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充たし、満たす①

一、カウラ・ブレンキンの悲観


 その日、ドリー・ランポール公爵夫人は大変に困っていた。


 そう、とても大変に、だ。


 今日は来客や外出の予定も特になく、急な仕事で王宮へと向かった夫を見送り子供達とのんびりとした昼食を済ませ、少し領地関係の書類整理をしようかしらと白銀のマーメイドラインのドレスを翻し金の髪を後ろで纏めやる気を出したところで突然の来客。

 急ぐ仕事でもなし特にその連絡のない来訪に困る、ということはなく執事であるマースに案内されランポール邸の客間へと通されたその来客と話し始めて小一時間ほど。


 永遠に続くのではないかと思えるこの状況に慰める言葉も無くなってしまったドリーは青の瞳を細めるとそろそろ飽き飽きしてきたと溜息を吐く。


「私、もうどうしたらいいのか分からなくて。それでねあなたの所に来たのだけれど……だってこんなことってないでしょう?トミーに限ってそんなことって!」

「はいもう、分かったわカウラ。あなたずっと同じ話を繰り返しているって気付いていて?いい加減、あなたの涙も涸れてしまうわ」


 ストップっとまた巡りそうだった会話を止め、その大いに潤ませた鮮やかなオレンジ色の垂れた悲しげな瞳をドリーは真摯に見つめる。

 編み込まれた前髪を後ろに流しお団子にしたアッシュブラウンの髪、プリンセスラインの淡いクリーム色のドレスを着て鼻をグズグズと鳴らす客人の名前はカウラ・ブレンキン公爵夫人。


 ドリーの学生時代からの数少ない友人であり、トミー・ブレンキン公爵の妻である。


「それで……本当なの?トミーが浮気だなんて」


 あのトミー・ブレンキンが?


 学生時代から自分に近寄る女性達には見向きもせず、カウラに近付く男性達を切っては捨て切っては捨ててきたあのトミー・ブレンキンが?


 大の愛妻家で妻が第一優先。


 子供達よりも妻の言うことを優先し、妻が空に輝くあの星が欲しいと言えば宇宙にだって行くであろうあのトミー・ブレイキンが浮気だなんて。


 心底あり得ない。


 天変地異が起こるくらいあり得ない。


 勘違いに決まっている。


 カウラは学生時代から少しそそっかしいところがあったので今回もそうに決まっているとドリーは疑いの眼差しを向ける。


「本当よ!私がそそっかしいってことは私が一番良く分かっているけれど、今回ばかりは確信しているの!だってね!」


 その疑いの眼差しに気付いたのだろう。


 自身の推測を確信しているのだと再び始まりそうな堂々巡りをドリーが止めようとすれば、扉をノックする音が響く。

 そういえばいつまで経っても誰も飲み物を運んで来ないので漸くメイドが来たのだろう。

 話が途切れることをこれ幸いと思いドリーは扉に向かって声を上げる。


 ドリーとしては堂々巡りの会話を終わらせてその先の、これからどうするのかという建設的な話をしたいのだ。


「どうぞ」

「失礼いたします」


 だがその建設的な話を促すであろう一息吐くはずの紅茶を持ってきたのは予想したメイドではなく、金の髪を揺らし緋色の瞳を笑んだ形で細めたドリーの娘であるクリスティア・ランポールだった。

 淡い水色のエンパイアドレスを身に纏い、紅茶の乗ったサービスワゴンを押して現れた娘の姿にドリーは驚く。


「まぁ、クリスティー。どうしたの?」

「お話ししている内容が立ち入ったことではないかとメイド達が中に入るのを躊躇っておりましたので、わたくしが代わりにお持ちいたしました。お久し振りですブレンキン夫人」


 カウラの悲痛なる声が扉の外まで響いていたのだろう。


 優秀なるランポール家のメイド達は話の邪魔をしていいものなのか考えあぐねていたところにクリスティアが救いの主となって現れたのだ。

 それはドリーにとっても救いの主だったに違いなく、巡るだけの話が途切れるならばこれ幸いとクリスティアもソファーに座るように促す。


「お久し振りねクリスティー。すっかり淑女で見間違えてしまったわ」

「ありがとうございます。夫人も相変わらずお美しく、わたくしの友人として学園に通えますわ」

「……いっそのこと学園に通い直して新しい恋でも探そうかしら?」

「カウラったら、滅多なことを言っては駄目よ」


 グスグスと鼻を啜る音を響かせながらクリスティアの登場で少し気持ちが和んだのだろう。

 心にも無いことを言うカウラにそんなことをすればそれこそトミーが嫉妬でその身を焼き尽くしてしまうと窘める。


 拗ねたように唇を尖らせるカウラに話の脈絡を知らないクリスティアはこの、旧友との楽しい会話をしていたのではなさそうな様子を不思議そうな顔をして見つめ小首を傾げる。


「どうかなさったのですか?」

「聞いてくださるクリスティー!」


 ドリーが駄目だというように頭を軽く左右に振るが時既に遅し。


 新しく現れた聞き手に嬉々として話し始めるカウラに、耳にタコが出来るほど聞かされていたドリーは諦めて、紅茶を飲みながらもう一度その話に耳を傾ける。


 曰く、一ヶ月ほど前からカウラの夫であるトミーの帰りが遅くなったそうだ。


 トミーは王宮の人事部門で働いているのだが、妻と夕食を共にしたいからという理由で残業は一切しないことで有名で、カウラと結婚してから一度とだって夕食の時間に遅れたことはなかった。


