君とこれっきりになりたくない
彼女は常識的で善良な人間ならほとんどがそうするように、空から降って来た白い紙を、懸命に小さな手で拾い集めてくれた。
彼女が白い紙を全て拾い集めると、俺はゆっくりと階段を降りた。
ああ、今思い出した。
階段はさび付き、赤茶けた手すりが付いていた。
まあ、どうでもいいことだが。
彼女は俺に拾い集めた紙を、無言で渡そうとしたので、俺は声を聞きたく思い礼を言った。
多分、ありがとうと言ったと思うが、思い出せない。
彼女は「いえいえ」とか、しょうもないことを言ったと思う、これも思い出せない。
何しろ、自分は生れて初めて、焦っていた。
何とか会話をここで終わらせず、彼女と繋がりを作らなくてはならない。
俺は彼女にお礼をしたいと言ったが、彼女は断った。
それはそうだろう。
高校生だった彼女からしたら、自分はさぞ怪しい人間に見えただろう。
ロリコンの変態だと思ったのかもしれない。
幸い交番は近くにあるので、それほどの恐怖心はなかったのかもしれないが、まあ、変な人に捕まってしまったと思っていただろう。
俺はもう素直に言った。
必死だった。
あれほど全身の血が沸騰し、情熱をもって喋ったと言うのは、なかったと思う。
俺は言った。
君とこれっきりになりたくないと。
どうしてももう一度会いたいと。
怪しいものじゃないと、名刺も出した。
医者だというのが功を奏した。
彼女のように、余り勉強の好きではない子供と言うのは、医者というものを、やたらと有り難がってくれるものなのだ。
俺は週末の日曜日の十二時にこの階段で待っていると言った。
来るまで待っていると言ったら、どうも気が弱く、推しに弱いのだろうことは、把握できた。
これが後に俺をひたすら苦しめることになった。
その日はそのまま別れ、俺は彼女の名前も聞かなかった。
週末の日曜日、彼女は約束の時間より早く来てくれた。
俺達は、歩いてすぐと言うわけではないが、一番近くにある飲食店である、ビッグボーイに入った。
俺が何でも好きなもの食べていいよと言うと、彼女はステーキとハンバーグのセットと、チョコレートのアイスクリームの上に生クリームの乗った甘ったるそうなものをぺろりと食べた。
彼女は小柄で、華奢だったのだが、よく食べた。
結婚前は一緒に何回か食事に行ったが、ビッグボーイに行ったのはこの一回だけだ。
自分が何を食べたのかは覚えていない。
元々食事に興味はないし、彼女を見るのに忙しかった。
その食事の席で彼女の名を知り、高校一年生だということ、俺とは十三歳も離れていることを知った。
彼女は俺の年を聞いて驚いた。
俺のことをカッコいいと容貌に関して、絶賛してくれた。
彼女は両親を二年前に亡くしており、今は姉夫婦の所に世話になっていること。
駅前のスーパーでチェッカーのバイトをしていることを教えてくれた。
俺は姉の夫という彼女の義兄に悍ましいまでの嫉妬をし、恐怖した。
彼女が義兄に手籠めにされているのではないかという、猜疑心が芽生えた。
恐らく生れて初めて、自分の想像に震え、怒りで頭がおかしくなりそうになった。
震えていたのかもしれない。
食事を終え、外に出た。
彼女は四時からバイトだと言うので、それまでは付き合って欲しいと言ったら、断られるかと思ったが、彼女はあっさり承諾してくれた。
恐らく、おごってもらったので、それくらいはしなければと思ったのだろうと思う、そう言う女だった。
田舎故、行くところなどなく、だからといって、自分の家に連れ込めるはずもなく、仕方がないので、二人が出逢った三丸橋のすぐ傍にある金亀公園のベンチに座って話をした。
俺が又会って欲しいと言うと、困った顔をしていたが、絶対に何もしないし、一緒にご飯を食べてくれるだけでいいと言うと、了承し、ラインも教えてくれた。
その次に会った時に結婚を前提に付き合って欲しいと言うと、目を丸くし、聞いてきた。
私達この間会ったばかりですよね、と。
そうだと言うと、ますますわからないと言った顔をした。
だが、彼女は頷いた。
何が決め手となったかは今となっては、もう永遠にわからないし、別にそんなことはどうでもいい。
恐らくは、俺の顔が良かったこと。
京大出の医者だということ。
両親はすでに他界し、天涯孤独だと言うことが良かったのではないかと思う。
彼女も姉がいるとはいえ、年も離れているし、もう他家に嫁いだ身で、子供もいた。
今思うと、彼女は欲しかったのかもしれない。
自分の家族が、子供が。
それは永遠に叶わなかった。
彼女は俺という夫を持つことはできたが、母親になることはできなかった。
それは俺とて同じだが、俺は父親になどなりたくなかった。
俺には彼女さえいればよかったのだから。