ちょっといい?
スーパーの入口で後ろからトントンと肩を叩かれた。
「ふふ、こんにちは。あなたのドッペルゲンガーです」
そう名乗った女は私と鏡写しだった。切りたての前髪も、染めたての黒髪も。ほうれい線とマリオネットラインが目立つ顔も、体型が崩れた中年女性で、私はこんなに歳を食ったのだなと改めて自覚した。
「私ってちゃんと〝おばさん〟してるのねぇ」なんて気の抜けた返事をドッペルゲンガーとやらにかけて、私はスーパーに入る。
彼女が着いてくる。いやだわ、双子かなにかだと思われるじゃない。どうにも現実味がなくてそんな考えが頭をよぎった。
私はカゴを手に取るけど彼女は取らない。なんだ、私と違うじゃない。
「あなたちょっと安心したでしょ? 私がカゴに手をかけないからって」
あらまあ、心も読めるのねぇ。
「久々の美容院は楽しかったわよね。美容師さんとおばさん談義できてさ」
驚いた。笑うと私、こんな顔になるの?
「ほら見てよ、野菜がこんなに高いわ。イヤになるわね、物価高。給料なんて上がらないのに、なんとかっていう法律が変わってパートも気軽にできないでさ」
なんてこと。なんでも知ってるのね。私はドッペルゲンガーに相槌を打つ。
「そうね。美容院もずいぶん高かったし」
「そうそう! 昔は五千円も出せば上等だったじゃない?美容師さんたちのお賃金が反映されてるといいけれど」
私は「うんうん」とうなずく。
「それにしても同窓会ね。明日でしょ? どうする?たっちゃんに『綺麗になったね』なんて言われたら。旦那、変えちゃう?」
初恋の相手の名前に心臓が跳ねた。直後、夫の笑顔を思い出した。
「ないない! 今は旦那もいるのよ? たっちゃんが変わらずかっこよくても、私は旦那一筋よ!」
ドッペルゲンガーは大げさに驚いてみせる。
「あらまぁ、知ってるけど。財布の残金は……確か三千円とちょっとよね。もやしと豚バラか鶏胸肉の炒め物にしない?」
そうね、今同じこと考えてたわ。さすがドッペルゲンガー。
「肉のコーナー見ないと。ネットチラシ見たけどやっぱり現場で確認が一番ね」
他の客は二人のおばさんに見向きもしない。それもそうよね。
「昔は新聞のチラシで親が安売り品を確認してたわね。なつかしいわ。見て、鶏ももが百グラム九十九円! これは〝買い〟じゃない?」
チラシになかった商品だ。確かにこれは買った方がいいわ。それに夫も最近、鶏もも肉食べたいって言ってたし。
「あんた、見る目あるじゃない」
ドッペルゲンガーの腕に肘を当てると自慢げに顎を上げた。
「そりゃそうよ。私はあなただもの」
魚は今年も不漁が続いてるみたい。彼女も私の横でぼやく。
「見てよ、このサバ。痩せっぽっちで見てらんないわ。こんなの焼いてみなさいよ。カリカリのしおしおの痩せぎすの出来上がりだわ」
「ふふ、そうね。トシオさんも『これ、メザシか?』なんて聞きそうだわ」
私たちの笑い声がスーパーに響き、他の客の視線を集める。不審そうに見つめる目線に私は口元を押さえた。
「しっ! 他のお客さんの迷惑だわ。……あんた面白いわね。近くの公園でお喋りしてかない?」
私が提案すると彼女は快く承諾し、レジに急いだ。
「袋代なんてって思ってたけど、意外と慣れるものね。たまに全然聞いてくれない店あるじゃない? 『袋はどうされますか?』って声は必要よね。こないだはじめて入ったお店がそんな感じで、エコバッグもないからハダカのまま家に帰るのは恥ずかしかったわね」
私は彼女の言葉に噴き出し、笑いをこらえる。店員さんもククッと笑ってしまっていた。
「もう! やめなさいよ、恥ずかしいじゃない。すみませんね、でもよくあるでしょう?」と店員さんに話すと「ありますねー」と返してくれた。
