15時間前の出来事①
その日、ラビュリントス王国の王城で夕方から夜まで開かれていた歓迎パーティーは大変に賑わいのある宴となっていた。
黄龍国から使節団を送りたいという打診を受け王太子殿下であり、クリスティアの婚約者であるユーリ・クインと共に準備を重ね盛況となった華やかなパーティーは概ね成功であった。
ただ一つ、ある噂が広まっていたことを除けば。
そう今、ラビュリントス王国の社交界ではとある高貴な身分のご令嬢が婚約破棄の憂き目にあうのではないかという噂がまことしやかに……広まっているのだ。
「この国の宴は賑やかしいネ、クリスティー」
向けられる好奇の視線。
腹を探ろうと近寄る者達。
その全てを笑顔で躱し、少しばかりの休憩をとクリスティアがテラスへと出た所で……本日の主役の一人、使節団と共に現れた夕顔が二つのグラスを持って現れる。
白から赤へとグラデーションの掛かった上衣と朝顔の花が咲いたように広がる下裳、金糸で描かれた龍が天へと昇る外衣を羽織りそれを腰の帯で巻いた着物、肩を滑るストールはまるで天女の羽衣のように薄く輝き……その美しさは会場の全ての者達の目を引いていた。
昨日、謁見の間で自らを黄龍国の四夫人の一人である紅龍妃と名乗った夕顔。
ラビュリントス王国でクリスティアが贔屓にしている薬屋を営んでいる姿とは全く違う気品溢れたその姿の変貌っぷりに、クリスティアはとても驚いたのだ。
「あなたが賢妃だったなんて驚いたわ夕顔」
「ふん、世の中はままならないことばかりヨ。ワタシが賢妃になったのもその一つ……名を持つ妃が死んでしまってネ、こんなことになってしまったのヨ」
差し出されたグラスを受け取りクリスティアは微笑む。
暫く前から王国の薬屋は閉じていることが多く、開いたとしても店員が夕顔以外であることが多かった。
久し振りにその姿を見たのは確か使節団の申し入れがあって少し経った頃……。
余程のことがなければ友好国である黄龍国からの使節団を断ることはないので、夕顔は返事をする前から既に王国へと訪れており、こちらの動向を窺いつつ色よい返事を待っていたのだろう。
前回会ったときに人生を悲観しているような事を言っていたのでなにか事情があるのだろうと思っていたのだがまさか黄龍国の四夫人の一人になっていたとは……。
オマエもそのままならないことの渦中にいるのだろうと言わんばかりの視線を窓へと向けられてクリスティアは肩を竦める。
パーティー会場では今、高貴なる王太子殿下の手を引かれた可愛らしい平民の少女が、来賓者達からの挨拶を困ったように受けている。
「そうね、ままならないことばかりだわ。いかにそれがわたくしの掌の上であったとしても」
この世の全ては自分のためにあるとでも言わんばかりのクリスティアの態度。
そんな不遜な態度だから婚約者から煙たがられ平民の子に奪われるのではなかと呆れた顔をしながら口には出さずに夕顔が自身の持つグラスの中身を煽れば、クリスティアも釣られるようにしてそのグラスの中身を飲み干す。
芳しい香りのする炭酸水だ。
「わたくし、先に帰ります。あなたはどうなさって?」
「ワタシか?そうだな……丁度、店に寄りたいと思っていたネ。しかも内密に……一緒に行ってもいいカ?」
「勿論です、参りましょう」
頷いたクリスティアに牙を見せた猫のように弧を描く夕顔の眼。
それに気付かずにランポール家の家門の入った馬車へと共に乗った頃にはクリスティアは少し眠くなっていたように思う。
連日のパーティーの準備で疲れていたのかもしれない。
霞がかったように意識がぼんやりと揺らぐ。
それだというのに体はしっかりと倒れることもなく真っ直ぐに夕顔を見つめている。
まるで命令を待つ兵士にでもなったかのようにピクリとも動かないそんなクリスティアの様子をただじっと見つめていた夕顔は近寄るように身を浮かせると、その耳元にそっと囁く。
「仲睦まじい二人を見て傷ついただろクリスティー?少し、一人になりたくなったネ?どうヨ、ワタシの店に寄っていかないカ?」
揺れる。
揺れる。
ゆらゆらと。
ああ、それも良いかもしれないと何故だかその言葉が酷く魅力的に聞こえたクリスティアはゆっくりと頷く。
「えぇ……そうね……皆には先に帰ってもらいましょう」
友人宅に行くからと護衛達を先に帰らせ、コンコンと馬車の壁をノックして行き先を変更する。
訝しみながらも分かりましたと返事を返す御者の声。
向きを変える馬の嘶き。
辿り着いたのは確かに、クリスティアには見慣れた夕顔の店であるはずだった。
「クリスティー、気持ちを落ち着かせるために海でも見に行こうではないカ。裏を通ってそこに居る御者に港へ行くよう頼むのヨ。ワタシは別の馬車で後を追うネ」
「えぇ、分かったわ」
夕顔の言う通り馬車を帰し、店へと入るとその裏を通り準備されていた別の馬車に乗り込んで向かったのは港で。
漆黒に紛れる薄暗い簡素な船へと、先に到着していた夕顔の誘う声に導かれてクリスティアはその船へと乗り込んだのだ。




