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うん、この世界滅ぼそう—外伝—異母兄弟の痔情

掲載日:2026/10/31

魔王ベンピー・デ・キレヂーは、名君であった。


かつて世界を滅ぼそうとした暴君は、一人の勇者によって救われた。以来、魔族領では食生活の改善が推進され、野菜の栽培が奨励され、清潔な公衆便所が整備された。


魔族たちは健康になった。


便秘に苦しむ者は減り、民の平均寿命は延び、魔族領にはかつてない繁栄が訪れていた。


誰もが魔王を讃え、誰もがその政策を支持した。


ただ一人を除いて。


「…………許せん。」


魔王城の地下深く、一人の男が厳かな便座の上で静かに呟いた。


名を、ベンピー・デ・イボヂー。


魔王ベンピー・デ・キレヂーの異母弟である。


同じ父を持ち、異なる母から生まれた二人。奇しくも、兄は切れ痔を、弟はいぼ痔を患っていた。


血は繋がっていた。


だが、尻の事情は違ったのである。


「……ぬぅ……!」


イボヂーは便座の肘掛けを握り締めた。額には玉のような汗が浮かび、腹部には岩石を詰め込まれたような重苦しさが居座っている。


三日。


もう三日も出ていなかった。


だが、問題はそれだけではない。ようやく便意が訪れたとしても、その先には別の地獄が待っている。


いぼ痔。


肛門付近の血管が腫れ上がり、時に出血を伴う、忌まわしき病。


「ぐ……おおおお……!」


来る。


今度こそ。


そう確信した、その瞬間。


「——ッ!!」


鋭い痛みが走った。


イボヂーは目を見開き、思わず全身を強張らせた。腹の奥にあった便意は、痛みに怯えるように遠ざかっていく。


「…………」


静寂。


やがて、ぽたりと赤い雫が落ちた。


「…………またか。」


イボヂーは天井を仰いだ。


何百年もの時を生きてきた。幾千の敵を屠り、兄とともに数多の戦場を駆け抜けた。


それなのに。


「なぜ……」


震える声が漏れた。


「なぜ私の尻は、私を裏切るのだ……!」


その日、一人の男の肛門から、静かに反乱の火が灯った。


          *


「兄上!!」


魔王城の玉座の間に怒声が響いた。


魔王ベンピー・デ・キレヂーは、執務机に広げた書類から顔を上げた。


「どうした、イボヂー。」


「どうした、ではない!」


弟は大股で歩み寄ると、握り締めていた一枚の紙を兄の前へ突きつけた。


「これは何だ!」


「……今月の健康増進計画か。」


「そうだ!」


紙には大きく記されていた。


——《魔族領健康推進月間》


——《一日三食、野菜を中心とした食生活を》


——《脂質と刺激物の過剰摂取を控えましょう》


——《すべては快便のために》


「素晴らしい政策だろう。」


キレヂーは満足げに頷いた。


「国民の健康こそ、国家の礎だからな。」


「ふざけるな!!」


イボヂーは紙を床へ叩きつけた。


「肉はどうした!」


「肉?」


「脂の乗った魔獣の炙り焼き!香辛料を山ほど振りかけた地獄鍋!溶岩のように熱い激辛魔竜ラーメン!」


「……身体に悪そうだな。」


「美味いんだよ!!」


玉座の間が静まり返った。


「兄上は変わってしまった……」


イボヂーは悲しげに俯いた。


「昔の兄上は、私と一緒に魔竜の丸焼きを食っていたではないか。」


「若気の至りだ。」


「一晩で十人前を平らげたこともあったではないか!」


「忘れろ。」


「翌朝、二人で便所に籠もったことも!」


「忘れろと言っている!!」


魔王の怒声が響いた。だが、イボヂーは怯まなかった。


「兄上はいいだろう!」


「何がだ。」


「聖剣カイベーンによって救われたのだからな!」


キレヂーの表情が変わった。


その視線が、常に身につけている剣に向けられる。


聖剣カイベーン。


かつて勇者ゲイリー・ベーンが、自らの苦しみを顧みず、魔王へと差し出した剣である。


その剣を手にする者は、あらゆる腸の不調から解放されるという。


長年キレヂーを苦しめていた便秘も切れ痔も、聖剣を受け取った瞬間に癒えた。


以来、魔王はその剣を肌身離さず持ち続けていた。


「……ああ。」


キレヂーは静かに頷いた。


「勇者ゲイリー・ベーンには、今も感謝している。」


イボヂーは聖剣を一瞥した。


そして、何も言わなかった。


「だからこそ、俺は民にも健康であってほしいのだ。」


「ならば聞こう、兄上!」


イボヂーは叫んだ。