「ここの公園、好きだわ。重たい荷物の時、いつもここで休むのよね」
ベンチとブランコだけの小さな公園は彼女の言うとおり私の憩いの場だった。夕方ともあって学校を終えた子どもたちが追いかけっこをして遊んだり、スマホや携帯ゲーム機で遊んでいた。遠くからリコーダーの音が鳴って、たまにピーッと音を外している。
「……ドッペルゲンガーって面白いのね。私、死ぬのかしら」
ふと都市伝説を口にする。
「死なないわよ。もう四十五のおばさんだもの。今死んだら旦那がかわいそうでしょ」
あんたが言うの? あっけらかんと言うもんだから私はまたケラケラと声をあげ、お腹を抱えた。ベンチの上に置いた買い物袋がカサっと音を立てる。
「ウソなのね、都市伝説。そりゃ必ず死んでたらお話にならないわよねぇ」
「そうよ、私は私。よそはよそよ」
本当に私そっくりだわ。考え方も、呑気なとこも。
「あんたはこれからどこにいくのよ」
足を伸ばし、あくびをする彼女。
「あなたの家の全身鏡の中ね」
えっ、と声を出しかける。
「……どういうこと?」
よく見ると前髪の分け目が〝鏡写し〟だ。ジャケットもレディースなのに左前だし。
「普段は鏡の中にいるのよ。たまに息抜きであなたの姿を借りて外に出るの」
あらまぁ、不思議なこともあるのね。心霊現象なら話に聞くけど、こういう類のものはなんていうのかしら。
「怪異、じゃない? 知らないけど」
私が聞く前にドッペルゲンガーが答える。カラスがビルの上で鳴きあって乾いた秋空を旋回する。
「なんでも名前をつけるのは良くないと思うわ。怪異なんて仰々しくない?」
それもそうね。
「でもなんて呼べばいいのかしら」
空の端がオレンジに染まり、彼女の顔も夕日の色で赤くなる。
「〝あんた〟でいいわよ。さ、帰りましょ」
すくっと立ち上がり、お尻の辺りを両手ではたく。私も立ち上がり、同じ仕草をしたあと、買い物袋を腕にかけて家に向かった。
イチョウはまだ緑色で色づくのはまだ先だ。
「それじゃあ、私は帰るから」
彼女が玄関にある全身鏡に足を突っ込み、手をヒラヒラさせる。
「また会いたくなったら、どうすればいい?」
うーん、と考え込みニコリと笑う彼女。
「指で鏡をつっついてよ。それで『ちょっといい?』とか声かけて」
ドッペルゲンガーはするりと鏡の中に消えていき、私はひとりになった。
『鏡の国のアリス』って本があったわね。あれはどんな物語だったかしら。学生のころに読んだきり、読み返してないわ。でも、たまには読書も良いかもね。そう思い、青空文庫で検索をかけてみる。
ルイス・キャロル。あった、あった。ああ、そうね。アリスが鏡の国に行く話だったわね。すっかり忘れていたわ。こんな不思議なこと、現実味がないって思っていたけど、実際はこんなに受け入れられるものなのねぇ。でもこんなこと、夫に話すのはもったいない気がするわ。しばらくは私だけの秘密にしましょう。
それよりも、明日の同窓会のために化粧をすぐ落として保湿をしっかりしなきゃ! 見栄というより、マナー的に綺麗にしておかないと、幹事さんにも悪いわよね。みんなもおじさん、おばさんになっているのかしら。ドッペルゲンガーを見て改めて思った感想を思い浮かべる。いい歳の取り方なんてわからないけど、すぐに私だとわかってくれたらいいなと思う。
ポイントメイクを軽く落として、クレンジングすると鏡の中の私はシミと毛穴が目立った。あら、やっぱりおばさんね。でも嫌いじゃないわ。歳をとるって怖いものだと思っていたけど、案外大丈夫なものね。
