追放されて獣人の国に来た令嬢ですが、鳥族のイケメンがやたら羽をくれる。
私はマチルダ・サルメント。
サルメント子爵令嬢であり、中央大陸の花と呼ばれるハイデ王国で王女殿下付きの侍女をしていた。
今は……人族からは「蛮族」と恐れられる獣人の国で、なぜか美容院を営んでいる。
「よお、マチルダ。今日も頼むよ」
朝一で店を開けると同時に現れた男に、私は今日も目が潰れる。
毎日飛ぶことで日に焼けなめし革のような肌に、翡翠の輝きを持つ瞳。
波打つ黒々とした髪は、私の常識からすれば男性としてはあり得ないほど長いが、彼の華やかな美貌にはとてもしっくりくる。
ただ、彼の絶世の美男子ぶりと同じくらい目を引くのは、その背に負う鮮やかな翼だった。紺碧の夜空のような深々とした青のグラデーションに、朝焼けのオレンジが層のように連なるそれは、表面にある光沢と相まって美しいの一言だ。
このどこかの宗教画に描かれていてもおかしくないような造形が目が潰れそうな理由だった。
彼はラズハイド、鳥族の青年であり、常連客であり、私がこの獣人の国ゼーンギル連合国にいられるようにしてくれた恩人だ。
私は目を細めながら、彼へ椅子を勧めた。
「おはようございます、ラズハイド様。いつもの感じでよろしいでしょうか?」
「いいや、今日はちょっと派手に行きたいね。ただ口うるさい連中もいるから鋭角ギリギリを狙ってくれ」
「鋭角ギリギリ……髪型の注文でそのような単語を出すのはラズハイド様くらいで……っ!」
ラズハイドが急に私の顎を掬い上げたことで、止めるしかなかった。
鳥族独特の黒々とした目がすいと細められる。
「ラズハイド、だ。ゼーンギルではある程度親しくなったら名に敬称なんて付けないと教えただろう? 敬語も無しだ」
「……ラズハイド、悪かったわ。人間の国では、異性の名前を呼ぶことなんてなかったから」
言い直すと、ラズハイドは翡翠色の目を満足げに細めた。
「だから俺が獣人の常識を教える。君は俺の髪を飾る。立派な等価交換だ。まあ、本来ならラズ、と呼ぶのが一番なんだが。君はとても慎重なようだから、段階を踏んでやろうな」
えらそうなのがちょっぴり腹立つけれど、それはそれで助かっているので文句はない。
ようやく顎から指を離してくれたラズハイドは、悠々と自分のお気に入りの席に座る。
鳥族の彼を含めて、獣人の人々は距離がとても近い。
故郷では異性とふれあうどころか、会話することも少なかった中では、戸惑うことも多い。
鳥族の男性が髪を長く伸ばすことも、初めは驚いていたくらいだし。
だから、私をゼーンギル国へ導いてくれたラズハイドが教育役を買って出て、私に獣人の常識を教えてくれていた。
数ヶ月経った今では、だいぶ慣れたとは思うけれど、きっとまだまだ知らない常識がいっぱいある。
「今日の羽はこのあたりを使ってくれ」
ラズハイドから羽を渡されて、私は我に返った。
いけないいけない仕事の時間だ。
解放された私は、高鳴ってしまう胸をなんとか押さえながら仕事モードに切り替えた。
鏡越しにラズハイドの期待に満ちていた翡翠の瞳と視線が絡む。
今日はどんな髪型にしてくれるかと楽しみにしてくれている。
その瞳を見るだけで、私も指先が疼いてくる。
王女サマに仕えていた時にはなかった昂揚だ。
ラズハイドの豊かな黒髪も、飾りに使う羽も材料として申し分ないものだ。
うん、よし。今日も綺麗に結ってやろう。
私は櫛を手に取って、作業を始めた。
*
私が侍女として仕えていた王女殿下は少々……いやだいぶわがままでいらっしゃった。
がそれをかき消す美しさで、彼女を着飾らせるのはなかなかやりがいのある仕事だった。
しかしある日王女サマのお気に入りという名の愛人に、「粉をかけた」と言いがかりを付けられたのが運の尽き。
木っ端の子爵令嬢、しかも侍女とはいえ下っ端中の下っ端に弁明の余地などなく、あれよという間に国外追放されてしまったのである。
しかも、ご丁寧に友好国への通行を禁止されて。
……え、つまり国外に出て死ねと。
王女サマ、前から水瓶を三階まで持ち運んでくるメイドを愉快そうに眺めていたけれど、つまりあれ、勘違いでもなんでもなく、人が苦しむ姿が娯楽なタイプな方だったのね……。
うわーーー王宮こわいなーーーー解雇されてよかったなーーーー!
やけくそぎみに叫ぶくらいしかできることはない。
世の世知辛さを思い知ったけれど、幸いなのはお父様お母様が連座にならなかったことである。
でも助けたとわかったら、せっかくの子爵位を返上することになる。
助けの手を断った私は、ちょっとでも生き延びる確率が高い行き先として、東にある獣人の国ゼーンギルを選んだのだ。
南と北は封じられ、西は戦争中。行ったら良くて殺され、悪くて手込め。
東しか選択肢になかったのだが、一番は王女サマにこう言われたからだ。
『他人のものを奪う獣のようなあなたは、獣の国がお似合いだわ!』と。
ハイデ王国は人間至上主義で、他の種族を完全に排除している。だから私も獣人の国の様子はうわさにしか知らなかった。
毎日裸同然で暮らしているとか、領地に入った人間は地の果てまで追いまわしてなぶりものにするとか。獣同然の暮らしぶりで、とうてい中央大陸と比べるべきもない未開の土地、だとか。
……けれど、全部伝聞だ。確実に戦争している西よりはずっと良い。
その喧嘩、受けて立ってやろうと私は自分の仕事道具一式だけを持って、隣国のキャラバンに同乗した。
だけど、キャラバンが盗賊に襲われるとは思わないじゃない?
