34「黒の覚醒」
「ユウ……? どうしちゃったの……?」
アリスは死に向かう自分自身のことも忘れて、こちらへ困惑の目を向けていた。
まるで理解できないものを見ていた。俺を覗く瞳から、恐れと拒絶の意を感じる。
「すぐに終わる」
「いやよ……違う。そんなの、ユウじゃ……ユウじゃない……!」
いやいやと首を振って、アリスは泣き崩れてしまった。
彼女には、わかってしまったのだろう。
俺が変わってしまったこと。もう二度と元の「ユウ」には戻れないことを。
それでも構わない。お前を倒せるなら。
ヴィッターヴァイツに向き直り、奴の顔を正面から睨んだ。
その面からは、まだいくらか余裕が見える。
「戦る気か。理解していないようだな。決定権はオレにあるということを」
あくまで自分が上手のつもりだ。
嘲りの笑みを浮かべて、掌をアリスに向ける。
そして、動揺した。
「馬鹿な……!? なぜ爆発しない!?」
手に力を込めるが、何も起こらない。
それはそうだろう。起こるわけがない。
はっと気が付いたように周りを見回して、奴はようやく事態を理解した。
「世界が、止まって――」
「俺が【支配】した」
ヴィッターヴァイツは、茫然として声を失った。
その言葉が意味するところを理解して。
あってはならないことだ。コピーがオリジナルを超えるなど。
左手を前へ突き出す。
「もうお前は、何も支配できない」
《気断掌》
「うおうっ!」
不可視の衝撃が、ヴィッターヴァイツを頭から弾き飛ばす。
奴が体勢を立て直すより先に、吹っ飛ぶ奴の真上に回り込み。
力任せに拳を振り下ろした。
あばら骨を粉々に砕く感触。
ヴィッターヴァイツは、地面に激しく叩き付けられる。
この地面は、止まった世界の影響で奴をめり込ませることはない。
バウンドしたところを、左足で痛烈に蹴り飛ばした。
遥か彼方へと吹っ飛ばされ、どうにか空中で静止した奴は。
もう余裕など欠片もない。血塗れの姿で、ひどく取り乱していた。
「貴様のどこに、こんな力が……! はっ、どこだ――!?」
後ろから肩を掴む。
その肩が、わなわなと震え出した。
なまじ力があるばかりに。実力差がわかってしまう。
お前は二度と俺には敵わない。
引いてはならない最後の引き金を引いてしまったことを。
後悔して死ね。
腕に力を込めていく。
肩の骨は容易く軋み。奴は苦悶の声を上げる。
そのまま、俺は肩を抉り取った。
「ぐおおおおおおおおおーーーーーーーっ!」
ヴィッターヴァイツが空を飛んで逃げる。距離を取ってから迎え撃とうというのだ。
逃がすわけないだろう。
気剣を槍状に変形させ、投げつける。
抵抗の一切ない静止世界で、それは光の速さにも迫る速度で奴を捉えた。
左手が串刺しになって、吹き飛ぶ。
奴が落下していく。
予測される地点に向かって、俺は駆け出した。
左拳に気力と魔力を同時に集中させる。
世界を砕くほどの力を一点に込めて。
「オレを、舐めるなよ!」
執念で跳ね上がる。
ヴィッターヴァイツの目は、本気だった。
全身全霊で右の拳を打ち出してくる。
正面から飛び込んで、俺も拳を合わせた。
想像を絶するほどの、力と力の激突。
そして――。
勝ったのは俺だ。
俺の拳が、奴の腹をぶち抜いていた。
ヴィッターヴァイツは、その巨体を力なくのしかからせて。
吐血した。
「最後だ。技を解除しろ」
「はっ……あれは不可逆だ。一度発動すれば、ゴフッ……オレにもどうにもならん」
「そんなことだろうと思っていた」
アリスは、もう。
「は、は……久しぶりだぞ。死ぬのは」
この期に及んで。何だ。
満足そうな顔をするな。
「確かに。貴様は、オレに勝った……だがな」
にやりと奴が笑う。
俺は。致命的に「やり方を間違えた」ことに気付いた。
「もういい。それ以上喋るな」
「くっくっく。オレは……死なん。貴様もな。フェバルである限り……!」
敗者たるヴィッターヴァイツは、勝ち誇って吠える。
「そうさ! 今回はオレの負けだ! わ、は、ははは……!」
「黙れ!」
貫いた腕に魔力を通して。内側から破壊し尽くす。
「じゃあな。小僧」
奴は狂ったように嗤い、そして粉々に消し飛んだ。
……終わった。
ただそれだけが、最初は浮かんだ。
何の感慨もない。
むしろ残ったのは、悔しさばかりだった。
終わっただと。何が。
これが、勝利か? こんなものが。
ふざけるな。
俺は、何も救えなかった!
傷だらけの身体で、ふらふらと歩き出す。
どうやらまだ死ねないらしい。腹に空いた穴も、いつの間にか塞がっている。
世界はまだ動かない。動かしたくなかった。
俺は、彼女のいる場所へ向かった。
アリス。
ぽろぽろと涙を流したまま凍り付く、彼女の泣き顔を見つめる。
見つめるうち、俺も泣きたいような気分になってきた。
もう彼女だけだ。
それも――俺が時を動かせば、死ぬ。
世界を巻き込んで。
永遠に、時を止めていられればよかったのに。
このまま止まった世界で。
アリスと二人、ずっと過ごしたって構わないじゃないか。
ああ。わかっている。そんなことは許されない。
世界は無情だ。どんなに望んでも、待ってはくれない。
運命は残酷だ。どこまでも俺に牙を向く。
どんなに手を伸ばしても。どんなに強くなっても。
本当に大切なものは、この手をすり抜けていく。
そうしてまた俺に、選択を強いるのだ。
やらなければならない。
俺がこの手で。やらなければならない。
あのときもそうしたじゃないか。
また同じことをするだけだ。そうだろう?
まだ大事な、最後の一仕事が残っている。
俺は、そっとアリスの頬に触れた。




