うん、この世界滅ぼそう—外伝—異母兄弟の痔情
魔王ベンピー・デ・キレヂーは、名君であった。
かつて世界を滅ぼそうとした暴君は、一人の勇者によって救われた。以来、魔族領では食生活の改善が推進され、野菜の栽培が奨励され、清潔な公衆便所が整備された。
魔族たちは健康になった。
便秘に苦しむ者は減り、民の平均寿命は延び、魔族領にはかつてない繁栄が訪れていた。
誰もが魔王を讃え、誰もがその政策を支持した。
ただ一人を除いて。
「…………許せん。」
魔王城の地下深く、一人の男が厳かな便座の上で静かに呟いた。
名を、ベンピー・デ・イボヂー。
魔王ベンピー・デ・キレヂーの異母弟である。
同じ父を持ち、異なる母から生まれた二人。奇しくも、兄は切れ痔を、弟はいぼ痔を患っていた。
血は繋がっていた。
だが、尻の事情は違ったのである。
「……ぬぅ……!」
イボヂーは便座の肘掛けを握り締めた。額には玉のような汗が浮かび、腹部には岩石を詰め込まれたような重苦しさが居座っている。
三日。
もう三日も出ていなかった。
だが、問題はそれだけではない。ようやく便意が訪れたとしても、その先には別の地獄が待っている。
いぼ痔。
肛門付近の血管が腫れ上がり、時に出血を伴う、忌まわしき病。
「ぐ……おおおお……!」
来る。
今度こそ。
そう確信した、その瞬間。
「——ッ!!」
鋭い痛みが走った。
イボヂーは目を見開き、思わず全身を強張らせた。腹の奥にあった便意は、痛みに怯えるように遠ざかっていく。
「…………」
静寂。
やがて、ぽたりと赤い雫が落ちた。
「…………またか。」
イボヂーは天井を仰いだ。
何百年もの時を生きてきた。幾千の敵を屠り、兄とともに数多の戦場を駆け抜けた。
それなのに。
「なぜ……」
震える声が漏れた。
「なぜ私の尻は、私を裏切るのだ……!」
その日、一人の男の肛門から、静かに反乱の火が灯った。
*
「兄上!!」
魔王城の玉座の間に怒声が響いた。
魔王ベンピー・デ・キレヂーは、執務机に広げた書類から顔を上げた。
「どうした、イボヂー。」
「どうした、ではない!」
弟は大股で歩み寄ると、握り締めていた一枚の紙を兄の前へ突きつけた。
「これは何だ!」
「……今月の健康増進計画か。」
「そうだ!」
紙には大きく記されていた。
——《魔族領健康推進月間》
——《一日三食、野菜を中心とした食生活を》
——《脂質と刺激物の過剰摂取を控えましょう》
——《すべては快便のために》
「素晴らしい政策だろう。」
キレヂーは満足げに頷いた。
「国民の健康こそ、国家の礎だからな。」
「ふざけるな!!」
イボヂーは紙を床へ叩きつけた。
「肉はどうした!」
「肉?」
「脂の乗った魔獣の炙り焼き!香辛料を山ほど振りかけた地獄鍋!溶岩のように熱い激辛魔竜ラーメン!」
「……身体に悪そうだな。」
「美味いんだよ!!」
玉座の間が静まり返った。
「兄上は変わってしまった……」
イボヂーは悲しげに俯いた。
「昔の兄上は、私と一緒に魔竜の丸焼きを食っていたではないか。」
「若気の至りだ。」
「一晩で十人前を平らげたこともあったではないか!」
「忘れろ。」
「翌朝、二人で便所に籠もったことも!」
「忘れろと言っている!!」
魔王の怒声が響いた。だが、イボヂーは怯まなかった。
「兄上はいいだろう!」
「何がだ。」
「聖剣カイベーンによって救われたのだからな!」
キレヂーの表情が変わった。
その視線が、常に身につけている剣に向けられる。
聖剣カイベーン。
かつて勇者ゲイリー・ベーンが、自らの苦しみを顧みず、魔王へと差し出した剣である。
その剣を手にする者は、あらゆる腸の不調から解放されるという。
長年キレヂーを苦しめていた便秘も切れ痔も、聖剣を受け取った瞬間に癒えた。
以来、魔王はその剣を肌身離さず持ち続けていた。
「……ああ。」
キレヂーは静かに頷いた。
「勇者ゲイリー・ベーンには、今も感謝している。」
イボヂーは聖剣を一瞥した。
そして、何も言わなかった。
「だからこそ、俺は民にも健康であってほしいのだ。」
「ならば聞こう、兄上!」
イボヂーは叫んだ。
