第二の悪魔②
「そんなもの。本当に怪我をしたかも分からないではないか。大体、癒やしたというのも公女以外は誰も見ていないのでは、なんの証明にならないでしょう」
「わたくしが手に怪我をしていたことは、治療院に行けば分かることかと思います。まずそちらで治療をいたしましたから。聖女様のお力に関しては、わたくしと共にいた侍女達も目撃しております。聖女様は淡く綺麗な緑色の輝きで掌を染め、わたくしに慈悲を施してくださいました。そうだわ、聖女様の手に紋様が浮かんでおりました。ほら、あのように」
クリスティアが視線で示した方へと釣られるようにして皆が視線を向ければ、詠美が手を覆っていた手袋を外す。
そしてその右掌を見せれば、そこには紋様が刻まれている。
アリアドネの掌に浮かび上がった紋様を詠美が書き写したものだ。
「聖女様!この紋章はいつ!?」
「昨夜、彼女の傷を癒やしたときに突然、出てきました」
「間違いありません!聖女様が宿すとされている神の紋章です!」
「ほ、本当に?」
「これ以上の疑いは無礼ですぞ、ネモイ国王陛下。紋章の形は秘匿され、歴代の教皇にのみ閲覧できる聖書の原本にだけ記されているのです。聖女様ですら、その紋様を知ることはないはずです。本当に素晴らしい、力が発現なされたのですね!」
その紋様を間近で見て興奮気味に喜ぶイオンに、レアは真っ先に疑った自分を恥じ入るように黙る。
こうなればもう、疑いようもない。
「ですが力はその時だけしか使えませんでした。まだ不安定なようです。事実、この紋章は昨日より薄くなっていますし」
「いいえいいえ、それは既に些末な問題です聖女様。一度でも力が発現したということが重要なのですから。これからきっと良き方向へと向かって行くでしょう。さぁ、皆様。この素晴らしい奇跡に乾杯を致しましょう。マザー・ジベル、聖水を」
今の今まで聖女としての片鱗を詠美に見いだせずに気を揉んでいたので、イオンにとっては全てが真実に見えるのだろう。
よくよく見られることのないように、素早く手袋を嵌めた詠美の挙動を不審がっている様はなく、浮かれた様子でジベルに指示を出す。
頷いたジベルは、近くのテーブルに置かれた杯をトレーに乗せて恭しく持ち上げる。
その上に乗せられた銀の杯をイオンが持ち上げて詠美に渡し、金の杯を自身が持つ。
そして残り四つの銅の杯が乗せられたトレーをイーデス、ゼス、アルテの順番に差し出して、一つ余った杯をジベルが持つ。
水差しを持った幼い修道女が杯の中に揺蕩う聖水を注ぐ。
クリスティア達も近くに居た修道者達からそれぞれに小さな銅の杯を渡され、水差しの聖水を注がれる。
「では乾杯」
イオンの合図で詠美や聖職者達は一斉に、杯を持ち上げ中身を飲み干す。
クリスティアも杯の液体を一口、口に含み飲み込む。
聖水と銘打たれているが、どうやらただの水のようだ。
アデスが祝い酒かと思って一気に飲み干し、酒でなかったことに不満そうに顔を顰めていれば、ガラン!という大きな音がホールに響き渡った。
見ればジベルの隣にいたイーデスの手から空の杯が落ちたらしく地面に転がっている。
どうしたのかと皆の視線がイーデスへと集まれば、彼は苦しそうに喉を掴む。
そして、その唇を大きく開く。
「ゴフッ!」
それは胃からではなく、肺からなにかが溢れ出るような音であった。
そしてその溢れ出たのは赤だ。
真っ赤に、鮮やかに、溢れた血。
それを受け止めようとして両手を差し出したイーデスは、自らの口から出て来たそれに染められた手を見て、きょとんとした眼差しを向けている。
なにが起きたのか理解していないその眼差し。
だがすぐに苦しげな表情を浮かべると、驚き自分を見ている者達を見回し、血塗れの手を伸ばす。
「だ、だずげ、せいじょ」
その苦しみから逃れようと、足を一歩踏み出し詠美へとの伸ばされる手。
しかしながらその言葉は最後まで紡がれることはなく、踏み出した足はそのまま崩れ落ちるように曲がりドサリという音を立てて、床へと倒れる。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
水差しを強く抱きかかえた幼い修道女が、悲鳴を上げる。
その声に思考を、動きを、時を止めていた者達は一気に動き出す。
「イーデス大司教!」
「だ、誰か治療師を!」
「聖女様、こちらへ!」
「なにが起きたっていうんだ!」
各々が各々の考えていることを口に出し、混乱し、ホールは騒然とする。
倒れたイーデスから逃れようと後退る者、水が飛び散り床に転がった銅の杯を蹴飛ばす者、近くに居た修道女を抱きかかえて距離を離す者。
荒らされる事件現場をクリスティアだけは冷静に見渡しながら、杯を近くの机に置くと誰一人として近寄らないイーデスへと近寄る。
「治療師はもう必要ございませんわ。イーデス大司教は亡くなられております」
瞬き一つもぜずに見開かれた瞼。
拭われることのない、血の滴り落ちる唇の近くへと手の甲を差し出したクリスティアは、息が無いことを確認して告げる。
「も、黙示録だわ。悪魔が封印を解いて……!」
「マザー・ジベル!」
ポツリとジベルが震えながらに呟いた言葉。
茫然と呟かれたその言葉は思っているより大きく、周囲に反響し広がる。
その声を聞いた大司教、修道者達の表情が緊張で強張り引き攣る中、イオンが制するように大きな声を上げたので。
ジベルはハッとしたように息を呑み、俯き黙る。
「兎にも角にも、現場は保存されなければなりません。これは明確な殺人事件なのですから。警備兵と遺体を解剖出来る者を手配しなければ……殿下、外のジョーズ卿に声を掛けておいてくださいますか?」
「あぁ、分かった」
神の国でこのような事態は前代未聞だ。
誰もが顔を青くし狼狽える中で、冷静に指示を出してくれる者(クリスティア)にただ縋るような視線を向けている。
頷いたユーリが外で待機していたジョーズ卿へと声を掛ければ、数名の騎士がホールへと入り現場が保存される。
聖女降臨というかつてないほどの名誉と栄光の中で終わるはずだったパーティーは、不気味なほどの静寂の中で終わりを告げた。