「私のいぼ痔は、なぜ治らん!」


「…………」


「野菜を食った!水も飲んだ!毎朝散歩もした!それでも腫れる!出血する!便秘も治りきらん!」


「……医師には診せたのか?」


「診せた!」


「何と言われた。」


「生活習慣を改善しろと!」


「ならば——」


「もう改善したんだよ!!」


イボヂーの魔力が爆発し、玉座の間が震えた。


「それでも治らんのだ!ならばせめて、好きなものくらい食わせろ!」


キレヂーは沈黙した。


弟の気持ちは分かる。かつての自分も、同じ苦しみを味わったのだから。


だからこそ、兄は静かに告げた。


「イボヂーよ。諦めるな。正しい生活を続ければ、きっと道は開ける。」


「…………」


イボヂーは兄を見つめた。


その瞳に浮かんでいた怒りが、ゆっくりと失望へ変わっていく。


「……そうか。」


小さく呟いた。


「兄上には、もう分からんのだな。」


「イボヂー?」


「尻の痛みを忘れた者に、尻の痛みは分からん。」


弟は背を向けた。


「ならば、私は私の道を行く。」


「待て!」


だが、イボヂーは振り返らなかった。


その日、魔王の異母弟は城を去った。


          *


一ヶ月後。


魔族領南部で、奇妙な運動が始まった。


その名も、自由食運動。


掲げる理念は、ただ一つ。


——《食いたいものを食わせろ》


指導者は、ベンピー・デ・イボヂー。


その主張は瞬く間に魔族領へ広まった。


「肉を食わせろ!」


「酒を飲ませろ!」


「辛いものを食わせろ!」


民衆は口々に叫んだ。


もっとも、魔王の政策は食生活の改善を推奨するものであり、肉や酒を禁止したわけではなかった。


だが、健康を重んじる風潮が広まるにつれ、好きなものを食べるだけで後ろめたさを感じる者も増えていた。


「健康のために控えましょう。」


その言葉は、時として。


「食べてはいけません。」


という命令以上に、人の心を締めつけるのである。


そして何より、イボヂーの演説には妙な説得力があった。


「諸君!」


広場に集まった魔族たちへ、イボヂーが叫ぶ。


「我々は何のために生きている!?」


「肉のため!」


「酒のため!」


「美味い飯のため!」


「そうだ!」


イボヂーは拳を掲げた。


「健康のために生きているのではない!生きるために健康でありたいのだ!」


歓声が上がった。


「野菜を食うなとは言わん!水を飲むなとも言わん!だが、健康のために好きなものをすべて諦める人生など、何の意味がある!」


民衆は涙した。


「私は痔だ!」


「知ってます!」


「便秘だ!」


「それも知ってます!」


「今この瞬間も尻が痛い!」


「お大事に!!」


イボヂーは叫んだ。


「だが、それでも私は——!」


一度、大きく息を吸った。


「激辛魔竜ラーメンが食いたい!!」


大歓声が響いた。


こうして、魔族領の歴史に新たな政治勢力が誕生した。


後世、彼らはこう呼ばれることになる。


——自由食派。


またの名を。


痔由党。


          *


数ヶ月後、痔由党の動きは止まることを知らなかった。


事態を重く見た魔王キレヂーは、緊急閣議を招集した。


「イボヂーの支持者が増えております。」


宰相が報告する。


「南部諸侯の三割が自由食派への支持を表明しました。」


「……そうか。」


「さらに、各地で肉料理専門店が急増しております。」


「それは別に構わんだろう。」


「しかし陛下!」


宰相は震える声で告げた。


「王都の健康食堂が、次々と閉店しております!」


「何だと!?」


キレヂーは立ち上がった。


「我が国が誇る、野菜たっぷり健康定食が!?」


「はい!」


「食物繊維豊富な魔界根菜スープも!?」


「はい!」


「低脂質・高タンパクの蒸し魔鳥も!?」


「……それは元々あまり売れておりませんでした。」


「…………」


魔王はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。


深刻な事態だった。


肉料理店が増えたこと自体は問題ではない。だが、国民の間で健康政策そのものへの不信感が広がり始めている。


自分が築き上げた健康国家が、揺らいでいた。


ふと、キレヂーは聖剣へ目を向けた。


かつて勇者は、この剣を差し出した。


自らが再び苦しむことになると知りながら、世界を滅ぼそうとした魔王を救ったのである。


