老境の鉄アレイ
我が家には鉄アレイが一本ある。
重さは二キロの鉄製のアレイだ。両端が丸くなっていて、持ち上げて腕を鍛える以外には、重しぐらいにしか使えない奴だ。買って十年以上になる。最初の四五年はよく使っていたが、今ではもう丸くなるだけ。殆ど動かずに部屋の端でじっとしている。
昔は元気が良かった。
毎日、朝になると鉄アレイと一緒に散歩に行った。散歩に行かないとうるさい所為だ。物の擦れるような音を出して、散歩に行け行けと俺を威嚇する。
一度散歩に出ると、これが長かった。鉄アレイはなかなか家に帰りたがらないのだ。家に帰ろうとエキスパンダーを引っ張っても、全力で引っ張り返してくる。これには参った。それでエキスパンダーに肉を挟んで悲鳴を上げたりしたっけ。
しかも、鉄アレイのやつは、他のトレーニング機器と喧嘩を始めるのだ。一番の喧嘩相手は隣の兄ちゃんがボディビルダーみたいな身体になるぞと張り切って買った、バーベルだった。ベンチプレスに使うやつで、重さが二十キロもあるやつ。こいつに我が家の鉄アレイは噛み付いた。
文字通りの意味で。
二キロVS二十キロ。冷静になれば勝負になるはずがないのだが、なぜか鉄アレイは勝っていた。
これはバーベルが情けないのか、鉄アレイが凄いのか。どっちかな、と隣の兄ちゃんに聞いてみたら、彼は無表情で「うちのバーベルは気が優しいから」と答えた。成る程、確かにそれはそうだと当時は膝を打ったものだが、今から考えれば、アレは兄ちゃんなりの負け惜しみだったのだろう。
俺の考えは、こうだ。
ただでかいだけのバーベルと違って、俺の鉄アレイは鍛え込まれた鉄の塊だった。だから、バーベルなんて敵ではなかった。そういう事だ。
ただ、そんなバーベルも三年後にはいなくなってしまった。隣の兄ちゃんが司法書士になるからと言って、トレーニング器機を全て処分してしまったからだ。その中にはバーベルも含まれていて、そいつは鉄くず屋に売りに出されてしまった。けれど、うちの鉄アレイはそんな人間の事情は分からないから、散歩に出かける度に喧嘩相手のバーベルを探した。丸い首をキョロキョロさせて、毎日のように探していた。
だが、三ヶ月も経った頃、不意に鉄アレイはバーベルを探さなくなった。その時の鉄アレイの顔が妙に寂しかった事を、俺はよく覚えている。
そんな鉄アレイの好物は鉄粉だった。
特に鉄分百パーセントの鉄粉が好物で、混ぜ物があると嫌がった。アルミニウムが大嫌いで、食事にアルミが入っていると烈火の如く起こって餌皿をひっくり返す。これには俺も閉口した。なぜなら、ジムに鉄アレイを連れて行くと、インストラクターが鉄アレイの顔色を見て「これはいけないわね。鉄だけじゃなくてアルミも食べさせないとだめだよ」と上腕二頭筋を鍛えながら、素晴らしい笑顔で語るからだ。
ジムのインストラクターという人々は、トレーニング器具の飼育について熟知している。だから、鉄アレイが偏食をしていれば、それはすぐに分かってしまう。
俺はインストラクターの言葉に従って、何とか鉄アレイにアルミを食べさせようとするのだが、鉄アレイはどうしても食べない。少しでも、たとえアルミ粉の一降りでも、鉄粉の中に混ざっていたら、鉄アレイは餌皿を蹴り飛ばしてしまうのだ。
どうにかしてアルミを食べさせる事が、当時の俺の関心事であって、その時付き合っていたのは王蝋氏という少女(騎馬遊牧民であり、家畜の羊を肥らせる為、日本にやって来ていた)とのデート中にも、その事ばかり考えているぐらいだった。
「鳥遊、オマエ、ワタシとデート中。他ノ女、考エルナ。殺すぞ」
殺すだけはやたらと流暢だったのは、それだけ彼女はその単語を使い慣れていた所為だろう。遊牧しながら略奪する彼女の部族にとって、我々の文化圏で言うところの強盗殺人は日常的な行為である。敵は殺し、価値あるものは奪う。それが騎馬遊牧民族の『当たり前』だ。俺たちとは文化が違うのだ。
俺は王蝋氏に殺されてはかなわないと思ったので、素直に鉄アレイについての話をした。
「……鉄あれい、トハ、羊ミタイナモンカ」
フェルトの帽子を被り直しながら、王蝋氏が唸り声を上げる。
「まあ、そうだな。鉄アレイは羊みたいなものだ」
その時は、その通りだと俺は王蝋氏に向かって頷いてみせた。
だが、実際には鉄アレイは家畜ではない。それは一つの無機物であって、トレーニング器機である。家畜のように屠殺して食べる事もできないし、生活の役に立つわけでもない。
いや、まあ、トレーニングを生活と考えた場合、それは役立つと言えるかも知れないが、人類史を鑑みても、トレーニングという物は実際の生活とは乖離した部分に存在する物で、例えば、日々の農作業をしている農夫が筋肉トレーニングをする事はまずなく、その身体は生活の中で鍛えられていくわけで、その意味でトレーニングを生活の一部にすることは、俺としては受けいれがたい。ああいうのは結局、趣味なのだ。
けれど、そうしたことを王蝋氏に説明するのは、難しいを通り越して無理に近い。彼女は我々とは別の世界、別の価値観に生きている。
家畜と流浪して、どこからか来て、去って行く。