 それなのにその時期から夕食の時間に間に合わなくなり、妙にそわそわと落ちつかなくなったりしだしたのだ。


 最初はトミーから仕事が忙しくなってどうしても遅くなってしまうと、悲壮感漂う様子で説明を受けていたのでカウラも特に気にはしていなかった。

 きっと今まで無理をして早く帰ってきていたのだろうと。


 なのでカウラは今日までの夫の努力を思い、報いるための愛情を示そうと考え、子供達だけ夕食を先に済まさせてカウラだけトミーの帰りを待って食事をしたり、先に食べたときは寂しくないようになるべくトミーと共に居るようにしていた。


 しかし、それが疑惑に変わったのはつい一週間前の出来事だった。


 その日はなんだかトミーは少しばかり浮き足だって帰ってきた。

 今日は良いことがあってと向かえたカウラの前を機嫌良く通ったとき、そのトミーの体から知らない香水の匂いが淡く香ったのだ。


 トミーは香水の香りをあまり好まない。


 体臭ではない濃く香る匂いは気分が悪くなるのだと最初、そのことを知らなかった頃にカウラがする香水の香りを我慢し過ぎて体調を崩したことがあってから告白されたのだ。

 カウラは香水を好んで使用していたのでトミーは嫌とはいえず、愛する人のために慣れようと努力をし、気を遣ったのだろう。

 香水よりトミーのほうが大切だったカウラはそれからはどうしても必要な社交のとき以外は香水を使用しないようにしていた。


 そんなトミーから知らない香水の匂いが香ったのだ。


 しかも女性が好むような淡く甘い、そんな香り。


 誰かからの移り香でなければあり得ないその香りはこの一週間、毎日トミーの衣服から香り……邸を浸食するように充満していったのだ。


「絶対浮気しているのよ!それ以外考えられないわ!」

「ただお仕事でお会いする方から移ったのかもしれないでしょう?」

「人事のお仕事ってそう同じ方に毎日会ったりはしないでしょう?それに今までそんなことはなかったのに…毎日なのよ?毎日香るの!」


 最初はカウラもそう思っていた。


 仕事関係で誰かから移ってしまった香りなのだろうと。


 でもそれが毎日、気付いたこの一週間ずっと違うようで同じ淡い香りが続いているなんて……。


 そんなことはあり得ないと昂った感情に再び泣き出したカウラの背中を隣に座ったドリーが慰めるように擦る。

 だが何度聞いてもドリーは信じられないのだ、カウラの友人である自分にさえ不必要な牽制をしてくるトミーが浮気だなんて。


「私ね、私、もしトミーが心変わりをしてしまったのならそれは受け入れようと思っていたの。だってきっと私にも到らないところがあるってことだし、トミーが与えてくれる愛情を私が返せていなかったから他に目移りをしてしまうんだって……私だって彼のことを愛しているからもう一度、彼に好かれる努力をしてお相手の方からトミーを奪い返せばいいとそう思っていたの」


 でも……っと暗く俯いたカウラは言葉を詰まらせる。


「でも……そうではないのよ!香水を好まないはずのトミーがそのお相手がなさる香水の香りだけは全く気にしていないの!自分の体に香りがついても気付かないほどに!それってつまりその方がする香水ならなんでも良いってことでしょう?私では気分を悪くしたというのに!」


 その淡い香りはトミーの日常に溶け込んだ「当たり前」の香りであるかのように。


 それが……トミーの本気の現れの気がして。


 勝負する前に負けを言い渡されているのだと気付いたカウラは昨日とうとう一睡も出来ず、その胸の内の不安を抱えきれずにドリーの元へと訪れたのだ。


「わたくしから見てもブレンキン公爵がそのような不誠実な方には見えなかったのですが……ですが、夫人がそこまでおっしゃられるのでしたら信じないわけにはまいりません。もし、なにか物的な根拠があればお力になれるのですが……」

「えぇ!勿論あるわクリスティー!」


 小さなハンドバックを取り出したカウラが中からハンカチーフを取り出す。

 それはカウラが刺繍を施しトミーに渡したハンカチーフで、彼は好んでこのハンカチーフを身に付けていた。

 それを受け取ったドリーは鼻の近くへと持ち上げる。


 確かに、淡く甘い香りが鼻腔へと広がる。


「本当に、あなたの香水ではないの?」

「違うわ絶対に!」

「よろしいですか?」


 ドリーからハンカチーフを受け取り嗅いだクリスティアも香る淡く甘い匂いにふむっと難しげな顔をする。


「ピオニーの香り……ですが、既製品とは少し違う香りですわね」

「あら、分かるの?」

「えぇ。わたくし今、殿下のために自身で香水を調合しておりますので……色々な既製品の香水を参考にしておりますから」

「まぁ、羨ましいわ」


 実はカウラは香りが好きなので独身時代は様々な香水を集めていた。

 トミーと交際を決めたのも彼の香りが好ましかったからという理由だ。


 口では羨ましいとは言いながらも顔には不安の色が濃くなるカウラにクリスティアは安心するようにとニッコリと笑む。


「夫人。よろしければこのハンカチーフをお借りしてもよろしいですか?」

「それは構わないけれど。どうするの?」

「この謎の匂いを突き止めようかと思いまして。どうぞ時間はそう掛からないと思いますのでこのまま夕時までお待ち下さい。ブレンキン公爵の不誠実が確定いたしましたら我が家にお泊まりになられるのも良いかと思います。不安を抱える毎日でしたのでしょう、顔色があまり良くありませんわ。お母様、よろしくて?」

「任されました。どのみちカウラをこれほど泣かす男の元へと返すつもりはなくってよ」


 力強く手を握るドリーの優しさにカウラの瞳が再び潤む。


 この堅い友情があるのならばどのような結末が訪れても大丈夫だろう。


 ではっとハンカチーフを持って立ち上がったクリスティアは二人を残し、この謎の香りを追うために部屋を辞するのだった。

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