「私のいぼ痔は、なぜ治らん!」
「…………」
「野菜を食った!水も飲んだ!毎朝散歩もした!それでも腫れる!出血する!便秘も治りきらん!」
「……医師には診せたのか?」
「診せた!」
「何と言われた。」
「生活習慣を改善しろと!」
「ならば——」
「もう改善したんだよ!!」
イボヂーの魔力が爆発し、玉座の間が震えた。
「それでも治らんのだ!ならばせめて、好きなものくらい食わせろ!」
キレヂーは沈黙した。
弟の気持ちは分かる。かつての自分も、同じ苦しみを味わったのだから。
だからこそ、兄は静かに告げた。
「イボヂーよ。諦めるな。正しい生活を続ければ、きっと道は開ける。」
「…………」
イボヂーは兄を見つめた。
その瞳に浮かんでいた怒りが、ゆっくりと失望へ変わっていく。
「……そうか。」
小さく呟いた。
「兄上には、もう分からんのだな。」
「イボヂー?」
「尻の痛みを忘れた者に、尻の痛みは分からん。」
弟は背を向けた。
「ならば、私は私の道を行く。」
「待て!」
だが、イボヂーは振り返らなかった。
その日、魔王の異母弟は城を去った。
*
一ヶ月後。
魔族領南部で、奇妙な運動が始まった。
その名も、自由食運動。
掲げる理念は、ただ一つ。
——《食いたいものを食わせろ》
指導者は、ベンピー・デ・イボヂー。
その主張は瞬く間に魔族領へ広まった。
「肉を食わせろ!」
「酒を飲ませろ!」
「辛いものを食わせろ!」
民衆は口々に叫んだ。
もっとも、魔王の政策は食生活の改善を推奨するものであり、肉や酒を禁止したわけではなかった。
だが、健康を重んじる風潮が広まるにつれ、好きなものを食べるだけで後ろめたさを感じる者も増えていた。
「健康のために控えましょう。」
その言葉は、時として。
「食べてはいけません。」
という命令以上に、人の心を締めつけるのである。
そして何より、イボヂーの演説には妙な説得力があった。
「諸君!」
広場に集まった魔族たちへ、イボヂーが叫ぶ。
「我々は何のために生きている!?」
「肉のため!」
「酒のため!」
「美味い飯のため!」
「そうだ!」
イボヂーは拳を掲げた。
「健康のために生きているのではない!生きるために健康でありたいのだ!」
歓声が上がった。
「野菜を食うなとは言わん!水を飲むなとも言わん!だが、健康のために好きなものをすべて諦める人生など、何の意味がある!」
民衆は涙した。
「私は痔だ!」
「知ってます!」
「便秘だ!」
「それも知ってます!」
「今この瞬間も尻が痛い!」
「お大事に!!」
イボヂーは叫んだ。
「だが、それでも私は——!」
一度、大きく息を吸った。
「激辛魔竜ラーメンが食いたい!!」
大歓声が響いた。
こうして、魔族領の歴史に新たな政治勢力が誕生した。
後世、彼らはこう呼ばれることになる。
——自由食派。
またの名を。
痔由党。
*
数ヶ月後、痔由党の動きは止まることを知らなかった。
事態を重く見た魔王キレヂーは、緊急閣議を招集した。
「イボヂーの支持者が増えております。」
宰相が報告する。
「南部諸侯の三割が自由食派への支持を表明しました。」
「……そうか。」
「さらに、各地で肉料理専門店が急増しております。」
「それは別に構わんだろう。」
「しかし陛下!」
宰相は震える声で告げた。
「王都の健康食堂が、次々と閉店しております!」
「何だと!?」
キレヂーは立ち上がった。
「我が国が誇る、野菜たっぷり健康定食が!?」
「はい!」
「食物繊維豊富な魔界根菜スープも!?」
「はい!」
「低脂質・高タンパクの蒸し魔鳥も!?」
「……それは元々あまり売れておりませんでした。」
「…………」
魔王はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
深刻な事態だった。
肉料理店が増えたこと自体は問題ではない。だが、国民の間で健康政策そのものへの不信感が広がり始めている。
自分が築き上げた健康国家が、揺らいでいた。
ふと、キレヂーは聖剣へ目を向けた。
かつて勇者は、この剣を差し出した。
自らが再び苦しむことになると知りながら、世界を滅ぼそうとした魔王を救ったのである。
