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放課後アンノウンズ  作者: 猩猩
第二章〜迷ヒ猫と自傷少女〜
14/14

呪《まじな》い





 雨の日。

 それ自体に、特に思うこともなし。

 ただ、六月ということで湿気がひどいのはどうかと思う。

 ただ、それだけ。

 とは言っても、こんな雨の中を、それも休日に歩くとなれば、もはや、自分の運勢が悪い以上に、呪われているのではないかとも考える。

 大雨の住宅街で雉子島 涼花はため息をつく。

 彼女は、ある用事を終わらせた帰りだった。

 望んでのことではない。つまらない頼み事の用事だった。

 雨粒が傘を打って、その振動が手までに伝わる。傘の手元を両手で持っても、嫌でも感じてくる。

 それほど、今日はひどい雨だった。

 閑静な住宅街には、雨音だけが響いている。

 車の音さえも、聞こえやしない。

 だから、かは分からない。でも、この状況はまるでこの世界には自分だけしか居ないのではないか、という有り得もしない考えが浮かぶ。

 現に、この場には彼女一人しかいない。

 道を歩く人間も、今日が雨日和かつ休日なのか一人もいない。

 でも、涼花にとっては心地が良いものだった。

 素性の分からない人間と顔を合わせるほど、苦痛なものは無いのだから。

 それでも、気分は上がらない。

 沈んだ頭に浮かぶ表情は、これまた暗いものだった。

 その理由を、何となく思い浮かべてみる。

 思い浮かぶのは、何となくは分かってはいたけれど、やっぱり悪いことばかりだ。

 不幸の連続。

 当たり前だが、今日だけでは無い。

 ()()()()()()さえも、未だに引きづっている。

 自分が関わったのに、どうしようも出来なかったあの日。

 大事な友人の一人が傷ついたあの日。

 あの事件が、彼女の中で未だに尾を引いているのだ。

 周りの人間には、よく頑張ったね、なんて言われるけれど━━━━━━━━━

(私は何も出来なかったのに)

 ぐっ、と歯を噛み締める。ぎりぎりと嫌な感触が伝わってくる。

 死体を見た、だから何だ。

 翔は、死体にされそうになったのに。

 それだけじゃない、あいつの身体には目を覆いたくなるほどの爪痕が残った。一生、拭うことの出来ない大きな爪痕を。

 少女は憎んだ、あの"鳥”を。そして、無力な自らを。そして、彼の勇気ある行動さえも揉み消そうとした大人たちを。

 そうだ、これは私たちの問題だけじゃないんだ。

 あの後、真実を知った大人たちは、この出来事をクマなどの害獣による獣害事件だと偽った。その真意は分からないが、きっとその理由は合理性の欠片もない下らない理由だと少女は思う。