自分の運の悪さをとことん呪いながらも、死か手込めかと覚悟した時に助けてくれたのが、国境の警備を担当していたラズハイド率いる警備隊だったのだ。
後にも先にもあんなに怖くて美しい光景を見ることはないと思う。
彼ら鳥族がそれぞれの翼を広げて空中から弓を放ち、槍を構えて滑空してきたさまは、自分の死を容易に想像させたし、日に照らされる翼はどこまでも鮮やかだった。
ただ、彼らが背に翼を負っている性質上、背中が完全に開いている服装で目のやり場に困ったのも鮮明に覚えている。
『人間のお嬢さんには刺激が強いらしいな! むしろ見せつけないお前達の方がもったいないぞ』
なんて初対面のラズハイドにも、笑って揶揄われた。
獣人という種族に戸惑いと偏見があった私は、助けてくれて感謝こそしても、それ以上近寄ろうとは思わなかった。彼もあくまで仕事だからというそんな態度だった。
風向きが変わったのは、助けてくれた警邏隊員の女性の髪がばっさりと切れていたのを見つけた時だった。
どうやら盗賊との乱戦中に切られてしまったらしい。
それはしょうがない。鳥族の人は男女ともに髪を長く伸ばして背に流していたから。
ただ、この世の終わりのような顔で青ざめていたのを見ていられず、私は切られた部分が目立たないよう編み込み、彼女の抜け落ちた羽を借りて飾り付けたのだ。
『あなたの羽はとても美しいから、そのまま飾りになりますね』
私がそう言った途端、その女性隊員は顔を真っ赤にしたけど。
鏡を覗き込んだ瞬間、喜んでくれたのは間違いない。
我ながら良い感じにできたと思ったら、その場にいる鳥族全員が食いついた。
なんでも鳥族は自分の髪を翼と同じように誇りとしているけれど、だからこそ髪を何かで飾ろうと思わなかったのだという。
髪飾りなんてもってのほかみたいなのが常識だった。
つまり、私が思いつきでした「自分の羽で飾る」というのは、彼らにとって青天の霹靂のような衝撃だったのだそうだ。
『ほう、国外追放されてゼーンギルに? ならうちに来い。あ? 人間に偏見? 人間と違って獣人はもともと多種族の寄せ集めだ。外国人だなんだってめんどくさいことはいわねえさ。美容室やるんなら俺が出資してやるよ、代わりにVIP権寄越せ。儲かるかもわからないのに大丈夫かって? 鳥族全員押しかけるってわかってんだから問題ねえよ』
押しの強いラズハイドの笑顔に押されて、私は彼らの駐屯する街で、あれよという間に美容院を開くことになった。
ちなみにキャラバンが無事に街にたどり着くまで、ラズハイドを始めとした全員の髪を結い上げる羽目になったのは余談である。
ほんっとーに疲れた。けれど、警備隊の人達がとても喜んでくれたからこそ、私はラズハイドの申し出を受けられたのかもしれない。
獣人の国ゼーンギルは、ハイデ王国と遜色なく栄えた国だった。
ともすれば、ハイデ王国よりも栄えているかもしれない。
ハイデ王国で言われていたような、蛮族でもないし、領地に入った人間は地の果てまで追いまわしてなぶりものにもしない。人間は珍しいらしくちょっと驚かれるけど、それだけだ。
見知らぬ土地、見知らぬ種族、常識も全然違う国で、ただ侍女をしていた私が店を開くなんて、もちろん大変なことも沢山あった。失敗なんて数え切れない。
けれど私が店を開くと、鳥族の隊員達は毎日のように来てくれたし、彼らの口コミで鳥族のお客さんは増え続けた。
ほかの種族の獣人達も、独自のおしゃれができないかと相談しに来てくれるようになった。
ハイデ国に居た頃は、着飾らせるべきは王女サマだけで、美しくなることがあたりまえの彼女からお褒めの言葉を頂いたことはない。こんな風に多くの人が喜んでくれることなんてなかった。
ああ、私は喜んで欲しかったのだと、はじめて気づいた。
『君は人を美しくするのが心底楽しいんだ。なら俺みたいな腕の振るい甲斐がある人材逃す手はないだろ? 俺も君を逃したくない。Win-Winってやつさ』
ある日ラズハイドに言われて、腑に落ちた。
この国に来て良かったと、ようやく思えた。
美容院は順調だ。もうハイデ国に戻るつもりもない。
だけど私は、落ち着いて来たからこそ、だんだん育っていく感情を自覚するようになってしまっていた。
*
鳥族は長い髪を誇りとしている。だからこそ、結び上げる事をあまり好まない。公式の場では冠を付ける程度で、髪を流したままにするほど。
ラズハイドの言う「口うるさい連中」がいるのなら、アップスタイルはやめるべきだ。
なら……と私が選んだのはハーフアップスタイルだ。
しかし、サイドは細かく編み込み、まとめ上げた先端にラズハイドが好むきらきらしたビーズを通す。
さらに後ろには、ラズハイドの羽を花のようにまとめたものを飾って見せた。
ラズハイドは派手な方が好きだから、これくらいやっても大丈夫でしょ。
「さすがマチルダだ。古くせえ慣習を守りつつもしっかり派手だ。これなら文句の付けようがないな」
一目で気に入ったとわかるラズハイドの反応に、私は肩の力を抜いた。
ラズハイドは案外厳しい。伝統や慣習に関してだめな部分は真っ先に教えてくれる。
以前、髪飾りを着けようとした時には、はっきりと悪いものと良いものを叩き込まれた。
生花は妥協の範囲、鉱物の場合、加工は最小限のもの。
動物のましてや鳥の羽はもってのほか。
そうよね。自分の羽を髪飾りにするのがやっと受け入れられたくらいだもの。当然よね。
