エル・ランポールの護持
「指を突っ込んで吐かなくても大丈夫ですよ、ただの冗談ですから。あなたが言った通りレモンの入ったただの果実水です、安心してください」
アリアドネを慌てるだけ慌てさせたエルはそう言うと受け取ったコップに残った水を一気に飲み干してみせる。
毒がないことの証明のために飲んで見せたのだろうが間接キスとか……嘔吐ヒロインにならずに済んで安心しつつもナチュラルにそういうことをされるとそれにどんな意図があったとしてもまず先に照れてしまう。
「ですがあなたが義姉さんに大切にされていることが正直いって気に入りません」
アリアドネの照れた気持ちを失わせるほどの心底の不満を表したエルの声音と表情。
そんなことをアリアドネに言われても……こっちだって悪役令嬢のメイドになるなんて不服以外の何ものでも無い。
「なのでこれからもあなたが義姉さんを……このランポール家を害さないか監視しますのでもし、なにか怪しい行動をとったそのときにはこれが果実水ではなくなると覚えておいてください」
笑みの形は作っているもののその瞳の奥が一切笑っていないエルの忠告にアリアドネは恐怖を感じ頷く。
それはまさしくゲームの中でクリスティアに洗脳され、数々の悪事に身を落としていたエルのスチル姿そのものだったのだ。
「まぁ、お二人で内緒話?わたくしを混ぜてくれないなんて寂しいわ」
「義姉さん!」
クリスティアのメイドになったというだけで今日一日で侍女や義弟から脅されて疲れ切ってしまった。
これもヒロインとしての試練なのだと思おう、今はまだ恋愛パートのない序章なのだから好感度は底辺だと皆の冷たさをそうアリアドネが心の中で言い聞かせていれば、この重い沈黙の広がる空間に淡いピンクのドレスを靡かせたクリスティアが救いの女神のように現れる。
とはいえ目下のところアリアドネの一番の強敵であるルーシーを引き連れていることが、逃げ出した身としては恐怖でしかないのだが……。
「義姉さんの新しいメイドに挨拶をと思いまして。旅行にも行った仲ですし……彼女は他のメイドとは違うのでしょう?」
「そうなのねエル。えぇ、仲良くしてあげてね?」
「勿論です」
どの口が言っているのか……。
さっきこの男に毒を飲まされそうになりました!とでもクリスティアに訴えれば今度は本物の毒を飲まされるだろう。
唇を結んで沈黙を選ぶしかないアリアドネの横で、クリスティアを見て嬉しそうに尻尾を振る子犬のようなエルは先程、アリアドネを脅した人物と同一とは思えないと憎たらしくなって叫びたくなる。
「それより、随分と大荷物だねルーシー。それは確か今朝、義姉さんが手ずから摘んだ花束だと思うのだけれど」
「クリスティー様より頂戴いたしました」
「今日はルーシーのお誕生日でしょう?こんな日に限って殿下がいらっしゃるから、細やかなお祝いを先に渡したの。本当のお祝いは一日遅れとなってしまうから」
どうしてクリスティアが手ずから花を摘んだことを知っているのか……。
そんな疑問は問うだけ無駄なのだろう、クリスティアもそれを問題だとは思っていないようで。
それは大変羨ましいと唇を尖らせて拗ねたようなエルの表情に、クリスティアはニッコリと微笑む。
「アリアドネさんのお父様が大変珍しい薔薇を庭で咲かせたそうよ。それを見ながら朝食を一緒にしましょうエル」
エルを救い出した庭園はあの後直ぐにドリーの指示によって改装され今は美しい薔薇園となっている。
ウエルデ家のことを思い出すかもしれないという配慮からだったのだろうけれどエルにとってはあの場所はクリスティアに助けられた大切な思い出でもあるので……少しばかり寂しい気もしたが、家族がエルを気遣ってくれたことが嬉しかったのでその惜しむような気持ちは黙っていた。
差し出されたクリスティアの手を握りエスコートを賜った光栄に笑みを溢して、エルはその手を腕へと回す。
その手はずっと優しくて温かくて……エルを守ってくれている。
「楽しみです、義姉さん」
ウエルデ家の裁判後、キュワール侯爵家はたった一人の後継者がランポール家の養子となることを望んだため取り潰しとなった。
庭園に集まっていた忠誠心の高い使用人達の一部はランポール家にそのまま重用され、残ることを望まなかった者達は十分な退職金を与えられ去ったと聞いている。
最後に、エルへと挨拶をしにきたキュワールに人生を捧げたのであろう老齢の執事は主人亡き後、坊ちゃまを守れなくて申し訳ございませんでしたとその頭を深く深く下げてきた。
彼は、レイヴスに意見して真っ先に解雇となった者で……解雇後はキュワール家の領地へと赴き、ウエルデ家が行っていた不正な税の取り立てなどを調べ司法へと訴える準備をしていたそうだ。
そしてエルを助けるためにちりじりになっていた他の使用人達を集めたのも彼だと後からクリスティアに聞いた。
キュワールを守ろうと尽くしてくれた執事は最後の役目を終えたと背筋を伸ばすと清々しく去って行った……その忠義心のある後ろ姿をエルはきっと忘れることはないだろう。
虐待を見過ごしていた教会は罰を受け、寄付金という形で裏でお金を受け取っていた司教や司祭が数名処罰され、ウエルデ伯爵家は虐待の件が広く明るみになり改易となった。
他にも事件を起こしていたこともあり、司法の最高裁である王宮で開かれることとなった裁判はラビュリントス王国の新聞を大いに賑わせた。
それは時代と共に自分達の誇りを忘れ自堕落になっていた貴族達の目には粛正とも映っただろう。
エルはウエルデ家が自分に対して行った罪の罰が下された時点で裁判の行方を見守ることを止めた。
ランポールとなったエルにとってはもう一生関わることのない路傍の石がどうなろうと知ったことではなかったからだ。
「クリスティー義姉さん……」
「なぁにエル?」
「……いいえ、呼んでみただけです」
「まぁ、変な子」
背は今少しクリスティアを追い越していない、だがすぐに追い越すだろう。
ふっとエルが呼んだ名に反応して合う目線が優しく笑んだことに満足して、エルは薔薇の庭園に準備された食卓へとクリスティアを座らせると楽しい朝食が始まる。
そんな二人の声に釣られてか、まずドリーがそしてすぐにアーサーが、招待がなかったと拗ねながら集まってくる。
その光景はこれから先、エルが変わらないようにと大切に守り続ける賑やかな家族の食卓だった。




