嬉しいのか悲しいのか。
『なんかあったら、電話しろ。……なんかあったら、な。』
頭の中で反芻される言葉。
ずっとずっと私の頭の中で繰り返されて、消えない。ご飯を食べてもお風呂に入っても。何をしても。
あの時発せられた、その言葉に、哀れみはあったのだろうか、軽蔑はあったのだろうか、畏怖はあったのだろうか、嫌悪はあったのだろうか。
その顔に、気持ちに、行動に――――。
そこまで考えて、小さく笑った。
今更、そんなことを考えても意味はない。
だって答えは決まっている。
全てだ。
しかし、答えは決まっても、その深さ、高さ、度合いは分からない。
きっと、優しい彼のことだ。明日も笑いかけてくれるのだろう。
いつも通り、何もなかったように、変わらずに。私がそうして逃げたのだから。
「……なんでかなぁ」
呟いた言葉は、ひどく掠れていた。
もう大丈夫だと思ったのに。変われたと思ったのに。
あの頃には戻らないと決めたのに。
腕についていた傷は限りなく浅い。ほんの、どんな奴でも軽い気持ちで切れてしまうほど。
それが、今の自分なのだろうか。
それとも、少しは躊躇したのだろうか。
何にで自分を責め、罰をおくったのだろう。
ひどく臆病で、泣き虫で、自責の念の強いが故の、愚かなこと。
何故、切ったのだろう。何故、切るのだろう。
「嫌だなぁ……もう」
ベットに身を投げ、そのまま反動をつけて壁に頭をぶつける。
――――ダイキライだ、こんな自分。
何故、うまく笑っていられないのだろう、怒ってしまうのか、傲慢じゃないかそれは、私は皆の側にいさせてもらえるだけ幸せなのに、自分の保身なんかに生きるなよ、なんで、皆の望むがままに動けばいいのに、反論なんて、死ねよ、バカじゃないの、高望みするな、幸せに留まれ、しがみつけ、望むな、私は、私はお前が、嫌いだ嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いやだ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――――。
ガッ、と今までで一番大きな音を立てて壁に頭をぶつけて、ようやく我に返った。
親に聞こえてしまう。心配はかけたら、ダメだ。
どうせ、私は弱いままじゃないか。
こんなことしても、何処にでもいる中学生と同じじゃないか。
あの子達のように、軽い気持ちで切ったのか?
『今日も、切っちゃってさー』
『なんか、こースカッとするっていうかー』
『どうしても止められなくってさ……どうしよう』
『切っちゃ駄目なのは分かってるんだよ、でも……』
笑顔で傷を見せるような、彼女たちに。深刻そうな顔でも、聞いてもいないのにバラす、彼女たちに。
『知るか。お前の傷なんてどうでもいい。直るだろう? たかが擦り傷で、バカじゃないの?』と、何度私は言いかけたのだろう。
まさか、私が彼女たちのように同じなわけがないのに。同じでいれるわけがないのに。
彼女たちは、ただの飾りだ、少し自分を新しい形で輝かせるためのアクセントに過ぎない。
私のような奴に、そんな資格はない。そんなことをしていいわけがない。
だからこそ思う。
私はそんな彼女たちを軽蔑していたのではない、恐れていたのだ。
何を笑顔でそんなことが語れる? 何がいいのだ、何が。
怖い、いくら口先で罵れようが、心の奥底では酷く恐怖を感じていた。
理解が出来なさすぎた。こんなことの何が良くて切ったのだろう。
カッコいいのか? 「私は可哀想だ」というサインなのか? それとも「私はこんなことも出来るんだ」というアピールなのか? 「切れるぐらい悩んでいるの」とでも言いたいのか? ファッションのつもりか? 歪んだ優越感か? 反感か? 自己主張か?
いいことなんて、これっぽっちもないのに。
止められなくなったときには、もう遅いのに。
周りに迷惑をかけるだけなのに、親に、母に父に、泣かせるだけなのに、私の身体? そうかもしれない。けれど、それは親があってこそなんだ、気づいてよ。
後悔してからじゃ遅いんだ。
……それとも、そんなことすら思わないほど軽い気持ちだったのだろうか。
そこまで考えが行き届いて、ふと動きが止まる。
――――なら私は、どうなんだ?
「あ、あー、っははははははははッッッ!!」
笑い声が部屋に響き渡る。
そうか、そうなのか!! 分かった、分かった!!
私も同じじゃないか。
そうだ、どんなに心の底で何を思おうが、外面しか他人には見えない、見えるはずがない!!
私も彼女たちと同じなんだ、同じにしか見えないんだ。
こんなにも屑でガラクタで最悪最低な無能だって、外から見ればただのガキなんだ。
それじゃあまるで、ただの自分に酔った可哀想な人間にしか見えない。
なんだ、所詮こんなことなんだ。
「あ、ははっ、は、っっ、ゃぁ、はは、は……っっ、ごほっ、ぉぇ、あ゛……」
掠れた声で笑い続けたせいで、ついに咳き込んでしまった。
くっついた内壁のせいで、胃液が喉まで上がってくる。
涙が頬を伝ったが、ばんやりと霞んだ思考では何も感じられない。
どれだけ私は痛々しく、彼の目に映ったのだろうか。
どれだけバカバカしかったのだろうか。
――――それでも、
『なんかあったら、電話しろ。……なんかあったら、な。』
空っぽの頭に、その声がまた反芻される。彼は優しかった。
「で、んあ……」
手を目いっぱい伸ばして電話を手に取る、そして気づいた。
「知らないじゃんかよ、ばんごー……」
そのまま力なく手から滑り落ちた電話は、硬い音を立てて床に転がる。
あぁ、怒られてしまう……。
そう思い、身を乗り出して、手に取ろうとした瞬間、視界が反転する。
落ちた、そう気づいたときには頭を打ち付けていた時よりも数倍強い衝撃が身体を襲い、そのまま思考までもが暗転した。
――――ごめんなさい。
小さく弱弱しい声で、誰かの懺悔が聞こえた。
それは誰に向けられたものなのか、誰が言ったのか、私には分からなかった。