その勇者が今も腹の不調に苦しんでいることを、キレヂーは知っていた。


それでも、勇者は聖剣を取り戻そうとはしなかった。


キレヂーは剣の柄へ手を伸ばした。


あたたかい感触が掌に伝わる。


自分は、この剣を手放せるだろうか。


その問いに、答えは出なかった。


「……イボヂーを呼べ。」


キレヂーは静かに告げた。


「直接、話をする。」


          *


三日後。


魔王城の大広間に、二人の兄弟が向かい合っていた。


魔王ベンピー・デ・キレヂー。


自由食派代表ベンピー・デ・イボヂー。


かつて共に戦場を駆け抜けた兄弟は、今や国家の未来を巡って対立していた。


「久しいな、兄上。」


「ああ。」


「少し痩せたか?」


「お前は太ったな。」


「肉が美味くてな。」


「……ほどほどにしろ。」


「それだ!」


イボヂーが机を叩いた。


「兄上はすぐにそれを言う!」


「何が悪い。」


「私はもう子供ではない!何を食うかくらい、自分で決められる!」


「俺は民の健康を案じているだけだ!」


「ならば、私の事も案じてくれ!」


「案じている!」


「ならば肉を食わせろ!」


「食えばいいだろう!」


「いいのか!?」


「最初から禁止しておらん!!」


沈黙。


二人は見つめ合った。


「…………」


「…………」


「……では、何のために私は反乱を?」


「俺が聞きたい。」


長い沈黙が流れた。


やがて、イボヂーが口を開いた。


「……いや、違う。」


「何がだ。」


「私が怒っているのは、肉を食うなと言われたからではない。」


イボヂーは俯いた。


「兄上が、私の苦しみを分かってくれなかったからだ。」


キレヂーは黙った。


「兄上は聖剣によって救われた。便秘も切れ痔も治った。そして、すべての民を救おうとした。」


「ああ。」


「それは立派なことだ。私も誇りに思っている。」


イボヂーは拳を握り締めた。


「だがな、兄上。」


その声が震えた。


「私は、まだ痛いんだ。」


「…………」


「毎朝、便所に座るのが怖い。出なければ苦しい。出そうとすれば痛い。血を見るたびに、またかと思う。」


かつて、キレヂー自身も同じだった。


便所に座るたびに恐怖した。世界最強の魔王でありながら、自分の腹一つ思い通りにならなかった。


あの絶望を、忘れたことなどないはずだった。


「兄上は言ったな。」


イボヂーが続ける。


「正しい生活を続ければ、きっと道は開けると。」


「……ああ。」


「私は、その道をずっと探している。」


イボヂーは一度言葉を切った。


「野菜も食った。水も飲んだ。運動もした。だが、治らなかった。」


そして、顔を上げた。


「それなのに、まだ努力が足りないと言われたような気がしたんだ。」


キレヂーは目を閉じた。


長い沈黙の後、ようやく口を開く。


「……すまなかった。」


イボヂーの目が見開かれる。


「兄上?」


「俺は、自分が救われたことで、誰もが苦しみから抜け出せるはずだと思い込んでいた。」


キレヂーは立ち上がり、弟へ歩み寄った。


「お前の苦しみを、軽く考えていた。」


「…………」


「許してくれ。」


イボヂーは俯いた。


「……兄上。」


二人の間に、静かな時間が流れた。


やがて、イボヂーが顔を上げる。


「……なあ、兄上。」


「何だ。」


「久しぶりに、一緒に飯でも食わないか。」


キレヂーは微笑んだ。


「ああ。」


「魔竜の丸焼きだ。」


「……少しならな。」


「激辛地獄鍋も。」


「それは控えろ。」


「魔界唐辛子を山盛りで。」


「控えろと言っている!」


「兄上!」


「何だ!」


「私の人生だ!!」


「お前の尻を案じているのだ!!」


二人は睨み合った。


そして、笑った。


かつて共に戦場を駆け抜け、同じ食卓を囲んでいた頃を思い出すような、懐かしい笑い声だった。


          *


翌日。


魔王キレヂーは、新たな政策を発表した。


——《魔族領健康政策改訂》


従来の食生活改善政策を維持しつつ、個人の食の自由を尊重すること。


健康上の問題を抱える者に対して、生活習慣の改善だけでなく、適切な医療を提供すること。


そして、健康上の問題を抱える者を、その生活習慣だけで非難しないこと。


「すべての民が、苦痛なく生きられる国を目指す。」


魔王は宣言した。


その隣には、弟イボヂーが立っていた。