妥協がないからこそ、私も自分の全力をかけて挑み甲斐がある。
なにより、彼が私の手でさらに美しくなるのは嬉しい。
髪型の出来映えを確認するラズハイドを眺めていると、彼が私に近づいてきた。
ドキリとして硬直すると、彼の手が私の髪を滑る。
「着飾らせるのは上手いんだから、自分を飾っても良いんじゃないか?」
至近距離で囁いたラズハイドは楽しげな顔で頭をさして見せた。
我に返った私が距離を取りながらも鏡を見ると、そこには青とオレンジをした羽が一本飾りのように差し込まれていた。
またやられた。と思った私はジト目でラズハイドを見返した。
「なんで執拗に羽を渡してくるのよ」
「俺の都合」
彼はいつからか、ことあるごとに私へ羽を渡してくるようになった。
鳥族にとって自分の羽は自慢だ。だから美容院にすら抜けた羽を置きたくないらしく、大抵の鳥族は自分で持って帰る。
だが、ラズハイドは良さそうな羽だけは、私のところに置いていくのだ。
「でも、羽ってあなたの一部じゃない? 言わば私があなたに髪を渡すようなものだし……」
「だからいいんだよ。それに、俺の羽は良い色をしているだろう?」
「……たしかに、綺麗だけど」
もらった羽は全部自室に飾っている位には、彼の鮮やかなオレンジと青を気に入っていた。
私が渋々同意すると、ラズハイドは笑みを深めた。
「今回のは君に似合うと思ってさ。気が向いたら身につけなよ」
「べつに私は良いのよ、最低限で。お客様を綺麗にするのが私の仕事なんだから」
「んじゃ俺だけが君を飾るってわけだ。ますます良いね」
そういうことでもない! と言い返す前に、ラズハイドはひらりと手を振って去ってしまった。
ため息をついた私は、疼くような気持ちを持て余すしかない。
ラズハイドは当たり前のように店に来て、私が困るたびになんてことない顔で助けてくれる。
自信家な面はあるが、警備隊の面々が彼を慕っていることを私はよく知っていた。
面倒見が良いのだ。たった一人で見知らぬ土地に放り出された娘を、今でも気にかけてくれる位には。
そんなラズハイドの人気が高いことは、店でのおしゃべりを聞いていればわかる。
幾多の女性と浮き名を流していたようなのも。
獣人の美意識が少々違うようでも、鳥族の中でもラズハイドはやはりイイ男に見えるらしい。
そりゃあそうだ。彼の役職を詳しく知らずとも、かなりの仕事ができることくらい知っている。
毎日のように時間を作って美容室に来られるなんてその最たるものだ。
獣人は他種族同士でもかなりおおらかに恋愛をするようだけど、人間が恋愛対象なのかはわからない。
……いいや、ちがう。自信がないのだ。
結局は他国者の私が、勘違いをしてしまうのが怖い。
受け入れてもらっていると感じていても、私は獣人を差別する国にいた。
そんな国からもあっけなく追い出された私にどれだけの価値がある?
みんなが受け入れてくれているのはわかっている。
ここに居たいと思えるほど。
それでも、追い出されたという過去が、ラズハイドに想いを育てられない理由だった。
「ふふふ、侍女時代もこうしてうじうじ悩んでる間に、手柄を全部同僚に取られたのよね」
でも性分なのだから仕方がない。
ここに居たいからこそ、ラズハイドに想いを告げて変化するのが怖い。
朝日の中で、手に持つ羽が艶を持つ。
見れば見るほど美しい羽だ。今まで貰った羽も全部、部屋に飾ってある。
今日使った羽の髪飾りも、もらった羽で作ったものだ。
……うん。ラズハイドも自分に使ってもらうために私に渡しているかもだし。
でも、ラズハイドは自分を飾っても良いんじゃないか、って言ってこの羽をくれた。
今までもらった羽よりも小さくて、あまり目立たなそうだ。もしかしたら、誰も気づかないかもしれない。
「……身につける。くらいなら、いいかな」
髪型の見本にもなるかもしれないし。
色々理由を付けはじめた自分に苦笑する。だって、好きな人に贈り物をもらって、浮かれないわけないじゃないか。
鏡に向き合った私は、自分の茶色い髪にそっと青々とした羽を編み込み始めた。
結論から言うと常連さんに速攻ばれた。
「マチルダ! それラズハイド隊長の羽じゃない! ようやく身につける気になったのね!」
祝福するように拍手してくれたのは、私が初めて羽を編み込んだ女性、タリィだ。
真っ白に近いクリーム色と金色がかった茶色から、年月を重ねたオークのような深い茶色のグラデーションが美しい翼を持っている。
日に透けるような淡いブロンドの髪はもう綺麗に伸び揃っている。
だけど、タリィは私の美容院の常連としてはもちろん友人としておしゃべりに来てくれていた。
その彼女は嬉しそうに、私のお団子髪に差し込んだ青い羽根を、眺めている。
「ねえ、今日はこの髪型にして欲しいわ。きっちり固定すれば、髪が解ける心配もなさそうだし」
「かしこまりました。濃い色の羽が良いと思うけど」
「じゃあこの羽で! にしても今日この日にかあ。しかもこんな良い羽をね。私が一生懸命おしゃれを勧めても頷いてくれなかったのに、どういう心境の変化?」
流れるように今日の装飾羽を渡してくれたタリィだったが、話題はそらしてくれなかった。
「べつに、今日はラズハイドがわざわざ髪に挿してきたから……仕方ないな、と思って」
「あの隊長が髪に挿して!?」
タリィは目をこぼれんばかりに見開いていた。そんなに驚くことある?