 世間に知られている、この事件の名前は"和岳町の獣害事件”。

 至極単純なネーミングだが、内容を聞けば嫌でも脳裏から剥がれなくなる事件だ。

 死傷者、子供を含めて26人。

 未だに正体の掴めていない動物による獣害。

 世間には、そう報道された。

 もちろん、彼のことは一切触れられていない。

 …でも、その理由が単純かつ身勝手なものでないのは本当は分かっている。

 これは、子供のような、悔しさ紛れの八つ当たりのようなモノだ。

 我ながら幼稚な悪癖だとは自覚している。

 しかし、これをただの悪癖でないことも分かっている。だって、これは━━━━━━。

 ふと、見覚えのある建物が見えて足を止めた。

 それは昔通っていた小学校だった。平凡な普通のコンクリート製の四角い建物。

 今日が休日だからなのか、建物の窓のどれからにも明かりは見えない。そのせいで随分と寂れているように思えた。

 しかし、六年間学んだ思い出の学校といえど、この道は高校までの通学路でもある。毎日をここの生徒と共に歩いているから、別に懐かしさのような感情は感じない。

 でも、その他に彼女の足を止める理由がそこにあった。

 小学校の前、シャッターの降りた店の雨よけの下で雨宿りをしている人影が一つ。

 デカくて、やたらとゴツイ体型の男。そして、何より見覚えのあるアホッツラ。

「征也、なにしてんの」

「見てわかんねえのか。雨宿り中だ」

 心底、決まりの悪そうな顔で大山 征也は答えた。













「で、あんたこんな所で何してんのよ」

 バサバサと傘についた雨粒を落としながら、横にいるバツの悪そうな顔の少年に聞く。

「雨宿り、そんだけ。他に言うことはねえ」

「ふーん。それじゃあ、その棒っきれは何よ」

 言われて、征也が左手に持っていた棒のような物を隠す。

「おおかた、骨董品レベルの傘差してたら案の定ぶっ壊れたから慌ててここに来て休んでる、とか。違う?」

 肩も頭もちょっと濡れてるし、と涼花が言う。

 返事は無し。

 図星のようだった。

「ほんっと、あんた物を捨てれないわよね。酷使し過ぎ、ネクロマンサーかあんたは」

「癖なんだ、仕方ねえだろ」

 はぁ、と征也がため息を一つ。

「というか、お前こそ何してんだよ」

「私はお使い」

「こんな雨ん中をか?」

 怪訝な顔で征也が聞き返す。

「ええ。こんな雨の中、汗水たらして働いてたのよ」

 ふふん、と冗談めいて涼花が言う。

「どうよ、凄いでしょ」

「そうだな」

 思わず、はぁ、とガラの悪い声が飛び出る。てっきり、何かしらのツッコミが入るだろうと思っていたのだが。本格的にバグったか、なんて考えていると。

「引きこもりが外に出てんだ、それだけで明日は槍でも降りそうだぜ」

 そうか、バグってるか、頭が。

 結論を導くと共に、涼花は迷うことなく少年を張り倒した。

「ってえなぁ何すんだよ、だからお前おん…」

「それ以上言ったら、本気でぶつ」

 おお、こわいこわい。そう言って少年は涼花から目を離す。

「にしても、本当にお前が学校以外で外に出るのは珍しいな」

「好きで外に出てるんじゃない。本当なら、今日も一日中家にいるつもりだったの」

 はぁあ、と大きなため息を吐く。

「そりゃ、災難だったな」

「うるさい。…というか、本当に征也は何してたの。こんな雨ん中、あんただって余程の事が無ければこっちには来ないでしょ」

 そう言って、隣を見る。

「…まぁ、あれだ。ちょっとした様子見」

「様子見ぃ?」

 なんの、と涼花が怪訝な顔で聞く。

 それに対し、征也がブツブツと何か呟く。

「何だってぇ?」

 聞こえない、と耳に手を当ててアピールする。

「だから、一子の様子見に行こうと思ってたんだよ!!」

 何やら顔を赤らめながら征也が大きな声で答える。

「………」

「ばっ、違うって!んな、やましい事じゃないんだって。だから、そんな顔で見んなよ!!」

「分かってる。あんたがそう言うなら、何か理由があるんでしょう?良いから教えなさいよ」

 彼女の口調に征也はどことなく世間一般の母親を見出す。

 なんだそりゃ、と心で呟いて征也は息をついて話し始める。

「…最近、あいつ様子が変だと思ってさ」

 征也の目は、コンクリートの地面を見ていた。

 心のどこかでは話したくない、という思いが若干残っているのか度々言葉を途切れさせながら征也は続ける。

「あん時、覚えてるか。いつだか図書館で四人でいた時」

 うん、と涼花が答えて首を傾ける。

「その後の、さ、翔が山に行くとか言い出して俺たちと喧嘩になったろ」

 征也がそこまで言って、少女は気がついた。

 そのことか、と。

「……もしかして、あの子が自分から死にたいなんて言ったことが気になってんの?」

 返事は、返ってこない。

 これもまた正解なんだろう。

 当たっても嬉しくもない、いやな問答だ。

「あの時から、あいつが気になってしかたねえんだよ。いつだって、優しかったあいつがあんなこと言うなんて夢にも思えなかった」

