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充たし、満たす②

二、トミー・ブレンキンの楽観


 ランポール邸から馬車に乗りクリスティアが訪れたのはラビュリントス王国の商業街にあるクロリスという華やかなお店。

 大通りの一等地に構えたこの店は香水を専門に販売する店で、オリジナルの香水の調香も行っている。


「いらっしゃいませクリスティー様」


 その店の奥、VIPルームに通されたクリスティアを向かえたのは、緩くカールした肩までのクリーム色の髪を揺らし、垂れた菫色の瞳を丸めがねで覆う桃色のドレスを着た店員。


 調香師のローラ・フロキシアだ。


「こんにちはローラ。予約もせずに突然ごめんなさいね」

「いいえ、クリスティー様のお越しはいつでも大歓迎です。今日はまた香水の調香でしょうか?」

「いいえ。今日はあなたに頼みたいことがあってきたの」


 さっそくというようにハンカチーフをハンドバックから取り出し差し出したクリスティアにローラは不思議がる。

 ここ最近、クリスティアがこの店に訪れる理由は婚約者である王太子殿下へと贈る香水の調香の為だけだったからだ。


「この香りをご存じ?」

「失礼」


 あぁ、そういうことかとハンカチーフを受け取ったローラはそれをそばかすの浮いた鼻へと近付ける。


 気に入った香りがあったからそれを参考にして香水を調香するのかもしれない。


 鼻腔を擽るそれほど甘くはなく淡く香る匂いに、すぐ納得したようにハンカチーフから顔を離したローラはクリスティアを見る。


「オリジナルの香水ですね。リナロール、ゲラニオール……メインに描いているのはピオニーです」


 調香師として正確な嗅覚を持つローラはどういった成分がその香水に調香されているのか嗅いだだけで分かる。

 なのでこのハンカチーフに染みこんだ香水の香りもすぐに理解したのだが……それに少しばかり戸惑いの表情を見せながらもその香りについて口を開く。


「詳しい成分をお知りになりたいのでしたら調香した香りをお持ちしますが……ですが、これは個人がお作りになられたオリジナルの香水となりますので、王太子殿下にお贈りするにはあまりおすすめはいたしません」

「あぁ、違うわ。殿下に贈るものではないの。実はこれは母の知人が持ってきた物なのですけれど。どうやらご主人がこの香水の持ち主との不誠実をお疑いのようで、調べにまいりましたの」


 ニッコリと笑んだクリスティアの言葉にローラの肩が思いっきり跳ね上がる。


 てっきり婚約者である王太子殿下にお贈りする香水の参考にするために持ってきたのかと思っていたのに!


 そうではないことを知り、顔を青くした小さな野ねずみであるローラを鋭い牙を研いだクリスティアという猫が狙う。


「おすすめしないということはこの香水が誰のために作られた物なのかご存じなのね?」

「な、なんのことでしょう!?」


 泳ぐ目に垂れる冷や汗。


 ローラが嘘の付けない性分なのは知っている。


 だからこそクリスティアはこの店を気に入っているのだ。


 鋭い爪を見せたクリスティアは捕まえた憐れな野ねずみをその爪で弄ぶ。


「そう、あなたが知らないのならば残念だわ」

「は、はい!残念です!」

「ブレンキン夫人にはそうね……公爵の不誠実の相手がクロリスでオリジナルの香水をお作りになられているとお伝えしなければならないでしょう」

「えぇ!?」

「それにローラがお相手のことを知っていると夫人の友人であるお母様が知れば……きっと残念がるわ」

「ち、違います!違うんですクリスティー様!」


 そんなこと言ってカウラがお店に押しかけたらどうすればいいのか!


 ドリーだってこのお店のお得意様なのに二度と来てくれなくなるではないか!


 そうなることはローラのいや、クロリスにとって良いことではない。


 一番の顧客である貴族社会でクロリスは本妻と浮気相手との争いが起きた不誠実な店だなんて広まったら客がいなくなってしまう!