私の常識では男の人にわざわざ髪飾りを付けられるなんてことはないけど。
鳥族は結構距離は近い。髪飾りを直し合ったり、仲のいい人同士だと髪を梳かし合ったりする光景は美容院でもよくある。
だから特に他意はないと思っていたのだけど、この様子だと違う?
「タリィ……髪に挿すってどんな意味があるの?」
「い、いやぁ獣人の常識についての教育はラズハイド隊長が受け持っているのだし……私が答えると隊長になにされるかわからないし」
私が髪を梳かしながら問いかけても、タリィはごにょごにょと言葉を濁す。
これは何かある。
ただ、タリィは上司であるラズハイドに頭が上がらない。きっとこのまま問い詰めても口を割らないだろう。
「大丈夫大丈夫! 身につけちゃいけないってわけじゃないし、むしろあなたにとってとても良いことだからさ」
タリィはそう答えてくれたけど、常識がわからない中では自分が知らないことはとても怖いことだ。
どうやって口を割らせるか、私が考えていると店のドアが開いた。
来店したのは、頭頂部に三角の犬耳を持った青年だ。
腰のあたりには赤みがかった深い茶色い尻尾がぶわっと膨らんでいる。
毛並みと同色の髪をした彼もまた、この店の常連の犬族、イステラだ。
ごわついた艶のない毛並みがお悩みだったのだが、私が専用の油を調合しブラッシングを指導したお陰で、素晴らしい毛並みに生まれ変わった。以降ことあるごとに来てくれている。
ただ今仕留めたばかり! と言わんばかりの魔物の死体を持ってこられた時に悲鳴を上げてしまって以降、距離のあるお付き合いになっている。
あとで捌いて食べると美味しい魔物だったと聞いて、親切で持って来てくれたのだと誤解は解けたんだけど。さすがに魔物を捌く技能は持っていないので、謝罪の上で改めてお断りした。
その時のような衝撃を受けた顔をして、彼は私の髪に挿してある羽を指さしている。
「あ、ああんた……そ、それ……! ラズハイドの野郎の……!!!」
獣人はどうしてみんな目が良いんだろう……。せっかく見にくい位置につけたのに、としょんぼりつつも、開き直って答えた。
「うん、ラズハイドに付けられちゃってね。まあ綺麗だからいっかってそのままにしてあるのよ」
私の恋心なんて関係ない。ただ綺麗だから身につけたままにしているだけ。そういうことにしたのだ。
けれどイステラは、泣きそうだった顔を一変させると、ずかずかと詰め寄ってきた。
その形相に私は思わずタリィの髪を梳く手を止める。
「あんた知らないんだな。今日だから身につけたってわけじゃないんだな!?」
「え、そう、だけど、どういうこと? 今日何があるの?」
「イステラ! しっしっ!」
「こんなのフェアじゃねえだろ!」
念を押す確認に私が戸惑っていると、タリィが慌てて指を口に当てて黙らせようとする。
けれどタリィの制止を無視してイステラが話す方が早かった。
「いいか、鳥族では犬族の俺の毛並みくらい翼が重要視されているのは知っているだろ」
「それは、もちろん」
「その自分の一部とも言える羽を他人に身につけさせることなんて、本来ならあり得ないんだ。許可無しに身につけたらぶっ殺されても文句は言えない」
すっと私は血の気が引いた。もしかして、私はとんでもないことをしたのではないか。
「わ、私、知らなくて……」
「ああそうだろうよ。そうじゃなきゃあの鳥野郎がこれ見よがしに渡す羽を人間のあんたがほいほい受け取るわけがない。わかってるよ。羽を渡して身につけさせるなんて、求愛行動というより独占欲丸出しの変態行為だ」
「……え?」
イステラの苦々しげな言葉に、私はぽかんとした。
耳がおかしくなったのかと思った。
立ち尽くしていると、とうとうタリィが立ち上がってイステラに詰め寄る。
「ちょっと犬っころ! 変態行為はないでしょ!? 変態行為は! ラズハイド隊長が人前で羽を渡してなければ、マチルダなんてあっという間にどっかのケダモノに群がられてたんだから!」
「だからって真剣に交際を申し込もうとしているやつらまで怖じ気づかせることはねえだろ! あの鳥野郎が思わせぶりに羽を渡すから勘違いしてるやつら絶対沢山居るぞ!」
「それは隊長の虫除けが効果的だったってことじゃない。自分の弱腰を隊長のせいにしないでくれる?」
タリィの切り返しに、イステラは口をつぐみかけるけれど、唸るように言った。
「俺たちに理解を示してくれる人なんて同族以外にめったにないんだぞ……? それをマチルダが自分で受け取っているからって身を引こうとしたのに、だまし討ちみたいなことをするなんて不誠実じゃねえか」
「私もそう思うわ」
私がぽつりと呟くと、二人の視線が突き刺さる。
タリィは狼狽えたように、イステラは若干の期待を込めて。
「ねえ、マチルダ。違うのよ。えっとねラズハイド隊長はだますつもりなんてなくて」
「……タリィ、なら教えて。鳥族から羽をもらうってどういう意味があるの」
私が有無を言わさず迫ると、タリィはうっと口をつぐむ。
勢いよく割り込んで答えてくれたのはイステラだ。
「求婚だよ。女が受け取れば了承の合図だ。身につけるのなら……それは自分は羽の持ち主のものって証しになる。ラズハイドはあんたが知らないのを良いことに、あんたを『自分の女だ』って勝手に言い張ってたんだよ」
もう我慢できず、私はその場に崩れ落ちた。
頬が熱い。心臓が痛いほど鼓動を打っている。
頭がぐちゃぐちゃになるほどの感情が襲いかかってきてわけがわからない。
ラズハイドは一言も言わなかった。獣人の常識は全部教えてくれたのに!
