エラ・マティスの犠牲①
ラビュリントス王国のマティス家の長女として産まれたエラの幸福とは言い難い人生が始まったのは15歳の年に父親が亡くなった頃から始まった。
エラの母親であるロザリーは侯爵家の末の娘で、なに不自由なく可愛がられ育てられたお嬢様であり、世の世間知らずな高貴なるお嬢様と大体にして同じ夢見がちな少女であった。
そんな彼女がとある社交のパーティーでマティス子爵家の長男であるティム・マティスと出会ったことは当人達にとっては幸運であったであろうが、そうでない者達にとっては不幸以外の何物でも無かったであろう。
若い二人は一目で恋に落ち、世間から隠れるように秘密の交流を重ね、静かにそして情熱的に恋の炎を燃え上がらせたのだ。
そしてその事実が露見したのはロザリーのお腹にエラが宿ったことが原因であった。
新しい命を喜んだロザリーはティムとの結婚を両親に懇願したがその事実を知ったときロザリーの父は大変に怒り猛反対した。
下位でうだつの上がらないティムとの結婚など認めない、即刻別れろと。
それが娘の幸せを考える親心であればまだロザリーも説得を試みたであろう。
だが権威主義の強いロザリーの父親にとって、愛情という名でお金を掛け、育ててきた娘は家門にとって有利な相手へと嫁がせる道具でしかなく、対価の見込めない相手へと嫁ぐなど以ての外、子供は産まれたら孤児院へと送りお前は私が選んだ相手と結婚するのだと激昂したのだ。
ティムへの愛情を知らなければ、ロザリーもこれが普通の家族の愛情なのだと、疑問に思わず父の言う通り望む相手へと嫁いでいたのかもしれない。
だがティムへの愛情を知ってしまった今、父親の自分を道具のように扱う様は愛情でもなんでもないのだと。
父親の欲を満たす都合の良い人形でしかないと理解したロザリーは余計反発し、ティムとの恋を燃え上がらせた結果、駆け落ちという形でティムの生家であるマティス子爵家へと逃げたのだった。
ロザリーもティムもこれで全て上手くいくと思っていた。
だが誤算だったのはティムの両親もこの婚姻を良しとしなかったことだ。
普段から子供達には大変に甘い両親ではあったが、その根底にあるものは大体にして侯爵と同じ。
子供達を通じて自分達にとって価値のある相手と知り合い、婚姻によってこの地位を更に向上させることにあった。
その相手が自分達と志の同じ侯爵家の娘では分が悪い。
子供が出来たから仕方なくロザリーのことを受け入れはしたが、侯爵家に睨まれたくはなかったので二人が籍を入れることは許さなかった。
受け入れたのは家族の情というよりいつか産まれたその子が役に立つときがくるかも知れないという打算が多大に含まれていたのだろう。
本邸には住まわせず離れへと追いやり、居場所を提供しただけでマティス家はそれ以上の干渉はしなかった。
世間から見れば二人の関係は酷く曖昧で中途半端な状況ではあった。
だが幸せであったのは確かだった。
ティムが不慮の事故で亡くなるまでは……の話だが。
「……ただ今戻りました」
「お姉様、お帰りなさい」
「ただいま、エリサ」
「お母様、お姉様がお戻りになったわ」
「ほらご覧なさいやっぱりこの髪飾り、あなたの髪によく似合うわ」
夕闇の迫る明かり窓の下。
二人掛けのソファーの上で母親であるロザリーが妹のエリサの髪を愛おしそうに梳かしている。
横に座る娘の父親似のキラキラと輝く白銀の髪を緑のエメラルドが彩られたバレッタで留め、青色の瞳を満足げに細めて微笑んだロザリーはエラが帰宅を告げてもなんの反応もない。
それは今に始まったことではないのでエラも特別気にはせず、机に荷物を置いて菫色の瞳を細めて返事をした妹のエリサへと視線を向ける。
エラが母親からの愛情を受けなくなったのはティムが死んでからだった。
いや、ティムがいたからこそ厭う気持ちがあっても愛情を傾けられていたのかもしれない。
ティムが死んで、ロザリーは少しずつ精神を病んでいった。
毎日毎晩泣いて泣いてそして……その涙が涸れたときには赤毛の髪にくすんだ紫の瞳を持つエラにどうしようもない憤りをぶつけるようになっていた。
自身の生家である侯爵家を示すその姿が悪魔なのだと。
お前のせいでティムが死んでしまったのだと。
罵り、蔑み、怒りをぶつけるロザリーにエラは最初こそ抵抗し、謝り、昔のような愛情を望んだが、今はもう全てを諦めていた。
ラビュリントス学園を卒業してこの2年。
ティムの生家からの援助も打ち切られた今、このマティス家はエラが働いた収入でなんとか日々の生活を支えている。
「エリサ、その髪飾りどうしたの?」
「今日、お爺様のところに商人がいらして……私はお止めしたのだけれどお母様がどうしても見たいって聞かなくて一緒に行ったの、そしたらこれを気に入って買ってしまったの」
マティス家に商人が訪れる度にロザリーが買い物をするようになったのは少し前からのことだった。
娘達では埋まらない寂しさを埋めるように、侯爵家のお嬢様であった頃のような振る舞いをロザリーは度々していた。
まるで自分達は此処に居るとマティス家に訴えているかのように……。
「お母様、何度もお願いしたではありませんか……我が家はそれほど裕福ではないのですから物は買わないでくださいと」
「エリサは本当に可愛いわね、あなたは私の天使よ」
そこにエラは居ないかのようにエリサだけを見つめるロザリーに、今日は存在を消す日らしいと悟ったエラは訴えることを諦める。
なにを言っても今日のエラはロザリーにとって存在しないのだから無駄だ。
無意味に怒鳴られ罵られる前に諦めようと、机に置かれたロザリーの名が刻まれたバレッタの借用書と美容院の領収書を見つめ、エラは深い溜息を吐く。
ロザリーは自身の髪が赤毛であることすら許せずその髪色が目に入ると酷い癇癪を起こし、髪を切ったり引き抜こうとするので定期的な髪染めを行っている。
今、エリサと同じ白銀に染められた髪の毛染め代も馬鹿にはならないのにバレッタ代もとは……今月も自身の食事を減らさなければならないと台所へと向かったエラは買った食材を整理しながら帰るまでに考えていた献立とは別の料理を考える。
エラが今、この家で安らげるのは料理を作っているときだけだ。
台所は父親であるティムとの思い出がある数少ない場所で、お嬢様であった母親は近寄らない場所でもある。