そして始まってしまった物語⑤
「申し訳ございません、わたくしギリシア神話でならアリアドネの糸を存じ上げるのですけれども……その乙女ゲームのアリアドネの糸というのは存じ上げませんわ」
「う、嘘……!」
どうやらその乙女ゲームというものはアリアドネの中でとても大切なことらしい。
嘘だと言ってと顔を青くされるがクリスティアも知らないものは知らないのだ、知っていると嘘を吐いても意味はないのでどうすることも出来ないと頭を左右に振る。
「じ、じゃあ二作品目のペルセポネの実は!?こっちは知ってるの!?」
「そちらもギリシア神話のお話ですかしら?」
「両方違うわよ!乙女ゲームだってば!ちょっとどういうこと!?こういう悪役令嬢ものに転生ってなったら原作のゲームをやってることがデフォルトじゃないの!?断罪される運命を変えてみせる!みたいな!?本当に?本当に知らないの?」
「えぇ、迷宮にミノタウルスを倒しにいくというお話や冥界に連れ去られるというお話でないのでしたらわたくしには存じ上げないことですわ」
「なんの話よ!こっちが知らんわそんな話!」
クリスティアが乙女ゲームを知らないのは予想外だったと悩むように額を机にぶつけたアリアドネはうんうんと呻る。
その姿を面白い珍獣でも見るような目で見つめるクリスティア、少女が言っていることの意味が何一つとして不明なので口は出さずに成り行きを見守る。
そして数分後、呻るばっかりでは解決しようがないと悟ったのか気を取り直したアリアドネは少し赤くなった額を上げると深呼吸をする。
「いい、ここはアリアドネの糸って言うスマホで出てた乙女ゲームの世界なの。その世界で私はヒロイン、あなたは最強最悪の悪役令嬢クリスティア・ランポールなの」
(言うに事欠いてクリスティー様のことを悪役令嬢だなどと、なんて失礼な奴なのか!)
「どう驚いたし衝撃的な事実でしょ?」
そう胸を張るアリアドネだったがなんのことかさっぱり分からないクリスティアはこの子は少しおかしな子なのかしら?っと困ったように微笑み紅茶を飲み干す。
主人を悪役令嬢だと誹られて隠しきれない苛立ちと殺気をアリアドネに向けて、早くそのしょっぱい紅茶でも飲んでしまえと念じるルーシーが呪詛を心の中で念仏を唱えるが如く唱えているとはおくびにも出さずクリスティアのカップに新しく美味しい紅茶を優雅に注ぐ。
そんな二人の様子を見て信じられていないと悟ったのか鼻で笑ったアリアドネはルーシーを指差す。
「エラ・マティス。その侍女の本当の名前でしょ?」
その名を聞いた瞬間。
瞼を見開いたルーシーがそれがごく当たり前の行動であるかのようにサービスワゴンに置いてあった茶葉の量を計るティーキャディースプーンを掴んで振り上げるとアリアドネへと向かって振り下ろす。
その瞳孔の開いた殺気立つ眼に睨まれ、固まり、反応も出来ぬまま振り下ろされてくる少しばかり先が尖り細工のされたティーキャディースプーンを見つめていたアリアドネは、こういうときって本当に時間がゆっくり流れて見えるんだっと人事みたいに振り下ろされてくるそれを見つめる。
「ルーシー、控えなさい」
この殺気漂う空間に似つかわしくないクリスティアの穏やかな声が響き寸でのところでティーキャディースプーンが止まる。
本当に寸で、あと数ミリで目を突き刺していただろう金色の先端にゴクリっとアリアドネは息を呑み、唾を飲み込む。
「申し訳ございませんクリスティー様、忌まわしき名だったもので……我を忘れてしまいました」
ドンッ!!!!
ギロリっと殺気だった目でルーシーに睨みつけられ、紅茶のカップの横にティーキャディースプーンを突き刺されたアリアドネは為す術もなく体を固まらせて冷や汗をダラダラ流す。
そんなに先端が尖ってなくてもスプーンって机に刺さるんだっと頬を引き攣らせながら。
「なななっ!?」
「申し訳ございません、その名は彼女にとって忌まわしき名なのです。二度と口にはなされないようお願いいたします。彼女の名はルーシー。わたくしのために存在するわたくしの優秀な侍女、ルーシー以外ではございませんわ」
唇に人差し指を当てて静かにと警告するクリスティアの声にティーキャディースプーンをガン見しながらコクコクと何度も頷くアリアドネの強張った顔。
その恐怖に見開く緑色の深い瞳と引き攣った幼い頬を見つめながらルーシーの本当の名は彼女の親族かクリスティアしか知らないはずなのにどうして知っているのかしらっと不思議に思う。
クリスティアの周りを不審にうろついていたのでルーシーもアリアドネのことを調べたのだろうから元々の知り合いではなさそうだし……。
立ち振る舞いからして過去にルーシーが働いたことのある地位のあるようなお邸に住んでいたとかではなさそうだし、その頃のルーシーは下級メイドになるので邸の家族の顔も知らないだろう。
純粋な平民でありなんのコネもなさそうなこの少女にクリスティアの周辺を探れるほどの力はないはずだ。
ならばそのアリアドネが言う乙女ゲームというものの内容にクリスティアは非常に興味をそそられる。