そりゃあ、鳥族が自分の羽を全部持ち帰るわけだ。万が一にでも他人に身につけさせないようにするためだ。
それを、ラズハイドは毎日のように贈って来たのだ。
あんな気軽に贈られる羽に、こんな重い意味があるなんて知らなかった。
「な、そうだろ? ひでーやつだろう。今日だってハイデ王国の使者が来ているのに、あんたになにも言ってないんだろう?」
「ハイデ王国が!? どうして!?」
「イステラ! それは口止めされていたでしょう!?」
タリィの制止でイステラはしまったという顔をしたが、もう遅い。
私がタリィを睨むと、彼女は心なしか翼をしゅんとしぼませて答える。
「……うん。今日たしかに来ているわ。ハイデの王女さま?が大事な髪結い係だから返して欲しいって言ってきたの。あなたが『ハイデに帰りたくない、見たくもない。王女サマなんてくそくらえ!!!』って常々言ってたから、追い返してやろうってみんなで協力してたんだけど。この駄犬がばらしちゃった」
タリィにじろりと睨まれたイステラは犬耳をへたらせる。
たしかに私はお酒が入るごとに管を巻いて、王女サマへの不満を愚痴っていた気がする。
今考えれば大変不敬だが、そうやって愚痴れるくらいには私の中で徐々にハイデ王国での日々が昇華できていたのだ。
しかも、しかもだ。彼女達はそんな私の愚痴を真摯に聞いて、私が嫌な思いをしないように手回ししてくれたのだ。
私が黙り込んでいるのを、タリィは怒っていると思ったのか、おずおずと窺ってくる。
「もしかして、帰りたかった?」
「ううん、帰らない。今の私には美容院があるし。タリィ達へのヘアメイクは私の生きがいだもの」
王女サマが来ていると聞いても、さっさと帰れば良いとしか思わなかった。
むしろゼーンギルに迷惑をかけるな! という怒りと、自分の過去が迷惑をかけてしまった申し訳なさがある。
でも、私が「帰らない」と明言した瞬間、心底ほっとする二人を見たら、本当に私はこの場に受け入れてもらっていたんだと、肩の力が抜けてしまった。
今まで葛藤していたのが馬鹿らしいくらい。
「よかった。ラズハイド隊長が『マチルダが知ったら自分で追い返そうとして丸め込まれて強制拉致されるだろうから、最後まで言うな』って言ってたの。私も大賛成だったから」
ただ、タリィの話に私は、先ほどの感情のざわめきを思い出す。
この状況はラズハイドのせいだ。私が羽の意味も王女サマの到来についても他人から知った。その上、蚊帳の外に置かれているのも。
「なあ、マチルダ。ラズハイドは酷い奴なんだぜ。お前をだまし討ちして」
「イステラだって、『獲物を渡す』のは犬族の求婚なのでしょう? 知らないで悲鳴を上げてしまったのは悪かったけれど、知っていたらちゃんと断っていたわ」
私が先んじて言うと、イステラの顔が青くなったり赤くなったりする。
そう、知っていたら断っていた。この国には私の知らないことが多すぎる。
こんな求愛わかるわけがない。だって私は獣人じゃないんだから。
「タリィ、今ラズハイドはどこに居る?」
「え、えっと大使館あたりじゃないか、な……? 今日はもう見送る日だし……」
ほんとにものの見事に隠してくれやがって。今すぐ一言言ってやらなきゃ気が済まない!
エプロンを放り投げた私は、ドアを開いて外に出た。
けれどすぐに立ち止まることになる。
ちょうど目の前に停まった立派な馬車から、久々に見たハイデ国風のドレスを身につけた侍女長となんと王女が降りてきたのだ。
ただ、王女サマの衣装はどことなく生彩を欠いていて、髪の結い方もちょっとアレだ。
ああ、やっぱり残った侍女達が同じようにできなかったんだな……。
だって侍女達は私のした提案を全部流用していたのだもの。
侍女達が王女サマに叱責される姿を思い浮かべたら、だいぶ胸が空いた。
王女サマは以前よりも美しく見えなくて、私の想像していた以上に冷静に王女サマと向き合えた。
一方王女サマは私を見るなり、まなじりをつり上げて詰め寄ってきた。
「マチルダっ! ようやく見つけたわっ。早く帰るわよ! あなたが居ないとわたくしが一番美しくなれないのだから」
「サルメント子爵令嬢、王女殿下はあなたを許されるそうです。荷物をまとめて帰宅の準備をなさい」
「あなただってこんな田舎で野蛮で下品な人達がいる場所嫌でしょう? わたくしが連れて帰ってあげるのだから感謝なさい」
この町並みと人々を見て、そういう感想が出るのだな、と私はハイデへの気持ちなどかけらもなくなった。
それに今は彼女達にかまっている暇はないのだ。
「お断り申しあげます。私はすでにハイデ国の民ではございませんので。では急いでおりますので失礼いたします」
一応王族に対する敬意だけを申し訳程度に表して、私はいそいそと脇をすり抜けようとする。
が、案の定護衛の騎士に阻まれた。ちっ。
「マチルダ! わたくしが許すと言っているのだから、あなたは帰るのよっ」
王女サマがキャンキャンわめく。ああもうそれどころじゃないって言うのに!