定住民である俺との間には、極めて大きな文化的ギャップがあり、まあ、そういう物が作用して、俺と彼女は恋仲となったわけだけれども(男女の恋愛においてはギャップは強力な兵器となる)、こういう場面では意味がない。単純に相互理解が難しくなるだけで、だから、俺は、適当な理解の仕方でで済ませているし、相手である王蝋氏も、それで問題ないとしている以上、俺の方で混ぜっ返すつもりはない。
「家畜、世話、重要!」
「ああ、それで悩んでいる」
「餌、拒食カ?」
「ああ、そうだな。君ら遊牧民で言うところの、家畜が塩をなめないみたいな状態だよ。それで、どうにかして、塩をなめさせたいわけだ」
「ナラ、コウダ!」
そう言うと、王蝋氏は顔を近づけてきて、俺の口にキスをした。乱暴な、野趣溢れるキス。しかも、思いっきり舌を入れて、その時に何かを口移しで食べさせられた。それはとても甘い、飴の様なお菓子だった。
「コウスルニ限ル」
王蝋氏はにやりと笑う。
口移しで無理矢理食べさせろという事か。
だが、彼女の献策はありがたいけれど、残念な事に鉄アレイには口というものが存在しない。口移しで食べ物を無理矢理食べさせる策は使えない。そうしたことを伝えようと、口を開いた瞬間に異変が起きた。さっきまで甘かった口の中が辛いのだ。俺が「み、水」と叫ぶと、王蝋氏はけらけら笑った。
彼女が口移しで食べさせた甘い食べ物は、中に鷹の爪が入った食べ物だった。甘いと思って食べていると、中の唐辛子でのたうつ一品。だが、彼女が語るところによれば、この食べ物は寒い冬に身体を温める為に唐辛子を効率よく食べるため糖衣で覆っただけで、本来の食べ方は甘い間に飲み込む事であるのだという。
「ソウスレバ、辛イ食ベ物、喰エルダロ?」
そう言うと、王蝋氏は肉食獣みたいに笑った。
俺は王蝋氏に教わった方法で、鉄アレイにアルミを食べさせるのに成功した。彼女がいなければ、きっと鉄アレイは栄養失調を起こして長生きする事は出来なかっただろう。その意味で、鉄アレイにとって彼女は命の恩人だ。
もっとも、それからすぐに王蝋氏は俺の前から姿を消してしまった。草が青さを失って、風が寒さを運んでくる頃になると、別れの言葉を一つ残して、彼女は日本から姿を消した。それ以来、彼女と会っていない。
「色々な事があったな」と、俺は鉄アレイの背を撫でてやる。
すると、部屋の隅で丸くなっていた鉄アレイは、小さな音を出した。物を動かすような響く音で、これは気持ち良いという意味であると思う。
なぜ思うかというと、俺は鉄アレイと言語による意思疎通はできないからだ。鉄アレイは言葉を話さない。彼が(仮にこの鉄アレイが雄だと仮定した場合だが――そもそも鉄アレイに性別が存在するのかどうなのか、これは多くのトレーナーが思案している難題だ。その答えは安易に出るものではなく、そもそも鉄アレイがどういう形で生殖をしているのか、未だに解明されていない)発する音というのは物を動かすような物音であって、うごごごとかごごごみたいな音ばかりだ。それ以外に鉄アレイが音を立てる事はなく、その物音だけで俺は彼の機嫌を伺わなくてはいけない。
ともあれ、鉄アレイは気持ちよさそうな音を立てて、俺に身を任せている。そうしている時の鉄アレイは、トレーニング機具というよりも、一匹のペットであるようだ。
「気持ちいいか」と尋ねると、鉄アレイは『うごごご』と音を立てる。それは肯定の意味だと捉えて、俺は鉄アレイの為に背を撫で続けてやると、やがて、鉄アレイは物音を立てなくなった。眠ってしまったのだ。
寝た鉄アレイは、床にうつぶせになって身動ぎもせずにすやすやと寝ている。あまりに動かないので、死んでしまったのかと疑ってしまうが、よくよく顔を近づけてみると、本当に小さな声で『ごごご』と寝息を立てている。
寝てしまった鉄アレイは、なんだか小さく見えた。いや、実際に鉄アレイは小さくなっているのだ。
この家に来たときの鉄アレイは若さに溢れていて元気だった。色艶も良くて、重さもぴったり二キロあった。
けれど、鉄アレイは歳を取った。随分と縮んでしまった。表面の光沢もなくなって、身体にサビが浮いてきているし、体重だって軽くなった。この間測ったら、一キロ半を割っている。身体に刻印されている金文字は二キロと大書されているのに、その質量は一キロと四百グラムしかない。
「歳を取ったなぁ……」
鉄アレイを撫でながら、俺はしみじみと呟いた。
もう完全に老境と言った風情を漂わせている。お爺ちゃんかお婆ちゃんなのかは、鉄アレイのジェンダー問題に関わってくるので断言することはできないが、そろそろお迎えが来てもいい年齢なのは間違いない。
ある日、目が覚めたとき、あるいは仕事から帰ってきたら、きっと鉄アレイは冷たくなって物言わぬ身体となっていのだろう。
しかし、よくよく考えてみると鉄アレイは初めから物も言わないし、体温もない。身体は冬なら冷たいし、炎天下に出しておくと火傷をしそうなほどに熱い。そもそも鉄アレイは生き物ではなく、一つのトレーニング機具だ。
それを改めて認識すると、鉄アレイにおける死とは何なのか。
そんなことを考えながら、俺は部屋の隅でじっとしている鉄アレイを眺め続けている。