その勇者が今も腹の不調に苦しんでいることを、キレヂーは知っていた。
それでも、勇者は聖剣を取り戻そうとはしなかった。
キレヂーは剣の柄へ手を伸ばした。
あたたかい感触が掌に伝わる。
自分は、この剣を手放せるだろうか。
その問いに、答えは出なかった。
「……イボヂーを呼べ。」
キレヂーは静かに告げた。
「直接、話をする。」
*
三日後。
魔王城の大広間に、二人の兄弟が向かい合っていた。
魔王ベンピー・デ・キレヂー。
自由食派代表ベンピー・デ・イボヂー。
かつて共に戦場を駆け抜けた兄弟は、今や国家の未来を巡って対立していた。
「久しいな、兄上。」
「ああ。」
「少し痩せたか?」
「お前は太ったな。」
「肉が美味くてな。」
「……ほどほどにしろ。」
「それだ!」
イボヂーが机を叩いた。
「兄上はすぐにそれを言う!」
「何が悪い。」
「私はもう子供ではない!何を食うかくらい、自分で決められる!」
「俺は民の健康を案じているだけだ!」
「ならば、私の事も案じてくれ!」
「案じている!」
「ならば肉を食わせろ!」
「食えばいいだろう!」
「いいのか!?」
「最初から禁止しておらん!!」
沈黙。
二人は見つめ合った。
「…………」
「…………」
「……では、何のために私は反乱を?」
「俺が聞きたい。」
長い沈黙が流れた。
やがて、イボヂーが口を開いた。
「……いや、違う。」
「何がだ。」
「私が怒っているのは、肉を食うなと言われたからではない。」
イボヂーは俯いた。
「兄上が、私の苦しみを分かってくれなかったからだ。」
キレヂーは黙った。
「兄上は聖剣によって救われた。便秘も切れ痔も治った。そして、すべての民を救おうとした。」
「ああ。」
「それは立派なことだ。私も誇りに思っている。」
イボヂーは拳を握り締めた。
「だがな、兄上。」
その声が震えた。
「私は、まだ痛いんだ。」
「…………」
「毎朝、便所に座るのが怖い。出なければ苦しい。出そうとすれば痛い。血を見るたびに、またかと思う。」
かつて、キレヂー自身も同じだった。
便所に座るたびに恐怖した。世界最強の魔王でありながら、自分の腹一つ思い通りにならなかった。
あの絶望を、忘れたことなどないはずだった。
「兄上は言ったな。」
イボヂーが続ける。
「正しい生活を続ければ、きっと道は開けると。」
「……ああ。」
「私は、その道をずっと探している。」
イボヂーは一度言葉を切った。
「野菜も食った。水も飲んだ。運動もした。だが、治らなかった。」
そして、顔を上げた。
「それなのに、まだ努力が足りないと言われたような気がしたんだ。」
キレヂーは目を閉じた。
長い沈黙の後、ようやく口を開く。
「……すまなかった。」
イボヂーの目が見開かれる。
「兄上?」
「俺は、自分が救われたことで、誰もが苦しみから抜け出せるはずだと思い込んでいた。」
キレヂーは立ち上がり、弟へ歩み寄った。
「お前の苦しみを、軽く考えていた。」
「…………」
「許してくれ。」
イボヂーは俯いた。
「……兄上。」
二人の間に、静かな時間が流れた。
やがて、イボヂーが顔を上げる。
「……なあ、兄上。」
「何だ。」
「久しぶりに、一緒に飯でも食わないか。」
キレヂーは微笑んだ。
「ああ。」
「魔竜の丸焼きだ。」
「……少しならな。」
「激辛地獄鍋も。」
「それは控えろ。」
「魔界唐辛子を山盛りで。」
「控えろと言っている!」
「兄上!」
「何だ!」
「私の人生だ!!」
「お前の尻を案じているのだ!!」
二人は睨み合った。
そして、笑った。
かつて共に戦場を駆け抜け、同じ食卓を囲んでいた頃を思い出すような、懐かしい笑い声だった。
*
翌日。
魔王キレヂーは、新たな政策を発表した。
——《魔族領健康政策改訂》
従来の食生活改善政策を維持しつつ、個人の食の自由を尊重すること。
健康上の問題を抱える者に対して、生活習慣の改善だけでなく、適切な医療を提供すること。
そして、健康上の問題を抱える者を、その生活習慣だけで非難しないこと。
「すべての民が、苦痛なく生きられる国を目指す。」