侍女長もまた、冷徹に突きつける。
「あなたのお父上であるサルメント子爵も帰還を待ち望んでおられますわ。聡明なあなたでしたらその意味がわかりますね」
私が帰らなければお父様たちが苦境に陥るぞって脅しってことでしょ!
抵抗が緩んだのをいいことに、騎士達は私を馬車の方へと押しやっていく。
お父様達には迷惑をかけたくない。でも、このまま帰ったらまたあの地獄に放り込まれる。
そんなの絶対に嫌だ!
それにまだ聞いてない、問い詰めてない。あいつの真意を。
「あら、その髪飾り、とても綺麗じゃない。いただくわ」
王女サマの声が聞こえた。私は反射的に彼女の手を振り払った。
「っ!?」
まさか抵抗されるとは思わなかったのだろう。目を丸くする王女サマと、侍女長達から、距離をとる。
頭の髪飾りを守りながら、私は必死に言い募る。
「殿下、申し訳ございませんが、これはご容赦ください」
「無礼者! 王女殿下の思し召しなのですから、ありがたく献上なさい!」
侍女長に叱責されても、私は首を横に振った。
私はもうこの羽の意味を知ってしまったのだ。なら誰にも触らせちゃいけない。
――触らせたくない。
「これは、鳥族の男性から頂いたものです」
「それがどうしたのですか」
「鳥族の男性から羽を受け取るのは、求婚を受ける意味が、あるのです」
自分から言うのはとても勇気が必要だった。
王女サマも侍女長が目を丸くする。
勝手に頬が熱くなるけれど、私は真っ直ぐ見つめて続けた。
「私は、彼の求婚を受けてゼーンギルの国民になります。だからハイデには帰りません!」
「蛮族の仲間になるなど、恥知らずな! お前達、その羽をむしり取りなさいっ!」
かっとした王女サマが手に持った扇を振りかざして命じ、騎士達が私に向かってくる。
私は羽を守りながらその場にうずくまろうとする。
羽ばたきが落ちて来た。
私の視界に影が落ち、青と橙の夜明けの色が広がる。
捕まえようとした騎士達の間に空から割り込んだのは、ラズハイドだった。
私の店に来た時とは全く違う、きらびやかでかっちりとした衣装に身を包んでいた。
背中に設けられたスリットからはいつもの翼が広がっている。
初めて見る服だったけれど、私がセットした髪は栄えていた。
その神々しい姿は、ハイデ王国の人達の琴線にも触れたのだろう。王女サマを始めとしたその場にいる全員が一瞬動きを止めるほどだった。
ラズハイドは装飾的な槍を構え、いつもの飄々とした雰囲気など微塵もなく、怜悧に周囲を睥睨しながら、私を引き寄せた。
「大使殿、俺の番殿を誘拐されるのであれば、それ相応の対応をしなければならないが?」
「鳥族代表様、その者はハイデ王国のサルメント子爵令嬢ですわ! 自国の民を連れ帰るののなにがいけませんの!」
代表? 私がぽかんと見上げると、ラズハイドは一瞬だけいたずらがばれたような顔をしたが、すぐに王女サマに視線を戻した。
そのうえ、意味深に私が守った羽に手を滑らせる。
「いいや? 俺の求婚を受け入れた時点で、彼女はゼーンギルの国民権を得た。あなたの行為はゼーンギルの国民の誘拐行為に当たる。貴殿らが持って来た事案を考えると、今問題を起こすのは得策ではないのでは?」
「っ!」
王女サマが口をつぐむ中、ラズハイドは翡翠色の瞳をすっと細めた。
「そうでなくとも、鳥族は己の番を奪われれば、一族総出で取り返しに行く。ゼーンギルの民は番の奪還に協力する。……国民全員を敵に回す覚悟がおありか?」
その言葉と共に、店から出てきたタリィが自慢の弓を携え、犬族のイステラも牙を剥き出しにうなり声を上げてくれた。
周囲を見渡せば、顔見知りの近所の人達も、王女サマ達を威嚇してくれている。
王女サマ達はようやく自分達の立場を理解したのだろう。
縮こまる彼女達に、ラズハイドは表情を和らげた。
「心配せずとも、マチルダは我らにとってなくてはならない”友人”だ。安心して国に帰ると良い」
彼の翡翠の瞳が笑っていないのには気づいたのだろう。
王女サマは、青ざめならも、小さく頷いた。
一件落着みたいな空気になっているけれど、私は全くそうじゃない。
曖昧な微笑みで見下ろしてくるラズハイドの胸元を握りしめる。
「ちょっと面貸してくれる?」
ラズハイドの返事を待たず、周囲の声を全部無視して、私は自分の店に彼を引きずり込んだ。
イステラが入って来ようとしたけれど、私は店の鍵を閉めてカーテンも閉める。
そうすれば、表通りの興奮は一気に遠のいた。
居るのは正装姿で佇むラズハイドだけ。
そんな彼は、真っ赤になっているだろう私の顔を見て全てを理解したらしい。
だけど、私は知らないことが多すぎる。
「……鳥族代表ってどういうことよ。警備隊の隊長じゃなかったの」
「間違いじゃないさ。俺が族長の息子なのと、外の国に詳しいからそういう立ち回りをよく任されるだけだ」
「知らなかったわ」
「知っていたら君は逃げるだろう?」
あまりにその通りで、私は唇を引き結ぶ。
警備隊長ですら私は引け腰になったし、始めの頃はここまで優しくするのは、不審な人間の監視だったんじゃないかと思って警戒していた。
……そのあと髪結いを喜ばれているだけだと信じさせられたし、ほだされてしまったのだけど。