 そんな揉め事に巻き込まれるのは御免だと懇願するように両手を握ったローラは早々に口を割る。


「ですが、こればかりは私の口からは申せません!なので夕方までお待ちいただけませんか?直接ご本人からお聞きするのが宜しいかと思います!」


 それが妥協できる精一杯だと祈るように頭を下げ懇願するローラに納得し、頷いたクリスティア。


 香水の主人が誰であれ、カウラではなくまず第三者が冷静なる対話をしたほうが良いだろう。

 とはいえそこまで相手に不安を抱いていないクリスティアは王太子殿下へと贈る香水の調香をしながら時間を潰していれば日も傾き始めた頃、VIPルームへと通された人物にやはりっと笑みを浮かべる。


 それは件の不誠実男、トミー・ブレンキン公爵だった。


 濃い藍色の短髪に茶色の三白眼。

 仕事帰りに立ち寄ったのだろう、かっちりとした灰色のフロックコートに身を包んだトミーはクリスティアの姿を認識した瞬間、部屋へと踏み入れた歩みを止める。


「一体どういうことだ?」


 客は自分だけだろうと思って通された部屋にクリスティアが居るのだ。

 眉を顰めたトミーに、挨拶のためクリスティアはソファーから立ち上がる。


「お久し振りでございますブレンキン公爵」

「ランポール家の娘だったな。何故君がここに居る?」

「クリスティア・ランポールと申します。どうぞクリスティーとお呼びください」


 自己紹介をしても終始トミーが顰め面なのはトミーがドリーを嫌っているからだろう。

 学生時代の因縁もさることながらカウラがドリーを家族同等に慕っていることが妻第一主義のトミーには気に食わないことなのだ。


「本日はカウラ夫人のことでお話しがございまして、無理を言いこちらで待たせていただきました」


 妻の名前を出されたことでトミーの眉がピクリと動く。

 その表情は警戒心を有り有りと浮かべ……今にも噛みつきそうな野犬のようだと、何か吠える前に噛みつかれては厄介なのでクリスティアは早々にハンカチーフをトミーへと差し出す。


 それが自分の物だとすぐに分かったのだろう。


 何故持っていると言いたげな表情でハンカチーフを受け取りクリスティアを見たトミーに、クリスティアは悲しげに瞼を伏せて先に言葉を吐き出す。


「本日、我が家にカウラ夫人がこちらのハンカチーフをお持ちになっていらっしゃいました……ブレンキン公爵がこのハンカチーフに付いている香りの持ち主と不誠実な関係ではないかとお疑いになられているのです」

「なにっ!?」

「そのハンカチーフから夫人の知らない香水の香りがすると、身に覚えの無いその香りにそれはそれはショックを受けていらして。先に申しましたことを涙ながらにわたくしの母へと訴えておりました。なのでわたくしは真実を知るためにこうしてこの香りを辿りこちらへ参った次第です」


 クリスティアのまさかの言葉に、そういえばこの一週間ほど前からカウラの様子が何処かおかしかったことをトミーは思い出す。


 妙に暗く塞ぎ込んでいてなにか言いたげに口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた。

 不審に思ってどうしたのか?とトミーも何度か問うてみたが、なんでもないとカウラは口を噤むばかりで……。


 常ならばそんなカウラの憂いを敏感に感じ取りその原因を探り取り除いてきたトミーだったが、彼は彼でこの一ヶ月間とあることに急ぎ専念をしていて四六時中そのことばかり考え、気分も良くなかったせいか心此処に在らずの日々が続いていたので妻のケアが疎かになっていた。


 いや、この度のことが上手く運べばカウラの憂えた気持ちなどすぐに晴れると楽観視していたのだ。


 まさかその憂いが自分の不誠実を疑ってのことだなんて思ってもみなかったのだろうトミーは真っ青な顔をしてすぐに入り口へと向かう……が、踵を返してクリスティアへと詰め寄る。


