逃走劇④
「び、びっくりしちゃった。凄いリアル。上手だね」
「昔から絵を書くのが好きで、学校でも美術クラブに入ってるんだ。それに此処は東京みたいに明るくないから皆、騙されてくれた」
「へぇーー羨ましい。私は学生の頃、お兄ちゃんに無理矢理空手部に入らされたわ。護身術は身を守るために必要だ!って言われて」
ま、サボり気味だったし自分が死んだ理由が理由なのであんまり役には立たなかったけれど。
人間、危機的状況になるとそう簡単に技を繰り出せないとは、死に際に学んでも遅い教訓である。
えへへっと笑い合う穏やかな会話だったが、ハッとしたようにアリアドネはそうじゃないと頭を振る。
そんな話しをしてどうするのか、少女が本当に聖女であるのか確認をしなければ!
もう半分以上は疑ってはいないものの事実確認として、本当に異世界から転移してきたのか聞こうと、アリアドネは早鐘を打つように動く心臓を落ち着かせるために、胸に手を当てる。
「あ、あの」
「そう。それで?君は誰なの?」
だがそう意気込んで問おうとした言葉は、先に問われた疑問によって打ち消される。
それはアリアドネが聞こうとした台詞でもあった。
ここにきてようやく、少女から警戒心の込められた眼差しが向けられていることに気付く。
じっとアリアドネを見つめる黒い瞳。
射抜かれそうな鋭さのあるその眼差しに、息を詰めるように言葉を飲み込んだアリアドネだが、真っ直ぐにその瞳を見返す。
アリアドネは知っているのだ、少女の世界のことを。
ならばアリアドネから自分のことを話さなければ。
先に明かすことが少女の不信感を拭い去ることになる。
それにアリアドネも知ってもらいたい。
自分が確かに同じ世界に生きていたのだということを。
ふぅっと息を吐いたアリアドネは緊張して震える唇を開く。
「私は、アリアドネ・フォレスト。そして前世の名前は小林文代、あなたと同じ日本人なの」
胸に置いた手を握り締めて告げる。
疑われるかもしれない、信じてもらえないかもしれない。
それでも事実なのだと震え、告げる言葉。
見つめ合う視線の中には訝しんだ様子はない。
驚いた表情で瞼を少し見開いた少女を見て、アリアドネはなんだかフッと泣きたくなった。
アリアドネ・フォレストの人生を歩んできたことに後悔はなかった。
死んでしまったのだから仕方がなかったのだと、前世に置いてきてしまった人達は彼女が居なくなった世界できっと、少しだけ寂しさを抱えながらも穏やかに過ごしているに違いないとそう思っていた。
でも自分が殺されたのだと思い出したとき。
唐突に終わりを告げてしまった小林文代の人生はもっと先に、長く続いていたかもしれないと考えてしまったときに……割り切れない思いがこの胸に湧き上がってきた。
私はどうして殺されなければならなかったのか。
誰が私を殺したのか。
私の遺体を最初に発見することになっただろうお兄ちゃんは……どうなってしまったのだろう。
前世に残していった人達は深く悲しみ、苦しんでいるかもしれない。
酷い人生を歩んでいるかもしれない。
自らの死を思い出してからずっと、繰り返し繰り返しそんな恐怖を考えている。
だから知りたかった、知るべきだと思った、知ることの難しい前世に置き忘れてしまった答えを……大きく報道されていたはずの事件の推移を、もしかするとこの少女は与えてくれるかもしれない。
クリスティアも同じかもしれないと思ったときにも感じた懐かしい前世の気配。
いや、それよりももっと、鮮明に明確に目の前に浮かぶような気配に……胸が締め付けられる。
「えへへっ、あなたに会えてちょっと嬉しい」
とりとめのない日曜日の朝に、寝起きのぼんやりとした頭で見ていた番組。
お母さんが休みの日だからってダラダラしてと小言を言いながらコーヒーを入れてくれる。
お父さんが倒れされる怪人を見ながら今の攻撃は当たっていたか?と疑問を呟いている。
そんなただの日常でしかない何気ない会話を思い出し……胸から懐かしさが溢れ出てきて、声を上げて泣きたくなる。
クリスティアは前世でも浮き世離れしていたせいか、そういう話しは噛み合わないのだ。
潤んだ瞳で眉尻を下げて笑うアリアドネ。
本当に、本当に嬉しいのだ。
文代が居た世界につい最近までいた。
文代が居なくなったくらいでは、なにも変わることのない世界だろうけれども。
それでも、なにかが変わったのかもしれないそんな世界に。
その世界から弾かれてようやく気付いた。
愛おしい世界だったのだと。
当たり前に側に居た人達が恋しいのだと。
涙を溢れさせないように目元を袖口でゴシゴシと拭うアリアドネを見つめていた少女は、乱暴なその手を止めようと腕を伸ばす。
「まぁ、可愛らしいお客様を連れて来たのねアリアドネさん」
「クリスティー!」
その手が触れる前に、現実に引き戻すような声が響いて少女の肩がビクリと跳ねる。
声のした方向を見れば、微笑みを浮かべたクリスティアがルーシーを連れて戻ってきていた。
ルーシーの眉間に皺を寄せた些か険しい表情を見て、アリアドネは焦る。
よくよく考えれば見知らぬ人を主人の部屋へと招き入れているのだ、少女を探していた人達から隠すためだとしても、メイドとしてはあるまじき行為。
「あのね、実は外で散歩してたら彼女に会って!」
「すいません、お邪魔してしまって。すぐに出て行きますから」
「あら、お気になさらないで。外はまだ騒がしいのですから、ゆっくりしていってください。それに折角こうしてお会いできたのですから、まずは自己紹介をいたしましょう。アリアドネさんの友人でクリスティア・ランポールと申します。どうぞクリスティーとお呼びになってくださいね」
弁明しなければと、しどろもどろで説明するアリアドネを庇うように、少女が前に歩み出る。
アリアドネは主人と言っていたので、てっきり勝手をしたことを怒られるのかと思ったのだが。
クリスティアは怒る様子はなく、アリアドネを友人だと言う。
本当に友人なのか?
のちのちに怒られるのではないかと少女は訝しげにアリアドネを見るが、彼女は安心させようとしているのか、うんうんと頷いている。
結局のところ二人の関係性がよく分からないと少女が思っていれば、クリスティアが胸に手を当てて挨拶をする。
「そして別の名を、愛傘美咲と申します。日本という遠い世界からいらしたことを歓迎いたします。あなたのお名前をお伺いしても聖女様?」
彼女もまた前世の記憶があるのだ。
告げられた名、そして自分が聖女だということを確信している緋色の眼差し。
どうして分かったのか。
驚いた表情を浮かべながらも、少女は告げる。
自らの名を。
「詠美……冥加詠美っていいます。詠美って呼んでください」