きっと先に言われていたら、私は彼の言葉を国からの圧力としか感じなかっただろう。
私が考えたことぐらい、ラズハイドはお見通しだ。
肩をすくめるラズハイドに、私は髪から羽を引き抜いて見せつけた。
「じゃ、じゃあ、この羽は一体どういう意味なの!?『俺の都合』ってどんな都合よ。私が意味を知らないってわかってて揶揄っていたんじゃ……」
羽を持った手を、ラズハイドに握り込まれた。
彼の表情は笑っていなかった。
「からかうために渡すことは絶対ない」
痛くなる寸前の強い力で押しとどめられる。
私の心臓がどくんどくんと鼓動を打ちはじめる。
「俺の都合は、文字通りだよ。あんたが羽を持っていれば、他の男は寄って来ないからな。俺が準備を終えるまでの時間稼ぎだ」
「別に、そんなことをしなくても、人間の私なんてかまわないでしょ」
「犬っころに求愛されて卒倒しかけたのは誰だい?」
ぎくりとした私に、ラズハイドは目を細める。
「君は自分の魅力に自覚がなさ過ぎる。そのうえとても慎重だし、保守的だ。鳥族の羽の重要性を理解しているのに、俺が君に渡す意味を知ろうとしなかっただろう? 薄々気づいていても、人間というしがらみに縛られて、好意をまっすぐに受け止めようとしない」
そうだろう? というラズハイドのまなざしから逃げようとしても、いつの間にか距離を詰められていた。
私が丹精込めて手入れをした黒髪が、私を閉じ込める。
逃げ場がない。
「だから、君が考えるだろう懸念事項を全部排除した。俺が族長の息子だろうと、鳥族の男だろうと、あんたが俺を信じざるを得ないようにな」
「懸念事項って……」
「人間と獣人の婚姻はたしかに多少の障害がある。族長の息子である俺は、多少は相手を選ばなければいけない。だが、今日の会合で鳥族の古い連中は君の腕を認めた。君が人間だからと反対する者はいない。言わば君は君の力で状況を打開したわけだな」
まさか今日の髪型のオーダーがそんな大事な会合に出るためのものだとは思わなかった。
唖然としていると、飄々とした鳥族の野郎は、にいっと笑って見せる。
「君がハイデ王国に置いてきた悩みの種も、さっきのやりとりで綺麗さっぱり解消できただろう? 君は国民権を得られる上に、もう帰る必要はない。もし父母が気になるのであれば、鳥族との優先貿易権を渡せば変わるだろうな」
ラズハイドに、どうだ? と言わんばかりに解決策を蕩々と語られて、私はむむむと形容しがたい気持ちを抱えるしかない。
たしかなのは、私がぐるぐる悩んでいたものを綺麗に払拭してくれてしまっているのだ。
「……それ、逃げないように囲い込んだ、とも言うんじゃないの?」
「だが、ここまでしないと、君は俺を見てくれないだろう?」
私の手からすっと羽を取り上げたラズハイドは、その羽を改めて私に差し出している。
「さて、マチルダ。鳥族と人間としての壁も、他国民としての垣根もなくした今、この羽を受け取ってくれるかい?」
吐息が触れそうなほど近くで、じっと見つめられる。
私の知らない場所で、知らない部分で、彼は用意周到に私を逃がさないように立ち回っていた。
翡翠色の瞳は柔らかくとも、そこに灯るのは熱く燃えるような感情だ。
触れたら焼けてしまいそうな強くほの暗い色に怯みそうになる。
心臓がうるさい。自分の瞳が熱くなる。
滲んだ視界のなかで、ラズハイドが戸惑うのが見えた。
「マチルダ? どうして泣いてる?」
「……わたし、は、鳥族じゃ、ないわ。人間、なのよ」
ぼろぼろと制御できない涙が頬を伝う。
勝手にやったことに腹立ちがあっても、ラズハイドがこれ以上ないほど愛情表現をしているのはわかっているのに。
羽を渡されることが愛情だとしても、信じられないのだ。
悔しい。悲しい。怖がる自分がいる。
だって――……
「あなたから、言葉をもらっていないものっ。でなければわからないわ!」
私は目を丸くするラズハイドの手にある羽をむしり取ると、ぎっと睨む。
「こんなに沢山のことをされて、好きにならないわけがないじゃない! あなたを飾るのは私だけがいい。一番側にいるのは私でいたい。でも私には、あなたにあげられる羽がないの……っ」
こぼれる涙が邪魔だ。袖で乱雑に拭う。
「私が鳥族になれないように、あなたも、人間にはなれないわ。だからあなたが欲しい物が、私にはわからない。人間のことが、わからないあなたに、私は、不安になるの。それでも、あなたは、答えて、くれるの」
自分の引きつる声が酷くて、嫌気が差す。
涙は次から次へと流れてきてしまって、前が見えない。
これはもう仕方がない。だって私が一生懸命強がっていた殻をラズハイドがご丁寧に1枚1枚はがしていってしまったのだ。
ふっと目の前が暗くなったと思ったら、力強く抱きしめられていた。
硬い胸板に体が押しつけられる。
「愛してる」
ひゅっと息を呑んだ。
私が涙が引っこんで顔をあげると、ラズハイドと目が合う。
「好きだ。君だけがいい。君が俺を見てくれるようになるのなら、どんなことでもするさ。だが君の言うとおり、俺は人間の愛情表現には詳しくないから、他にどんなことをするんだ?」
「なんでそんなに、嬉しそうなの」
