異世界転移の少女②
「それでね、私のフォロワーさんがみぃちゃんのイラスト見て大興奮しちゃって!私も友達になりたーーい!って羨ましがられちゃった!」
「そうなの?」
いつも通りの何気ない会話だった。
頼まれて書いたイラストを友人がSNSに投稿したら、その反応が良かったらしく。
ニコニコと嬉しそうに報告するのを詠美はなんとなく聞いていた。
「みぃちゃんもSNSやればいいのにぃ。絵が上手いんだから絶対有名人さんになれるよ」
「興味ないかな。スマホを弄ってる時間があるなら絵を描きたいし」
上手くなりたいから、誰かに見せたいから、そんな気持ちで詠美は絵を描いたことはない。
心の中にずっとある、なにかを描きたいから描き続けている。
それがなんなのか分からない。
分からないからずっと描いて描いて、そのなにかを掴もうと色々なモノを描き続けているだけだから、誰かに見せたいという欲求があまりない。
「みぃちゃんの絵、私が描いたフリして全部投稿しちゃうよぉ」
「ははっ、好きにしていいよ」
この友人が詠美に描かせるのはいつだって、よく知らない物語のヒーローやヒロイン達だった。
喜怒哀楽の溢れる人物達は描いていて楽しいけれども、詠美が描きたいものではない。
詠美がどうして絵を描くのか理由を知っている友人は、自分の意見が通らないことを知ってはいたものの勿体ないと、拗ねたように唇を尖らせて足を止める。
友人が人の功績を奪うような人物ではないことを知っている。
その尖る唇を見て、詠美は苦笑いして先を歩く。
拗ねたら肩を落として、足を止めるのはいつものこと。
だから詠美は少し先を歩いた後、振り向いて行くよっと一声掛ける。
そうすれば、彼女は鳥の雛のように満面の笑みを浮かべて詠美に駆け寄り、また隣を歩くのだから。
「み、みぃちゃん!!」
だが詠美が振り向く前に聞こえてきたのは、切羽詰まった悲鳴のような声。
驚いて振り返れば友人がなにかに吸い込まれそうになっている。
穴が、空間に丸い穴が空いている。
黒くて底が見えないほどに暗い穴。
あれはなんだ?
どういうことなのか!
訳が分からないけれどもそれはまるで、なにかの口のように友人を飲み込もうとしている。
「や、やだっ!みぃちゃん!助けて!!」
手を伸ばし泣き叫ぶ友人を見て、鞄をその穴に向かって放り投げた詠美が、友人を助けようと手を伸ばしたのは当たり前の行動であった。
鞄は穴へと音も無く、吸い込まれて消える。
友人もそんな風になってしまうのか。
全身を巡る恐怖心に、友人の手を掴んだ詠美は渾身の力で引っ張り出そうとする。
絶対に離すものかと歯を噛み締めて、手から腕へと掴む場所を変えれば、吸い込まれていた穴から友人の体が少し出てくる。
このまま引き摺り出そう。
もう一度、肩へと向かって掴む場所を近付けようとするが、同時に吸い込む力が強くなり踏ん張っていた足のバランスを崩しそうになる。
一体なんなのか。
なんであの穴は友人を連れ去ろうとしているのか。
腹が立った。
無性に腹が立って仕方がなかった。
それと同時に、彼女は駄目だと思った。
彼女はか弱い存在だ。
鳥の雛のように誰かの後を付いて歩くような子で、誰かが前を歩いてあげなければ不安で立ち止まってしまう子。
あの穴が何処に繋がっているのか分からない、もしその先に待つのが孤独ならば……寂しがり屋の彼女は耐えられないだろう。
だから、だから詠美は彼女の腕を強く掴むと、まるで背負い投げをするかのように渾身の力を込めて彼女を引き抜こうとする。
「きゃっ!!」
詠美の背に抵抗感のなくなった体が覆い被さるような感覚。
穴から抜け出したのだと瞬時に理解して、その体を横へと落とす。
友人が地面に転がるのが視界の端に映る。
勢いのままに落としたから怪我をしたかもしれない。
申し訳ない気持ちを湧き上がらせながら詠美は、彼女を庇うように穴へと近付くように一歩、後退る。
体がふわりと浮く感覚。
すぐに振り返って手を伸ばす友人を見て、詠美はニッコリと微笑んだ。
「みぃちゃ!!」
詠美はその手を掴まなかった。
なんとなく思ったのだ、誰かが行かなければならないのだと。