魔王は宣言した。
その隣には、弟イボヂーが立っていた。
「健康とは、ただ長く生きることではない。」
イボヂーは告げた。
「好きなものを食い、好きな者と笑い、明日も生きたいと思えることだ!」
民衆は歓声を上げた。
こうして、魔族領は新たな時代を迎えた。
健康と自由。
相反するように見えた二つの理念は、兄弟の和解によって両立への道を歩み始めたのである。
後世、この一連の政治改革は、歴史書にこう記された。
——《第一次痔民革命》
世界は、また一つ平和になった。
*
それから一ヶ月後。
魔王城。
「兄上!」
イボヂーが勢いよく扉を開いた。
「どうした。」
「報告がある!」
「……また肉の話か?」
「違う!」
弟は満面の笑みを浮かべていた。
「専門の医師に診てもらったのだ!」
「それはよかった。以前の医師とは違うのか?」
「ああ!今度は肛門疾患を専門とする治療院だ!」
「それで?」
「手術を受けた!」
「……手術?」
「ああ!いぼ痔を治療するためのな!」
イボヂーは胸を張った。
「まだ経過観察中だが、医師は順調だと言っていた!」
「そうか……!」
キレヂーは立ち上がった。
「よかったな、イボヂー!」
「ああ!」
二人は固く抱き合った。
長年の苦しみ。兄弟の対立。国家を二分した政治運動。
そのすべてが、ようやく報われようとしていた。
「それでな、兄上。」
「何だ?」
「今夜は祝いだ!」
「……まさか。」
「魔竜の丸焼き!激辛地獄鍋!特大の魔界唐辛子ラーメン!」
「待て。」
「酒も飲むぞ!百年物の魔界酒だ!」
「待て、イボヂー。」
「今日は朝まで宴だ!」
「イボヂー!!」
キレヂーは弟の肩を掴んだ。
「医師には何と言われた!」
「……何が?」
「術後の生活についてだ!」
「…………」
イボヂーは目を逸らした。
「……刺激物は控えろと。」
「ならば!」
「だが兄上!」
「何だ!」
「私の人生だ!!」
「治療したばかりだろうが!!」
その夜、魔王城には兄弟の怒鳴り声がいつまでも響いていた。
*
三日後。
魔王城の地下深く。
一人の男が、厳かな便座の上で静かに呟いた。
「…………痛い。」
ベンピー・デ・イボヂー。
魔族領に食の自由をもたらした男。
第一次痔民革命の指導者にして、後世、自由食の父と呼ばれることになる偉大な政治家。
その彼が、今、便座の上で震えていた。
「……なぜだ。」
額に汗が浮かぶ。
「手術までしたというのに……」
先日の宴。
結局、兄の制止を振り切り、激辛地獄鍋を食べた。魔竜の丸焼きも食べた。酒も飲んだ。
翌朝から腹の調子を崩し、便所に籠もることになったのである。
そして今、術後の患部がひどく痛んでいた。
「……兄上。」
イボヂーは天井を仰いだ。
「やはり……」
ぽたりと赤い雫が落ちた。
「……ほどほどが、一番なのだな……」
その日、自由食の父は人生で初めて節制の尊さを知った。
なお、術後の痛みが続いたため医師の診察を受け、しばらく療養することになったという。
*
数年後。
魔族領には、かつてない繁栄が訪れていた。
食生活の改善は進み、医療制度も充実した。肉料理も野菜料理も等しく愛されるようになり、人々はそれぞれの生き方に合わせて健康と向き合うようになった。
兄キレヂーは健康政策を、弟イボヂーは食文化振興を担当し、それぞれの立場から国を支えた。
二人は時に衝突し、時に協力しながら、魔族領を豊かな国へと導いていった。
後世、人々は彼らをこう讃えた。
健康国家を築いた名君、ベンピー・デ・キレヂー。
食の自由を守った英雄、ベンピー・デ・イボヂー。
異なる母から生まれ、異なる痔に苦しみ、異なる理想を掲げた二人。
しかし、その根底にあった願いは同じだった。
誰もが苦しまずに生きられる世界。
誰もが自分らしく笑える世界。
二人は、その理想のために生涯を捧げたのである。
そして、歴史書にはこう記されている。
——《魔族領黄金時代》
その礎を築いたのは、二人の異母兄弟であった。
だが、人々は忘れてはならない。
どれほど偉大な王であろうとも。
どれほど高潔な理想を掲げようとも。
人は皆。
便所の前では、平等なのだ。