あっけなく、ずっと欲しかった言葉が手に入り戸惑うしかないのに、ラズハイドは心底嬉しげに笑うのだ。
「あんたが初めて俺を求めてくれたんだぜ? ずっとずっと欲しくてたまらなかった女が手の中に落ちてきて、舞い上がらない男がどこにいるよ」
ラズハイドは私が羽を持つ手を、愛おしげになぞる。なぞられた箇所からぞくぞくとした甘い震えが広がった。
「マチルダ、他になにが欲しい?」
もう完敗だ。
この美しい鳥に捕まってしまったことを認めた私は、彼の体に身を預ける。
「……あなたの羽を、私につけて」
「それから?」
すっと、頭に羽が挿されたあと、私は顔を上げて背伸びをする。
「キスをして」
ラズハイドは目を細めて言うとおりにしてくれた。
*
ハイデ国の大使は、大人しく国へ帰ったようだ。
お父様から届いた手紙では、領地は平和だという知らせと共に、大量のじゃがいもが送られてきた。
自分ではマッシュポテトにして食べて、お世話になっている人達に配ったら喜ばれた。
私の美容院は今日も盛況だ。
タリィも相変わらず常連でいてくれる。
やっぱり、「羽を褒める」ことは口説き文句の定番だったようで、彼女が初対面で照れた理由がようやくわかってすっきりした。
ラズハイドに口止めされていた彼女も、女しか知らない鳥族事情をこっそり教えてくれるようになった。
イステラも頻度は減ったけれど、来てくれていた。
ただ、私の髪に常に飾られている青とオレンジの羽を見るたびに、泣きそうになるのはちょっとだけ申し訳ない。
最近増えた品の良い鳥族のお嬢さんやご婦人の客も、私が付けた羽を見ると曖昧な笑みを浮かべる。
どう思われているのか想像はつくのだけど、これは慣れなきゃいけないことなんだろう。
今日のお客さんである桃色と黄色が愛らしい羽をした鳥族のお嬢さんは、三つ編みをたいそう気に入ってくれたようだ。
けれど、それよりも興味津々なのは、私の髪飾りらしい。
「店主さん、あの、あの、そのラズハイド様の番なのですよね。ラズハイド様ってどのような……」
「あーえーっと」
期待の籠もった目で迫ってくる彼女に私がたじたじになっていると、ずっしりと肩に重みがかかる。
予想がついた私が半眼で見上げると、背中から腕を回したラズハイドが小首をかしげていた。
ラフな姿は明らかに寝起きの寛いだ様子で、けだるげな様がどこかなまめかしい。
「俺の番になにか用?」
お嬢さんは顔を赤らめて、そそくさと去って行った。
私はのしっと体重をかけてくる彼を睨む。
「お店に降りてくるのなら、きちんとした格好でってお願いしたはずだけど?」
「きちんとするために降りてきたのさ。マチルダ、髪を結ってくれ」
ラズハイドは離れぎわに、私の頭頂部へ唇を落とす。
たしかにキスをしてって言ったけど! ことあるごとにキスをしてくるようになって心臓がもたない。
嬉しくないわけじゃない。衆目の前だと恥ずかしいだけで。
毎日髪を結ぶのは、以前と変わらないけれど、彼が私の家を帰る場にしてくれたことで、知らなかった部分も沢山知ることができた。
今でも、信じられないような気持ちだ。
「いつもと同じでいい?」
「ああ」
私はラズハイドの美しい黒髪を手に取って、梳き始める。
ふと視線を感じて顔を上げると、鏡越しにラズハイドと目が合った。
「今日の羽も良く似合うな」
鳥族流の褒め言葉に、私はありがとうと返そうとしてちょっと苦笑する。
見下ろすのは、今も彼の背にある青とオレンジの美しい翼だ。
「やっぱり、私にもあなたに贈る羽が欲しかったわ」
「そうかい? あんたが俺の髪を結うことがその代わりだと思っていたが?」
まさにそのつもりで結んでいたから、私は気まずく視線をそらす。
「それに、俺は君に翼がなくて良かったと思うぜ」
「なぜ?」
なくて良いとはどういうことか、戸惑う私に、にんまりと笑ったラズハイドは、鏡越しではなく振り仰いだ。
「あんたが飛んで逃げていく心配をしなくてすむ。ま、あったとしても全力で追いかけるけどな!」
からっと笑いながら、とんでもないことをのたまうラズハイドに、私はタリィが教えてくれたことを思い出す。
『人間のあなたは不安だろうけど、鳥族はこれ! と決めた人と一緒になれたら、死に別れるまで離さないし、何でもしてみせるから。浮気はほんとうにやめてね』
「……あなた、つくづく私を離す気がないわねえ」
「もちろんさ。だから君色に染めてくれ」
無防備に髪と翼を晒すのは、無条件の好意の証し。
「ええ、わかったわ。あと、お願いがあるのだけど……」
私が言い出した途端、期待に満ちた目を向けてくるラズハイドに私は囁く。
「鳥族の愛情表現の仕方を教えて」
身をかがめて、瞬く彼の唇をかすめ取る。
浮気は、するつもりはないし、そもそも人を好きになることだってもうないだろう。
私が恋をしたのは、美しくて独占欲がだいぶ強い、頑張り屋の鳥族だから。
いつもよりもだいぶ時間をかけて仕上げた髪で、ラズハイドは心底上機嫌で仕事に行った。
《了》
2024.02.08
『悪役令嬢? いいえお転婆娘です〜ざまぁなんていいません〜アンソロジーコミック』2巻
に漫画原作として参加いたしました。
作画は如月芳規先生です。どうぞよろしくお願いいたします!