 だからさ、と。

「あいつ、あんな目にあったせいでおかしくなっちまったんじゃねえかって。それで気でも病んで━━

 言おうとした直後、征也の膝に激痛が走る

「ばか。何考えてんの、一子ちゃんはそんな()()な人間じゃないっての」

 痛がる征也を横目に、涼花が言い放つ。

 しかし、その顔は不安に駆られていた。

「…でも、分からなくはないわよ。その気持ち」

 その言葉に、痛みで跳ねてた征也はピタリと止まる。

「いつか、そうなるんじゃないかって、昔から思ってた」

 征也が、今度は彼女の方を見る。

「昔から?おい、それってどういう…」

 最近から変わった訳じゃないってのか、そう口に出そうとして止める。そんな想像なんてしたくなかった。

 涼花は、依然として正面の小学校を見たままだ。

「そのまんまの意味」

 その言葉は、ひどく淡白で何も感情が込められていない。…いや、正確には押し殺しているように聞こえる。

 しかし、その気持ちを隠したまま彼女は言う。

 それは征也にとって、何よりも聞きたくのない事実であった。


「あの子は、昔から壊れてたのよ」


 分かってはいた。

 そんなことだろうと、涼花の言葉から想像できていた。

 だが、ハッキリと突きつけられるとひどく動揺してしまう。

「…うそだろ?」

「ううん、本当」

 言うと、ゆっくりと首を左に回して征也の方を見る。

「私がこんな嘘つくと思う?」

「………」

 彼女の表情と言葉には、ハッキリとした"怒り”が見えた。

 それは誰に向けてのことか。

「あぁ…ごめん、またやっちゃった」

 あぁもう、と涼花が地面を蹴る。

「だめなのよ、このこと思い出すとイライラする。…あんたには何も関係ないのに。本当に、ごめん」

 語尾が終わるに連れて、彼女の言葉は語調は弱くなる。それと共に、ゆっくりと彼女の背中が前に傾く。下を向いた彼女の身体は継続的に、そして小さく跳ねる。

 …どこから見ても、それは何かに苦しんでいるようにしか見えなかった。

 その正体が、掴めない。

 彼女を蝕んでいるのはどんな苦しみだ。分からない。

 しかし、それよりも優先すべきことがある。

「なぁ、涼花」

 突然、征也が口を開く。

 それまでの重く苦しい空間を切り裂くような、ハッキリとした口調で少年は口を開く。

「俺さ、雨ってのが好きなんだ」

 少年の口調は、迷いのない綺麗なものだった。

 しかし、その内容の突拍子のなさからつい少女は顔を上げてしまった。

 涙で腫れた瞼をそのままに、彼女はきょとんとした顔をしているのが征也には見えた。

「いつもは青い空なのが、たまに灰色になって小さな水の塊を落としてくるんだ。こんな普通の事だと思うだろ。でも、俺はこれが好きなんだ。なんでだと思う?」

「…分からない」

 くぐもった声で少女は言う。

「正解は、雨が優しいから」

 はい?と、涼花らしい疑問の声が上がる。

「雨ってさ、鬱陶しく思う人間は沢山いんだろ。それって、濡れるし、汚れるし、物が使えなくなったりとか色々あんだろ。でも、その分俺たちが生きてくのに必要な水をくれる。そんな二つの顔を持ってる雨ってのが好きなんだ。…いや、雨が教えてくれたんだったな。どんな、物事にも二つの顔があるってことをさ」

 変だと思うかもしれねえけどな、と征也は涼花に笑いかける。

「雨は、いつも厳しいけど偶に優しい顔を見せてくれる。逆に、太陽だっていつも優しい日差しをくれるけど、時に焼けるような厳しさを見せてくる。人間だってそうだ。悪い面もあれば必ず良い面がある。なんだってそんなもんだって、雨は教えてくれた」

 少女の沈黙は続いている。

「これを俺はあいつに教えてやりたいんだよ」

 あの時は、教えられなかった。

 だから、今度こそ言いたいのだ。

「…あんた」

 呆れた。

 ここまで、あの子の事を考えるなんて。

 あのことを知らないのに、ここまで考えてくれるなんて、とんだお人好し。

「征也…あんた、聞きたいんじゃないの」

「何がだよ」

「一子ちゃんの昔の話。あの時は、あんたは別の学校に行ってたから知らないでしょ」

「…聞きたくねえ、ってのは嘘になるけどよ。それを言うお前も辛いんじゃねえのかよ」

「あの子に比べればどうってことない。それに、あんたがその覚悟があるのなら、辛くなんてない」

 そうして、少女は語り始める。

 自らの体験した地獄の一片の出来事を。






 それは、一人の少女の話だった。

 優しさの権化とも言えるような人懐っこい、まるで子犬のような少女の話。

 そして、その少女が壊れていく話でもあった。

 初めに語られたのは閉鎖的な空間に築かれた王国で、たった一人の大人による精神的な虐待の数々だった。

 その過程について、少女の友が知っていることは無かった。しかし、唯一分かるのは、その行動がまるで子供の八つ当たりのようにしか見えなかったという事だけ。現代医学を以てしても、それは永遠に解明できないだろうということだ。

