望郷
今日はあの人はいない。
彼女曰く、がっこう、って所に行くそうだ。朝から夕方までいつも決まった時間だけあの人はここを空ける。
はっきりいって、さびしい。
このふかふかしてるけど凹凸のない床よりも、あの人の膝が良いのに。べつに、寝心地がいいとかじゃない。ただ、安心する。それだけ。
…あぁ、まだかな。
彼女のベッドの上を歩き回るけれど、
どれだけ経っても、彼女は帰ってこない。
窓から、空を見上げる。
今日は彼女が嫌いな雨の日じゃない。彼女だけじゃない、僕だって嫌いなのだ。だから、この青い空を見ると少しだけほっとする。
窓の網戸からちょっとだけ冷たい風が入り込む。僕はこの風が好きだ。足を休めて、全身でその風を受け止める。
こうやって、風を浴びているとあの時を思いだす。深い霧に覆われた森の奥。そこにある僕の家。そこがどこにあるのか、どんな場所なのか。ほんとのことは僕でも分からない不思議なところ。
思い出す度に、記憶が、僕の記憶が溢れてくる。
(あ、あぁ、お母様…)
そうだ。僕は、帰らないと。ここは本当の家じゃない。
でも、でも、僕はあの人に助けられた。そうしてこの家に迎えてくれたのに、ここから出ていくなんて、そんな恩を仇で返すことなどできない。
それに、もう僕の足では遠くに行くことはできない。あの山にたどり着く前に果ててしまうだろう。…その前に、あそこへは辿りつこうという思いがあればその時点でたどり着くことはできない。なぜなら、あそこは迷い人のみを受け入れる場所。出てしまったら最後、そこに入ることは二度とできない。
だから、忘れよう。
あの場所がどれほど思い入れがあろうとも、今はここが僕の家だから。
……それでも、それでも、名残惜しい。はっきりとした理由は分からない。帰りたい、その心はどうしても消えないのだ。
その時、だった。
ただいま、と僕の大好きな声が下から聞こえた。
僕の好きなあの人が帰ってきたのだ。
そんな当たり前のことを思いながら、僕はベッドから飛び降りた。
この頃、彼の様子が変だ。
確かに彼は他の猫とは違うところはある。歳をとるのが異様に遅かったり、私の言葉に反応して鳴き声を出したり、などはあるが、それとは違う。
最近、彼が窓のそばにずっといるのだ。
まるで、その先に何かがあるかのように窓の外を見つめている。彼の視線の先には山しかないと言うのに、何なのだろう。
「ねえ、君は何を見ているの?」
彼の隣に座って、その小さな体を抱き上げる。胸の中に収まった彼は、それでも遠くを見つめていた。
私も、彼の視線の先を見てみる。
そこにあるのは、やっぱり山だけだ。この前のあの場所では無い別の山。だから、何も感じることは無い。はず、なのに。
おかしな感覚を、私の神経が捉えた。喜怒哀楽のどれでも言い表せない感情のようなもの。いや、強いて言うのなら悲しみに似ているのかもしれない。はっきりとしたことは分からないが、私はその感覚の正体を知っている。ぼんやりとだけど、私の記憶に残っているそれと同じだと感じるのだ。
彼の背中を撫でながら、何とか思い出そうとする。
「あっ」
ついに思い出すと、声が出た。
これは"懐かしさ”だ。
過去の何かを、どこかを、誰かを思い出すと、浮き出てくる感情。悲しみとは似て異なる、負の感情。
かけがえのない体験は、二度と戻ってこないという現実に直面した時に、この感情は現れる。
その感情の正体を理解した私の脳に、今度は別の"何か”が滲んでくる。
それはまるでイメージだった。視界に映ることなく、直接脳内に映されているかのように鮮明にそれは再生される。
霧に覆われた森の奥、そこに佇む一軒の建物。私たちの見慣れた建材で作られたものではなく、木でつくられている。まるで、おとぎ話に出てくるかのような豪奢なお屋敷。
こんな森の中にあるのに、その建物だけは手入れをされているかのように綺麗に保たれていた。誰かが住んでいるのは、明白だ。
イメージが別のものに変わる。
今度は、屋敷の中だろうか。まるで、宴会にでも使うかのような広い部屋だけど、そのための家具のようなものは何も無かった。人が生活するための部屋ではないのだろうが、それでも飾り気が無さすぎる。
そして、その部屋の中央に"彼女”はいた。
お姫様のような豪奢な髪飾りで髪を結い、十二単のような引きずってしまうほど大きくて絢爛な着物を身に纏う綺麗な顔をした女の人。その膝には、ちっちゃな黒い塊が体を丸めていた。それだけでは無い。彼女を何匹もの猫や雀などが、囲んでいる。
異様な光景、そのはずなのに私の視線はその女の人に奪われていた。
それほど、彼女は美しい。
まるで、化かされているかのような気分。
それでつい呟いてしまった。
「綺麗な人…」
黒猫を撫でる女の人の腕が止まる。そして、顔を上げて、薄らと微笑むと、その目を私に向けた。
「うあっ!?」
驚きのあまり、体が仰け反る。イメージが消え、脳が現実の景色を再認識する。
心臓の鼓動が早まり、冷たい汗が額に浮かぶ。
まさか、彼女は、見ていた?私を?それとも、他の誰か?
でも、それなら、なんで笑っていた?
そもそも、あれは一体…。
でも、それよりも気になることがある。
(あれは、君、だよね)
女の人の膝にいた黒い猫、あの子は間違いなく、今私の胸の中にいるこの子と同じ猫。
それなら、もしかしてあの女の人はこの子の…。
いや、それならどうしてこの子はここに?
疑問は幾つも湧いてくるのに、答えが見つからない。
それにこの気持ち。もしかして、私、怖いの?
この子が、私の元から離れてしまうことが?
違う、違う違う。
私はこの子が幸せに生きていて欲しい、とただそれだけを願っている。それだけなのだから。
それまでは、わたしが、最後まで、
「君を守るから」
この思いは変わらない、何があっても、絶対に。
そうして、私は彼を抱えるとゆっくりと抱きしめた。
今日の空は曇り、この具合ではやがて雨が降るであろうほど黒々とした雲が空を流れていた。
どうも、筆者の猩猩です。
最近はあとがきを雑に済ませていたので、今回はちゃんと書きたいと思います。さすがに前回のは酷かったと思います。
ところで、この2章から一人称へと視点が変わりましたが如何でしょうか?
なにせ、自分は今まで書いてきた小説は殆どが三人称だったので、上手く描写が出来ているかが不安な所存です。
とはいえ、次の3章からは三人称に戻ったりもします。この2章では一子の心情を細かく書きたかったという点があったので一人称にしたのですが、3章からは全体を平等に描写しなければ追い付かないかもしれないので悪しからず。
さて、それでは今回はこの辺りで。
誤字や脱字、おかしな文を見かけたらご報告して頂けると幸いです!
では、次回でお会いしましょう!