そうしなければ、この誰かを飲み込もうとする穴は消えない。
誰も救うことはできない。
だから詠美は彼女が一人で行くくらいならば、彼女と共に行けないのならば、自分が行くと決めていた。
例え此処に戻れなくなったとしても。
自分ならば何処へでだって生きていける。
筆と絵の具、絵を描くこの手さえあれば、十分に満足して生きていくことが出来る。
だからどうか悲しまないで欲しい。
「大丈夫だから、ちょっと出掛けてくる」
彼女に後悔だけは残さないように。
微笑みを浮かべたまま、近くに買い物にでも行くかのように軽い口調で詠美は別れを告げる。
その声が友人に届いたかは分からない。
暗闇に空間が閉じる瞬間に見えたのは急ぎ立ち上がり、泣きながら駆け寄ろうとする姿。
(あぁ……胸が痛い)
その姿が閉じるように消え、辺りに広がるのは静寂と闇。
その中を詠美はただ漂っている。
無重力とはこういう感じなのだろうか。
浮遊感はあれども、上ったり下がったりという感覚はない。
ただその場に浮いているだけ。
目がまだ慣れないせいで、暗闇でしかないことに湧く恐怖心。
このまま此処に居ることになってしまったらどうしよう。
絵を描けないのだとしたら。
なによりもそれが恐ろしいことだと目を凝らすようにして辺りを見れば、すぐ近くに先程投げ入れていた鞄を見付けて安堵する。
この中に画材を入れているのだ。
鞄を引き寄せてチャックを開き、中を見れば教科書とスケッチブックが数冊、そしてステンレスの筆箱。
筆箱の中には濃さの違う鉛筆が数本と、それを削るための小さなナイフ。
絵の具を置いてきてしまったのは失敗だった。
他に何が入っている物はないかと探るように鞄を漁れば、キャラクターの描かれた小さな色鉛筆が底に入っているのを見付けて、ラッキーだと薄く笑う。
それは友人がジュースかなにかの景品で付いてきたものを、無理矢理鞄に入れたものだった。
その時は使わないからいらないのにと、ブツブツ文句を言っていたのだが。
中に入れているのを忘れていて良かったと、思わぬ所で日の目を見ることになった色鉛筆を撫でる。
この黒しかない世界で、色があることに安堵する。
しばらくはこれで問題なく過ごせそうだ。
此処は暗闇しかないので、描くモチーフは頭の中で思い浮かべるしかない。
包まれている静寂に瞼を閉じ、なにを描こうかと思い描く。
もしかするとこの世界でなら、自分が描きたいと切望しているなにかを描けるかもしれない。
波が打ち寄せる断崖の上に立ち、遙か先の雲の切れ間から差し込む光を見るかのように。
ずっと描きたいと切望しているあの光が待つ場所へと飛び込もうと、息を思いっきり吸い込んだところで、頬を撫でるように風が通り過ぎる。
「うっ!」
その風は突如として大きく強くうねり、詠美を何処かへと吹き飛ばそうとする。
まるで台風の中に立っているかのように。
風に抗うことができず瞼をギュッと閉じて、鞄が飛ばされないようにと強く抱き締めていれば、フッと風が止み浮遊感が消える。
真っ先に詠美の耳へと入ってきたのは、ざわめきであった。
閉じていた瞼の先に感じる眩い光。
ゆっくりと瞼を開けばそこに暗闇はなく。
ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光が辺りを照らしている。
その多彩な色の眩しさに瞼を細めて、俯いていた顔を上げる。
そこにあるのは友人と歩いていたアスファルトの道ではない、大理石のような白く滑らかな床に木製の椅子が並ぶ教会のような場所。
黒とは正反対の白の世界で、多くの人々が詠美を見つめ驚き、戸惑っている様子であった。
だがすぐに湧き上がるような歓声が広がる。
見知らぬ場所、見知らぬ人々。
喜び、興奮し、涙を流し、こちらの都合など一切無視をする者達の感極まった感情をぶつけられ、戸惑うより先に不愉快な気持ちが詠美の胸へと押し寄せる。
この場から逃げ出さなければ。
得体の知れない恐ろしさに後退る足。
だがその背に、なにかがぶつかり足が止まる。
振り返れば老齢の男性が眼前に広がる者達と同じように、喜びの表情を浮かべて、詠美の肩を掴むと告げる。
聖女様が降臨されたのだと。