翌朝。夫を見送ったあと、私は鏡を指でつつき「ちょっといい?」と独り言を言った。本当にこんなので彼女はくるのかしら。半信半疑だったが、杞憂だった。
「あ、服に迷ってるんでしょ? 昨日は全然決まらなかったものね。夜遅までがんばってたの、目の下に出てるわよ」
あちゃー。確かにクマがひどい。
「言うわねぇ。そうよ。全っ然、洋服が決まらないのよ」
ははーんと顎に手をあて、彼女がほくそ笑む。我ながら憎たらしい表情だ。
「茶色に白のピンストライプのワンピースになんてどう? そこに紺のニットベスト。キャメルのスエードのショートブーツを合わせるの。バッグはオフ白のこんまりとしたものなんかいいんじゃない?」
私はアドバイスに従っていそいそと着替える。この歳になると試着も体力がいる。
着てみると年相応におしゃれな女性が鏡には映っていた。
「……あれ? あんたがいるのに、なんで私が映っているのよ」
「それはあんまり気にしないこと。ほら、似合ってるじゃない」
彼女が私の両肩に手を置き、覗き込む。
「さすがに理屈がわからないわ。ちゃんと話してよ」
彼女はため息をつき、くるりとその場で回転してみせた。すると今着ている私の服装に早変わりした。
「私はあなた。でもあなたじゃない。私はあなたの旦那にもなれるし、他の人にもなれる」
ふわふわしてるわね。
「つまり、鏡の住人だから何者でもないということ?」
「そういうこと」
訳がわからないわ。でも“そういうこと”ならしかたない。
「ふふん。私もこういう服、着てみたかったの。叶えてくれてありがとね」
どういたしましてと言い、時計を見ると家を出る時間だ。
「あ! そろそろ行かなきゃ。ごめんね、こんなことで呼び出しちゃって」
ドッペルゲンガーはくしゃりと笑い、恭しくお辞儀をする。
「どういたしまして。ファッションコーディネーター私はこれで退散するわ」
彼女が全身鏡の中に消えたことを確認すると、私は似合いそうなピアスをつけて外に飛び出た。
同窓会の場所は主要駅の近くの居酒屋。実にカジュアルだ。私たちは大きなガラスの仕切りの席に通され、各々席につく。
友だちのなっちゃんは相変わらず仕事一筋で、独身貴族を謳歌しているのだと言う。サッチーは子どもが二人いて、上の子はもう中学生で反抗期真っ只中。
私はグラス片手に横目でお目当ての彼を探す。たっちゃんはお腹がぷっくり出て前髪が後退した姿だった。
なーんだ、がっかり。でも私も似たようなもんだもんね。彼は奥さんと娘がいて、最近は洗濯物を分けてほしいなんて言われてショックを受けているみたい。
そんな風にクラスメイトと話すうちに酔いも回って、浮遊感に私の気分は最高だった。
「二次会……と行きたいけど、みんな家庭があるだろうからここで解散!」
幹事の言葉に少しがっかりしつつ、私はトシオさんに「今から帰る」とメッセージを送る。すぐに既読になり「待ってるよ」のスタンプが送られてきた。
「旦那さんと仲が良いみたいで安心したよ」
後ろからサッチーに画面を覗かれ、思わず隠してしまう。
「なっ、サッチーだって幸せだって聞いたわよ」
ニマニマしたサッチーが頬に手を当て猫なで声を出す。
「そりゃーね! でも人の幸せを摂取するのはまた違いますなあ」
「摂取って。私もサッチーに良い人が見つかって良かったよ? だって学生時代は似合わない眼鏡に……」と言いかけて口を塞がれる。
「黒歴史って言葉、知ってる? あと、口は災いの元も」
モゴモゴしつつ、笑い声が漏れ、私たちは連絡先を交換した。
帰り道のメッセージのやりとりは、あの時なかった青春を刻んでいるような感覚になった。
「ただいまー」
家に帰るとトシオさんがリビングでくつろいでいた。