 時に、見せしめのように人前で罵り、尊厳を砕くまで辱め、癒えることない生傷を大人は少女に刻み込んだ。

 そして、稀に人の居なくなった教室で日が暮れるまで彼女に罵詈雑言を浴びせる。人前でなく、わざわざ人の居ない教室でやるのは恐らく、彼女の行いが"見せしめ”ではなく明確な理由を持つ正当な"教育”なのだと信じ込ませるためだと少女の友人は考える。

 そうして、執拗なそれは彼女が学校を卒業するまで続いた。一年の年月が経てば、環境など見違えるほどの変化を遂げる。

 でも、今回のそれは残酷な変化だった。

 友人から見た少女は、もはや前の面影を見いだせないでいた。あの時の明るい笑顔は消え去り、まだ幼い顔に浮かべるのは人形のように固定された生気のない無の表情のみ。愛らしく子犬のような人懐っこい性格は、ある意味では"動物”らしく人間を恐れるようになっていた。

 話しかけても、返ってくるのは拒絶の言葉。

 彼女だけでは無い、周囲の人間でさえも変わっていた。

 あれだけ、好いていた人間達でさえ、少女を傷つける存在へと成り果てていた。彼女はそういう存在なのだという思想に囚われていたのだ。

 それでも、少女は彼らを憎まなかった。

 どうして、と少女の友が聞いた。

「だって、わたしが悪いんだもの」

 笑みを浮かべた少女は、ただそれだけしか言わなかった。そして、その笑みは少女の友にとって久しぶりに目にした偽りではない、心からの本当の"感情”だった。









「私さ、後悔してんだよね」

 一通りの話を終えた後に、少女は呟いた。

 彼女は、明るく振舞おうとしていたのだろうが言葉には哀愁が込められているのは隠せていなかった。

「あの時、あいつを刺してでも止めようとしてれば良かったって」

「お前、それは…」

「分かってる。でも、あいつは刺されたって文句は言えない人間だった」

 でもさ、と少女は言う。

「どうせ、やっても変わんなかった」

 ため息を交えたその言葉には、確かな諦めを感じた。

「…誰かに、相談したのか。他の先生とかには」

「言ったわよ。みんなにね。親にも、教師にも知ってる大人にはあら方訴えた。でも、変わらなかった」

 何でだと思う?