「わ、私の妻は!?」

「ランポール邸におります」


 再び慌てた様子で走りだしたトミーはそのまま入り口に待機していた馬車に飛び乗り去って行く。

 その姿に愛の偉大さを可笑しみクリスティアも後を追おうと歩き出せばローラが慌てた様子で店の奥から飛び出してくる。


「クリスティー様、どうぞこちらを!」

「まぁ、えぇ。お預かりいたしましょう」


 渡されたのは一つの紙袋で中には丁寧に梱包された箱が入っている。

 それを頷き、ローラから受け取ったクリスティアはトミーと同じように急ぎランポール邸へと戻れば、トミーが玄関の間で大声を上げている。


「カウラ!カウラ何処だ!」

「どうぞ落ち着かれてくださいブレンキン公爵様!」


 突然現れ押し入ってきたトミーの剣幕を憐れなる執事であるマースが必死になって止めているが、妻のことしか考えていないトミーにその声は届いていない。

 ランポール邸の騎士達や使用人達がその大声になんだなんだと集まる中で、同じようにその声に気付いたらしいカウラが廊下の奥から慌てた様子でドリーと共に玄関の間へと現れる。


「まぁ!トミーどうなさったの!」


 自分の名を叫ぶ夫に瞼を開き驚いた様子のカウラ。

 ドリーが慰めたお陰かすっかり気を持ち直していたそんなカウラへと近寄りその手を取ると、トミーは片膝を付く。


「違うんだカウラ!私は浮気などしていない!この世の中で男性が私一人になったとしても私の愛は君一人のものであり、君以外の女性とは手を触れるつもりはないし半径1メートル以内に近寄ってきた時点で切り捨てる!」

「ト、トミー!落ち着いて!」


 突然現れたと思ったら恐ろしく熱烈な告白を始めたトミーにカウラは大いに戸惑い照れる。


 必死にトミーを止めていたマースはなんとなく事情を察したのだろう、集まってきていた騎士達や使用人達を疲れた様子で持ち場に戻るように追い払う。


 そう、カウラしか見えていないトミーは失念し熱烈な愛を叫んでいるがここは他人の家の玄関の間なのだ。


「私はただ、君が私のために好きな香り物を我慢しているのが申し訳なくて……だが私はそういったものがどうも苦手で悩んでいたときに部下が恋人へ手作りの香水を贈ったと聞いたんだ。だから私も自身で作れば問題のない香りが作れるかもしれないと思って……」

「ブレンキン公爵、こちらをお預かりしてまいりました」


 クリスティアがローラから預かった紙袋を渡せばトミーがそれを確認すると受け取り、中から箱を渡す。


「君が驚く姿を見たくて、結婚記念日に渡すつもりだったんだ。すまない、まさか君が私の浮気を誤解するなんて思いもせず……ただ君を喜ばせることばかり考えていたのだが君を不安にさせるなんて独りよがりだった。君を愛している、受け取ってくれるか?」


 カウラが差し出されたそれを受け取り開けてみれば中には白いピオニーが咲いた香水の瓶。


 最愛の君へと刻まれた名の香水を手に取りまさかっとシュッと玄関へと広がるように吹き出せば……嫉妬でこの身を焦がした淡い香りがカウラを包み込み、その瞳が潤む。


「トミー!!」


 きっととても大変だっただろう。


 香りに敏感で、道端ですれ違っただけの香りにすら気分を悪くすることだってあるというのに……この一ヶ月カウラの笑顔を想いトミーは自分の無理を押して頑張ったのだ。


 そんなトミーの深い愛情を感じ感激し、カウラはたまらず彼に抱きつく。


「ごめんなさい私ったらあなたの愛を疑うなんて!とても嬉しいわ!」

「いや、私が軽率だったんだ!不安にさせてしまってすまなかった!」


 誤解が解けて抱き締め合う二人……だが、先も言ったとおりここはランポール邸の玄関の間である。


 全てを見させられることとなったドリーはそんなことだろうと思っていたと一通り終わったらしい仲直りの儀に、呆れたように瞼を細め自分達の存在を気付かせるようにパンパンっと手を叩く。