「おかえり。先、風呂入っちゃったよ。着替えてマリもお風呂入んなよ」
夫は相変わらず優しい。今回の同窓会も承諾してくれた上に、留守中の家事もやってくれていたようだ。
「ありがとう。あ、食器も洗ってくれたんだね」
「当たり前だろ。息抜きって大事だもん。俺も久しぶりに独身気分を味わえたよ」
私は夫に抱きつき、キスをする。
「ありがとう」
「今日の服、いいね。今度の休日にデートしようよ」
頭を撫でられくすぐったい気分だ。
「うん、もちろん。帰りはスーパーだけどね」
トシオさんは笑い、私の額にキスを落とす。ああ、本当にこの人でよかった。
――眠れない。
そりゃそうだ。あんなにはしゃいで、疲れきったんだから眠れるはずがない。
私はキッチンに向かおうと起き上がると、トシオさんの姿がない。トイレでも行っているのかな? そう思い、廊下を出るとキッチンから話し声がする。
「よくやったよ、お疲れ様」
「あーマジでヒヤヒヤしたわ」
「マリの初恋相手、見たけどかなり変わってたぞ。マリも残念そうな顔してた」
「取られるんじゃないかって思ってたからな。離婚とか嫌すぎる」
「そう言うなって。こうして早くに帰ってきてキスまでしてくれたんだろ?良いことじゃないか」
「そう言うけどよぉー」
私は扉を開けてトシオさんが誰と話しているのか確認した。――夫だった。
「……え。あなたも、なの?」
私から零れた言葉にトシオさんは驚く。
「マリも、なのか?」
無言のトシオさんらしき姿の方を凝視すると、彼は立ち上がり、肩を竦ませる。そして〝彼〟に二人とも同じ問いをなげかけた。
「あんたはドッペルゲンガーなの?」
「おまえはドッペルゲンガーなのか?」
彼がくるりと一回転すると、私の姿に変身した。
「そうよ、ドッペルゲンガーよ」
なんてこと!というかトシオさんってばいつからこの人のことを知っていたのかしら。
「トシオさんはいつから?」
「一年くらい前かな。マリはいつから?」
「私は昨日からよ。というか、ややこしいから知らない人に化けてて!」
私の言葉に「はいはい」と返事をして、その場で一回転しセーラー服姿の女の子に変身する。
「なんで、言ってくれなかったの?」
私がトシオさんとドッペルゲンガーに聞くと夫は「なんか、独り占めしたくて」と返ってき、ドッペルゲンガーは「トシオがマリに秘密にしようって言うから」とごにょごにょ。
「というか、マリもなんで言ってくれなかったんだ」
夫の疑問に私は「昨日の今日だったし、同窓会もあるから言えなくて」と苦しい言い訳をする。
「え、マリも秘密にしておきたいって思ってたみたいだよ?」
言うんじゃない、今じゃない!
「ぷっ、ははは! なんだ、同じこと考えてたんだ!」
夫が噴き出し、私もつられて笑う。あ、夜中なんだから声を抑えないと。私は人差し指を顔の前に立ててトシオさんに合図を送る。そんな様子を見ていたドッペルゲンガーが口を開く。
「バレちゃったらしかたない。これでわたしはここから消えることにするよ」
「「とんでもない!」」
私たち夫婦は声を揃えてドッペルゲンガーを引き止める。透明になっていた輪郭ははっきりと存在をまた浮かび上がらせた。
「……ここにいて、いいの?」
こくりとうなずき、透明になっていく腕を掴む。
「変な夫婦」
ドッペルゲンガーのひと言に「あんた(おまえ)に言われたくない」とツッコミ、私たちはイスに腰掛けた。
「お茶でも入れよっか」
「いいね」
「コーヒーっての、飲みたい」
「眠れなくなるわよ?」
「怪異だから寝ないもん」
私たち夫婦とドッペルゲンガーの奇妙な共同生活が続く。




