた。
私の視線に気づいた彼がこちらを向いた。首を傾げながら口を開いた。
「どうかした?」
「貴方の瞳の色、綺麗ね」
部屋で見た時は淡い紫色をしていたと思うが、今は緑色になったと思えば桃色や青色に。様々な色に変わる瞳に目が離せない。
本で読んだ七色の虹というものはこんな感じなのかもしれない。
「...そう?魔法を使っているからね」
苦笑した彼はあまり自分の瞳を好きでないように思えた。
「そういえば、貴方のお名前を教えて」
「言ってなかったね、俺はラスだよ。君はリティだよね?ずっと本の中で聞いていたから」
「ええ、それでラスさんの行きたい所ってどこかしら?」
ふわふわ揺れる自分の癖のある茶髪を見ながら聞くと、静かに降下し始めた。
「この時間に来る列車があんだ。その中で話すよ」