「はいはい、お二人さん。無事仲直り出来て良かったわ」

「あっ、ドリー。ごめんなさい私ったら心配させてしまって」

「いいのよ、あなたは悪くないわカウラ。トミー、次にカウラの誤解を招くようなことをなさったら私がカウラを連れ去りますからね」

「ふん!そんなことをする前に私がカウラを閉じ……いや、二度とこのような誤解はさせない」


 今、絶対閉じ込めるって言いかけた……。


 恐ろしい執着を口にしそうだったがすぐさま口を噤んで言い換えたトミーの隠しきれていない激情を、カウラは香水に夢中で気付いていない。

 とはいえ知ったところで愛情が深いのだとカウラは笑むだけだろうが。


「全く。仲直りのお祝いに中央通りのレストランの予約をしておいたわ。子供達には遅くなると連絡済みだからお二人で楽しんで」

「まぁ!ドリーったらいつのまに!」

「私は最初からあなたの勘違いだって確信していたわ。昔っからそそっかしいんだから」


 カウラのおでこにでこっぴんをして、微笑むドリーにカウラもえへへっと笑う。

 その笑顔が可愛くて、ドリーはカウラのことをいつでも許してしまうのだ。


「クリスティーもありがとう、ご迷惑をおかけてしまってごめんなさい」

「いいえカウラ夫人、誤解が解けたのでしたら良かったですわ」

「ふん、素晴らしい娘が育ったことを神に感謝するんだなドリー」

「あなたったら。悲しみに暮れるカウラを慰め、何処かへ行かないように引き留めたのは誰だと思っているのかしら……素直にお礼も言えないの?」

「ぐっ!か、感謝する!」


 屈辱だと言わんばかりの顔をしながらも律儀にお礼を口にするトミー。

 そのお礼を満足げにドリーは受け取って、ピオニーの香りを残しながらランポール家を騒がした二人は仲睦まじく去って行く。


「全く人騒がせなんだから。それで?どうしてトミーが香水を作っていたって分かったのクリスティー?」

「分かったというよりピオニーは花から香りが抽出が出来ないですので自身で香りを調香し作るしかありません。ラビュリントスで香水の調香が出来る店というのは限られていますからなにか手がかりを掴めるだろうと手近なクロリスへと向かったのです。あとはあまりにもあの香水の香りは淡いものでしたので……なにかブレンキン公爵の手が加えられたものではないかと考えただけですわ」


 母を通してトミーが香水の香りが苦手なことをクリスティアは知っていた。

 予想通りならばカウラを納得させるためにも本人に説明させることが一番の解決方法のはずだとクリスティアは踏んだのだ。


「お母様、香水を相手に贈る意味は独占欲を表すそうですわ。自身の愛情で充たした香水だけをカウラ夫人に纏わせて心を満たすだなんて……ブレンキン公爵は随分と情熱的な方なのですね」

「昔っからそうよ。執着心が強くて嫉妬深くて……あーーあ、嫌だわ。あの男の愛情が充満して気が滅入っちゃう」


 玄関に広がるカウラを充たし、トミーを満たすこの香りを振り払うように宙を手で仰ぐとドリーは溜息を吐く。


 良い香りなのがまたあの男の粘着性を表しているようで気味が悪い。


 カウラがどうしてあの男と結婚したのかいまだに分からないと。

 それでもこの香りは深い愛情に違いないので、そんな香りを嗅いでいればドリーは自身の夫のことが酷く恋しくなる。


「なんだかアーサーに会いたくなっちゃったわ」

「少しお帰りが遅くなると王宮に向かうときに拗ねておられましたから……お母様が迎えに行かれましたらきっと喜びますわ」

「そうね、そうしようかしら」


 娘の提案にウキウキと頷いたドリーは、思いもよらない夫婦喧嘩に巻き込まれて疲れ切っているマースへと馬車の用意を頼む。


 結局、この愛情に充たされた香りにドリーも酔っているのかもしれないと……充満する愛の香りを深く吸い込んで微笑んだクリスティアは、それを酔う前にふっと吐き出すのだった。

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