雨竜帝の宮②
「雨竜帝にこのようなことをお聞きするのは心苦しいのですが……黒族の現在の首長である大巫女様は応竜帝の母君に足を折られたとお聞きしました。それほどお心の激しい方だったのですか?」
「……えぇ、前応竜帝のこととなるとそれは見境がなくなるほどに。母が亡くなった原因も前応竜帝が皇后の座を母に与えようとしたからです。とはいえ私も幼い頃のことであまり記憶にはないのですが……鮮明に覚えているのは私の母が亡くなりその葬儀を終えたあと、当時皇太子妃だった蒼龍妃に慰められながら眠りに着いた頃に、恐ろしいほどの怒鳴り声で目が覚めたのです。何事かと瞼を開いた先には廃后が私を差し出せと大声で怒鳴っておいででした、自分が母の代わりとなって私を育てると……蒼龍妃は私をその胸に抱いて身を挺し、守ってくださっていたのです……私はあなた達の青い鳥だと」
「青い鳥?」
「えぇ、幸せを運ぶ青い鳥だと」
それは奪われまいと息が苦しくなるほどの強い抱擁であった。
雨竜帝を廃后に渡せばどうなるかは火を見るより明らかであったのだ。
『大丈夫、大丈夫。あなたは私の大切な子、だから大丈夫』
『差し出せ!あの女の子を殺してやる!』
最早隠すこともなく、まるで呪いのように吐き出されるその罵声を母を亡くしたばかりの雨竜帝に届けないようにと、自分の声だけが聞こえるようにと耳に囁き続けた蒼龍妃。
側妃である雨竜帝の実母は彼に関心のない母親だった。
贅沢と権威力の強い実母。
いつだって母親のような愛情や優しさを与えてくれたのは蒼龍妃だけで、そんな蒼龍妃が自分のせいで鞭で打たれて傷つく姿を雨竜帝はただ泣いて見つめることしか出来なかった。
「騒ぎを聞きつけた兄上が私を守ろうとする蒼龍妃のお姿を見て大変お怒りになられて……私の大切な者を傷つけることは母であっても許さないと蒼龍妃をお守りになったんです」
それは母親の首を掴み今にも殺しそうなほどの激しい怒りであったのだが、蒼龍妃に守られた雨竜帝には見えていなかった。
そしてその怒りは蒼龍妃が止めなければ……廃后の細い首がどうなっていたのか分からないほどのものだったのだが、泣きつかれて気絶するように眠りについた雨竜帝にはただ兄が妻を守る姿として記憶に残っていた。
「その姿を見て私に大切な者が出来たら兄のようにその人を守れる者でありたいと思ったことを鮮明に覚えています。今でもたまにその時の声を夢に見るのです」
あの女の産んだ子供を差し出せと、生かしてはならない子だと叫び、暗闇から伸びてくる恐ろしい手、手、手!
その手はいつだって雨竜帝を掴むことはなく、目が覚めるけれど……いつだってその時の恐怖を思い起こさせる。
「私にとって男、であることは呪いでした。継承権を持つというだけでいつ命を狙われるか分からない。現に廃后は自分の子以外の男子を決して生かさなかった人でしたから。ですがこの国では女であることもまた呪いだったのだと後から気が付きました」
子を産むことを望まれ後宮に囲われる女達。
自らを売った者、家族に売られた者、美しいというだけで国から攫われた者もいた。
そうして閉じ込められた後宮で産んだ子が女であれば蔑まれ、その扱いは軽くなり。
逆に男であれば尊ばれるが、熾烈な争いに巻き込まれる。
そしてその争いに敗れれば……容赦なく命を奪われた。
少しずつ正気を失い狂っていく、それが後宮という場所だった。
今にして思えば廃后もこの後宮という場所の呪いに犯されて、応竜帝という名を持つ者に縋るしかなかった憐れな被害者だったのかもしれない。
「蒼龍妃は皇后にはなられないのでしょうか?」
「兄は皇后にと強く望んでいるようですが、子のことがありますので本人が固く断っているのです。王子を産んだ妃こそが皇后になるべきだと」
因習だ。
それは良くはない因習。
だがそれはまるで呪いのようでもあるとクリスティアは思う。
「お辛いことを思い出させてしまいましたね」
「いいえ、全ては過ぎたことです。それに結果として王国で多くの大切な思い出を得ることが出来ましたから」
厄介者と遠巻きにされ、兄が恋しいと孤独に泣く自分に手を差し伸べて庭園を走り回ったり、ダンスを踊ったりした思い出。
それはあれほど恋しいと泣いた兄の元へと帰るのを躊躇うほどの記憶となってこの胸に残り続けている。
その思い出の中にはいつだって……金色の髪を揺らし、緋色の瞳を細めた少女が美しく微笑んでいた。
「宜しければ手紙を出したいと考えているのですが、構いませんか?」
「勿論構いませんが……王国まではそれなりに日数が掛かりますが構いませんか?」
その思い出の中にいた少女が今、こうして成長してこの場に居ることに高鳴らせていた胸はだが、一気に沈静化する。
とうとう王国へと自身の安否を伝えるつもりなのだ。
家族に理由も告げさせずに誘拐をしてきたのだ、心配しているに決まっている。
クリスティアがこの国で無事であることを本人から伝えてくれるのならば、黄龍国にとって悪いことではない。
それにいつかは国へと帰ることになるのだ。
ならば帰る前に一報を入れておくべきなのだろう。
だが今、王国での彼女の立場はあまり良いとは言い難い。
幼い頃に交流のあったあの王子がそれほど不誠実な者だったとは思えないが、だが現に広まっている噂があるのだ。
ならば彼女が戻ったとて居場所はなく、この誘拐を都合良く理由にされてしまうのではないか……。
それならばいっそのこと、彼女が傷つくのならばいっそのこと……この国にこのまま居てくれたほうが……。
心配すると共に期待をその胸に抱く雨竜帝にクリスティアはきょとんと小首を傾げる。
「いいえ、王国に手紙を書くわけではございませんわ」
「えっ?そうなのですか?ですがご家族が心配されて……」
「いいえ、そちらは全く問題ございません。出来れば手紙は内密に届けさせたいのですけれど……適任者はいらっしゃいますか?」
「それならば……碧馬ならば喜んで、クリスティー様の役に立ちましょう」
「ありがとうございます。それと応竜帝の宮の池にも参りたいのですが……よろしいでしょうか?」
「えぇ、ご案内いたします」
家族にでないなら、婚約者にでないのならば、一体誰へと届けるつもりなのか。
安堵しつつも訝しむ雨竜帝を見てクリスティアはニッコリと微笑むと、絵本をぱたりと閉じるのだった。