 今度こそ、彼女はその頬に雫を伝わせていた。

「私の言葉は、みんな妄想だって。嘘つきだって。なんなのよ、それ。手を伸ばしたのに、それを叩き落とすのが大人?あれのどこが"いい人”なのよ、狂ってんじゃないの」

 彼女の足元に雫が垂れる。

 何粒も、何粒もぽたぽたと。

「あの子が何をしたっていうの」

 うぅ、と少女が嗚咽を漏らす。

 これは悔しさだ。

 今更どうにもなりはしないのに。

 怒りでもない、憎しみでもない。

 ただ、何も出来なかった無念が延々と心に残り続けている。

 その時だった。

 少女の頭に、暖かい何かが載せられたような感触がした。

「征也…?」

 それは、太山 征也の大きな手だった。

「…俺はあの時、お前らと一緒に居られなかった」

 少女が横を見る。

 大きな手の持ち主は、目の前の建物を見ていた。

 それは、少女と同じ目線だった。

 しかし、その目に映っているのは確かな覚悟のように涼花は思えた。

「けどよ、今更あん時はあぁやれば良かった。とか、俺は言いたかない」

 少女は気がつく。

 やっぱり、こいつは悲しんでなんかいない。

「ありがとよ、涼花。お前のおかげであいつ(一子)をもっと知ることができた」

 いつも通りの、太山 征也だ。

 あんなことを聞いた後でもこんなに前向きになれる。そんな図太さと、優しさがこの男を作っている。

「あいつの傷が昔のもんなら、心配なんか要らねえ」

 そう言って、やっとその顔を見せた。

 微笑みを浮かべる少年は、理由なくともただ安心感を与えてくれる。

「今は俺たちが居る。もう、あいつを傷つけさせやしない。だろ、涼花」

 くす、と少女が笑う。

 あぁ、変なの。

 理由も根拠も何もありゃしないってのに、このやろうはホントに。

「何がおかしいってんだよ」

 困った顔をした少年が聞く。

「別に、アンタらしいなって思っただけ」

「なんだよ、それ…?」

 少女が頭に載せられた手を退かす。

 そうして、この雨避け下の限られたスペースで少女はめいいっぱい体を伸ばす。

「ええ、そうよね。難しいことばっか考えてたって、しょうがないわよね」

 少しばかりは楽になった。喉で突っかかった小骨が取れた気分に近い。

 ちょっとした安心感を得られたということだ。

 …でも、心にはまだ残る異物が残っている。

 多分、一生残っているであろう腫瘍がまだ。

 それでも、と少女は思う。

 この事を打ち明けられて良かった、と。

 彼だけがこの事を知ることが出来ないでいた。だから、教えなければいけなかった。

 でも、教えたとしていったい、彼がどんな反応を示すか。それだけが不安だった。

 それが実際には、こんなのだった訳だ。

 安堵せずになんだって言うんだ。

 ともかく、何はともあれ。

「ありがと、征也」

 涙の跡を残したまま、少女はニコリと征也に笑いかけた。













 昔の記憶が、夢のように流れてきた。

 瞼を閉じた先にあったのは休息ではなく、記憶の奥底に閉じ込めたはずの忌々しい記憶の追体験だった。

 今となってはあの時の苦しみは透明にほど近いほど薄れている。

 それは確かに間違っているのだと教えられた、事実、その記憶にある台詞の殆どは荒唐無稽な戯言ばかりなのだから。しかし、私はその戯言に今でも縛り付けられている。

 お前のような人間は、害しか与えられない。誰の役に立たない出来損ない。

 そんな言葉が、脳裏にこびりついている。

 あぁ、そうだ。いつだって私は誰にだって迷惑しか掛けていない。何をしても、何を言っても誰かを傷つける。

 胸の中にいる彼に語りかけようとするが、口の中が異物で塗れているような気持ちの悪い感覚がして、とうてい動かす気になれない。

 それに、体もコンクリートで固められたみたいに微塵も動かない。

 やっぱり、私には無理だったんだ。

 この小さな生き物を助けることすら、私には出来なかった。

 …でも、それでも、わたしは思うのだ。

 こんな非力な私でも何かを守りたい。

 あの日、私は絶望した。

 何もすることができないで、ただ、口ばかりを先走らせていた。

 だから、翔さんがあんな事になった。

 私があの人といることが出来れば何かが変わったかもしれないのに。

 後悔ばかりが浮かんでくる。

 だから、なのかもしれない。

 私は、後ろばかりを見ている。決して、遠い先を見ようとしないで踏んで来た道ばかりを見返している。

 それではダメなのに。

 後悔があるのなら省みなければならない、何がダメだったのかそれを理解しなければ延々とこの身に成長は訪れないのだから。でも、それだけでは足りない。その後悔に見切りをつけなければ、永遠に後悔に縛られてしまう。

 けれど、私には過去に見切りをつけられる強さは持っていない。

 だから、いつまで経ってもあの人達の役にたてない。

 あぁ、嫌だな。

 あぁ、悔しいな。

 どうしようも出来ない無力感が、痛みよりも辛い。

 何も捉えることの無い目を、胸元に向ける。そこにはきっと、あの子がいるはずだ。

 酷い怪我を負ってまで向かいたかった場所にたどり着くことなく力が尽きてしまった彼が。

 …そうだ、そうだった。

 私は、彼を助けたはずだ。

 そして、彼を最後まで見届けるのだと約束したでは無いか。

 死ぬはずだった彼を助けた私にはその責任がある。

 …なら、動かないと。

 立って、歩いて、この子を送り届けないと。

 ゆっくりと、足に力を入れて、あの子を抱いてない右手を地面に立てて支えにして、ふらふらと立ち上がる。

 それだけで倒れそうなくらいの疲労が襲いかかってくる。

 でも、倒れることなんてできない。

 私は約束したから。

 右足を前に出す。引きずるようにして、前に出す。まるで、鉛か何かの塊を引っ張っているような気分になる。

 はぁはぁと荒い息をすれば、鉄の香りが肺から登ってくる。

 胸元に抱かれた彼を見ようとする。でも、もう彼の顔は認識することは出来ない。

 けれど、私は彼に笑みを見せる。

「大丈夫、あなたはきっと辿り着けるから」

 そうして、私は歩き出す。

 この子が望んでいる、あのマボロシに向けて。



執筆ペースが遅くなっている気がします、どうも筆者の猩々です。

さて、今回の話ですがちょっとばかり厳しめになっています。本当なら、過去の当人目線で書いていこうとしていたのですが、そうなるとどうしても執筆量が増えて本筋の話とは別になる可能性があったので、やめました。

というわけで、今回はこの辺りで…。よろしければ、次回の方も良ければお待ちしていただけると幸いです。

それでは、今回も読んでいただきありがとうございました!

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