シャロン・ホームの登場①
「ふわぁ……」
大きな欠伸を一つ漏らし、机に両肘を付いた掌に顎を乗せる。
頬を滑った焦げ茶色の髪のさらりとした感触。
本のページを捲る紙の擦れる音。
広い図書室に広がる強制的ではない沈黙に眠気を誘われてアリアドネ・フォレストは深緑の瞳を細めながら向かい側に座って姿勢良く侍女であるルーシーの入れた紅茶を飲んでいる我が主人(納得はしていない)であるクリスティア・ランポールを見つめる。
陽の光りに照らされてキラキラと輝く金色の髪、宝石を埋め込んだような緋色の綺麗な瞳。
高貴なる身分のご令嬢であることがオーラだけで分かる彼女のメイドとして仕えることとなり早数ヶ月……。
アリアドネは今、明日の食事にさえ困るほどの貧乏生活が懐かしくなるくらいに人間的な生活をさせてもらっている。
「暖かい陽気ですから眠くなってしまいますねアリアドネ様」
「うん」
そんな眠気眼のアリアドネを見て隣に座り、クリスティアと同じように入れられた薫り高い紅茶を飲んでいたクリーム色の肩までの髪に可憐な花の咲いたカチューシャ、淑女の鏡と評されているフラン・ローウェンが垂れた橙色の瞳を柔和に細めて微笑む。
余談だが、クリスティアとフランのカップには同じ銘柄の高価な茶葉の紅茶が入っているのだがアリアドネのカップにはそれより下のランク……というか広く一般的に飲まれている安価な茶葉の紅茶が入れられている。
ルーシーの嫉妬心からくる細やかな嫌がらせである。
とはいえ飲み物といえば井戸水一択の生活だったせいか安価な紅茶だろうと水に色と味が付いていればアリアドネの舌には高級品であり、その事実に気づかずに自分は今値段の高いの紅茶を飲んでいるのだと信じて疑わないアリアドネもアリアドネだ。
少しずつ大切に飲んでいる様がその事実を唯一知るルーシーをほくそ笑ませている。
フランはクリスティアの友人であり、つい先日までアリアドネの学力を上げることに心血を注いでいた優秀なる教師でもあった。
前期中期後期と行われる学力テストで毎回補習を免れるギリギリの点数をたたき出していたアリアドネ。
ゲームのようにタップを一つすれば上がる学力ではない現実の世界では、当たり前だが自分が努力をしなければテストの点数は上がらない。
学園に入った頃、転生前にこの世界のシナリオであるゲーム、アリアドネの糸をやり尽くしていたアリアドネはテストといえばイエスかノーを選ぶ選択問題で、ゲームに纏わるどれも簡単なものばかりだったことを覚えていた。
例えばこの世界にある魔力は三大元素である、イエスかノーか。
ユーリ・クインと初めて出会ったのは教会か、イエスかノーか。
アリアドネが何度このゲームを攻略してきたと思っているのか……一問目はノー、二問目はイエスに決まっている。
常に100点満点を叩きだし、完璧な聖女として名を馳せてきたアリアドネ・フォレストに死角なし!
楽勝だと高を括って愚かにも予習復習なんてものをせずに挑んだ一学年の前期のテスト。
いざ蓋を開けてみれば、法律で定められている魔法道具使用に関する禁止事項を答えよ。だとか、先の戦争で我が国が隣国と結んだ協定はなんだ。とか……選択式ではない問題プラス、至って真面目な問題が出題されていた。
考えれば分かることだ。
学園のテストに攻略対象者との出会いの場に関する問題に出すなんてどんなテストだ。
出題した先生の気が狂ってるとしか思えない。
真っ赤に染まった一学年で受けた前期のテストで絶望を味わい、中期のテストで巻き返そうと励んだ、そして後期のテストを受けた段階で……アリアドネは勉強という名の全てを諦めたのだ。
努力はした。
授業は真面目に聞いていたし、ノートも綺麗に纏めていたと自負している。
だがそれで満足し、内容を理解していたかと問われれば……していなかったとアリアドネは答えるだろう。
ただでさえ学園に居るとき以外は全ての時間をバイトに費やしていたのだ、勉強よりも明日の食費に全力を傾けていたので予習復習をする暇なんてなかった。
残念ながらアリアドネは見た物をそのままを記憶し、理解する天才ではなく、聖女という隠された肩書きがなければただの凡人でしかなかったのだ。
そんなアリアドネのテストはたまに擦るゲームの知識と山勘によってなんとか赤点を免れてはいたが、なにかが狂えばすぐに赤点へとまっしぐらとなってしまうことにクリスティアが憂慮した結果、友人であるフランが一肌脱いでくれたのだ。
フランのおかげで久し振りに見ることの出来た平均点以上のテストの点数。
こうして集まった図書室でお披露目した点数に、やれば出来る子だと信じていたと成績を改善してくれたフランに褒められアリアドネは胸を張り。
(平均点は上回っているが満点ではない)
鼻高々と返却されたテストをクリスティアへと見せて褒められ調子に乗り。
(再度言うが平均点は上回っているが満点ではない)
意気揚々と教育係であるルーシーへと、かの有名な印籠のようにテストの答案用紙をそら見てみろと突き出せば……鼻で笑われた。
そして対戦カードのように出されたクリスティアの全教科100点満点の答案用紙に、主人より点数が低いメイドとはなんたる怠慢、片腹痛しと視線で蔑まれ…… テストの点数で勝負なんてしていなかったというのに完膚なきまでの敗北感を味わわされたアリアドネが両膝を地面について、降参の白旗を上げたのが先程の出来事であった。
本日の気分は有頂天から落胆へと一気に下がったものの赤点の恐怖に怯えるという日々に終わりを告げることの出来たこの良き日に、ラビュリントス学園の午後の授業はないのである。