「健康とは、ただ長く生きることではない。」


イボヂーは告げた。


「好きなものを食い、好きな者と笑い、明日も生きたいと思えることだ!」


民衆は歓声を上げた。


こうして、魔族領は新たな時代を迎えた。


健康と自由。


相反するように見えた二つの理念は、兄弟の和解によって両立への道を歩み始めたのである。


後世、この一連の政治改革は、歴史書にこう記された。


——《第一次痔民革命》


世界は、また一つ平和になった。


          *


それから一ヶ月後。


魔王城。


「兄上!」


イボヂーが勢いよく扉を開いた。


「どうした。」


「報告がある!」


「……また肉の話か?」


「違う!」


弟は満面の笑みを浮かべていた。


「専門の医師に診てもらったのだ!」


「それはよかった。以前の医師とは違うのか?」


「ああ!今度は肛門疾患を専門とする治療院だ!」


「それで?」


「手術を受けた!」


「……手術?」


「ああ!いぼ痔を治療するためのな!」


イボヂーは胸を張った。


「まだ経過観察中だが、医師は順調だと言っていた!」


「そうか……!」


キレヂーは立ち上がった。


「よかったな、イボヂー!」


「ああ!」


二人は固く抱き合った。


長年の苦しみ。兄弟の対立。国家を二分した政治運動。


そのすべてが、ようやく報われようとしていた。


「それでな、兄上。」


「何だ?」


「今夜は祝いだ!」


「……まさか。」


「魔竜の丸焼き!激辛地獄鍋!特大の魔界唐辛子ラーメン!」


「待て。」


「酒も飲むぞ!百年物の魔界酒だ!」


「待て、イボヂー。」


「今日は朝まで宴だ!」


「イボヂー!!」


キレヂーは弟の肩を掴んだ。


「医師には何と言われた!」


「……何が?」


「術後の生活についてだ!」


「…………」


イボヂーは目を逸らした。


「……刺激物は控えろと。」


「ならば!」


「だが兄上!」


「何だ!」


「私の人生だ!!」


「治療したばかりだろうが!!」


その夜、魔王城には兄弟の怒鳴り声がいつまでも響いていた。


          *


三日後。


魔王城の地下深く。


一人の男が、厳かな便座の上で静かに呟いた。


「…………痛い。」


ベンピー・デ・イボヂー。


魔族領に食の自由をもたらした男。


第一次痔民革命の指導者にして、後世、自由食の父と呼ばれることになる偉大な政治家。


その彼が、今、便座の上で震えていた。


「……なぜだ。」


額に汗が浮かぶ。


「手術までしたというのに……」


先日の宴。


結局、兄の制止を振り切り、激辛地獄鍋を食べた。魔竜の丸焼きも食べた。酒も飲んだ。


翌朝から腹の調子を崩し、便所に籠もることになったのである。


そして今、術後の患部がひどく痛んでいた。


「……兄上。」


イボヂーは天井を仰いだ。


「やはり……」


ぽたりと赤い雫が落ちた。


「……ほどほどが、一番なのだな……」


その日、自由食の父は人生で初めて節制の尊さを知った。


なお、術後の痛みが続いたため医師の診察を受け、しばらく療養することになったという。


          *


数年後。


魔族領には、かつてない繁栄が訪れていた。


食生活の改善は進み、医療制度も充実した。肉料理も野菜料理も等しく愛されるようになり、人々はそれぞれの生き方に合わせて健康と向き合うようになった。


兄キレヂーは健康政策を、弟イボヂーは食文化振興を担当し、それぞれの立場から国を支えた。


二人は時に衝突し、時に協力しながら、魔族領を豊かな国へと導いていった。


後世、人々は彼らをこう讃えた。


健康国家を築いた名君、ベンピー・デ・キレヂー。


食の自由を守った英雄、ベンピー・デ・イボヂー。


異なる母から生まれ、異なる痔に苦しみ、異なる理想を掲げた二人。


しかし、その根底にあった願いは同じだった。


誰もが苦しまずに生きられる世界。


誰もが自分らしく笑える世界。


二人は、その理想のために生涯を捧げたのである。


そして、歴史書にはこう記されている。


——《魔族領黄金時代》


その礎を築いたのは、二人の異母兄弟であった。


だが、人々は忘れてはならない。


どれほど偉大な王であろうとも。


どれほど高潔な理想を掲げようとも。


人は皆。


便所の前では、平等なのだ。

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