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十年間、誕生日だけメッセージを送り合っていた同級生から「今年で最後にしよう」と届きました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/11

 十月十二日、午後十一時二十六分。


 洗い終えたマグカップを伏せていると、スマートフォンが鳴った。


『誕生日おめでとう。』


 瀬尾拓海。

 今年も、その名前だった。


『ありがとう。今年も覚えてた。』


 送信して、流し台に残った泡を水で流す。

 二十九歳の誕生日は、昼に友人とご飯を食べて、帰りに洗剤を買って終わった。冷蔵庫には、食べきれなかったケーキが半分ある。


 もう一度、通知が鳴った。


『今年で最後にしようと思う。』


 水を止めた。

 濡れた手をズボンで拭きかけて、タオルを取る。


 最後。


 結婚するのかな、と思った。

 そういう相手がいるなら、昔の同級生に毎年連絡するのをやめても、別におかしくない。


 入力欄に『そっか』と打った。

 その先に何を足すか考えながら、拓海のアイコンを見た。海なのか湖なのかも分からない、小さな青い写真。


 私は、この写真がどこで撮られたのか知らない。

 今の拓海がどこに住んでいるのかも、知らない。


 『そっか』を消した。


『なんで?』


 既読がつくまで、スマートフォンを持って立っていた。


『十年やったし。』


『回数制だったの?』


『そういう意味じゃない。』


『じゃあどういう意味?』


 すぐについた既読の下に、返信は増えなかった。


 私は台所の明かりを消し、ソファに座った。

 部屋には脱いだカーディガンが置きっぱなしで、テレビのリモコンがその下にある。探すのも面倒で、画面を上へたどった。


 去年の十二月。

 その前の十月。

 さらに、十二月。


 拓海とのメッセージには、毎年、二つの月しかなかった。


     *


 最初に届いたのは、十九歳の誕生日だった。


 大学の講義から帰って、母が買ってきたケーキを食べていた。

 通知に拓海の名前を見つけて、フォークを置いたことを覚えている。


『誕生日おめでとう。』


『覚えてたんだ。』


『まあね。』


『ありがとう。』


 高校二年、三年と同じクラスだった。

 誕生日の話もした。十月生まれの私は、十二月生まれの拓海より先に十八歳になって、二か月だけ年上だと威張ったりもした。


 けれど、卒業して七か月経っても覚えているとは思わなかった。


 拓海は県外の大学に進んでいた。私は県内の大学で、実家から電車で通っていた。

 高校の帰り道ではよく話したのに、大学に入ってからは一度も二人で連絡していなかった。


『大学どう?』


『一限がつらい。そっちは?』


『自分で朝飯作るのがつらい。』


『食べなよ。』


 たいした話ではなかった。

 五、六往復して、拓海が『じゃあ、また』と送ってきた。


 十二月七日。

 私は大学帰りの電車で、拓海の名前を開いた。


 自分だけ祝ってもらって、送らないのも変だ。

 そう思ったのは本当だし、そう思えることに少しほっとしたのも本当だった。


『誕生日おめでとう。』


『ありがとう。覚えてたんだ。』


 笑いそうになって、窓の方を向いた。


『まあね。』


 拓海から、雑に手を振るスタンプが返ってきた。


 翌年も、十月十二日にメッセージが来た。

 私も十二月七日に送った。


 二十歳になった冬、成人式のあとの集まりで一度顔を合わせている。

 同級生が十数人集まった居酒屋で、拓海は私から離れた席にいた。帰りに『大学どう?』と聞かれて、『課題多い』と答えた。誰かが写真を撮ろうと呼んで、それ以上は話さなかった。


 帰宅してから、今日は楽しかったね、と送ることもできた。

 でも、送らなかった。

 拓海からも来なかった。


 大学では、同じゼミの人と半年ほど付き合った。

 会える日が楽しみだったし、別れたあとは、しばらくその人の好きだった店に入れなかった。


 その人の誕生日には、一緒にケーキを食べた。プレゼントを選ぶのにも、ずいぶん迷った。


 二十二歳の十月には、就職先の話をした。


『就職決まった?』


『決まった。信用金庫。そっちは?』


『俺も決まった。医薬品の卸。』


『そっちで働くの?』


『うん。』


『そっか。お互いよかったね。』


 どこの会社、とまでは聞かなかった。

 春になって、ちゃんと入社した、と連絡することもなかった。


 二十四歳の誕生日は、ひどく短かった。


『誕生日おめでとう。』


『ありがとう。』


 それで終わった。

 十二月に私から送ったときも、同じだった。


 彼女がいるのかな。


 夕飯を食べながら、そんなことを考えた。

 聞こうとは思わなかった。好きな人がいても当然の歳だし、私だって、拓海に恋人ができるたび報告してもらう立場ではない。


 二十六歳の誕生日には、私の方が短くした。

 付き合っている人と食事に出ていて、帰宅してからお礼を一通送った。

 十二月のメッセージも挨拶だけにした。


 その人とは一年ほど付き合った。

 将来どこに住むか、どんな暮らしをしたいか。話すたび、どちらかがかなり譲らなければならなかった。

 最後まで意地悪をされたわけではない。別れると決めた日に、借りていた本を返した。向こうも私の傘を持ってきた。


 何も悪いことがなくても、終わることがあるのだと知った。


 そして去年。


『二十八、おめでとう。』


『ありがとう。あと二年で三十だよ。』


『俺もあとで行く。』


『毎年二か月遅れるよね。』


『それはどうにもならない。』


 どちらかに恋人がいる年も、いない年も、誕生日の挨拶は来た。

 話が少し続くこともあれば、一往復で終わることもあった。


 それ以外の日に、送ろうか迷ったことはある。

 地元の駅が改装されたときや、高校の担任が退職すると聞いたとき。

 大学時代には、拓海と見に行った映画の続編が出たこともあった。


 送る文面は考えた。

 でも、急にどうしたの、と返ってきたら、なんと答えればいいか分からなかった。

 別に、と答えるのも、話したかった、と答えるのも嫌だった。


 誕生日なら、そういう説明はいらなかった。


     *


 スマートフォンが、手の中で震えた。


『このまま毎年おめでとうだけ言ってても、何も知らないままだなと思って。』


 少し経って、もう一通。


『今、どんな生活してるかとか。』


 時計は十一時四十三分になっていた。


『私も知らない。』


 送ってから、冷蔵庫の中のケーキを思い出した。

 拓海は、私が今日誰と食事をしたか知らない。

 昼に会った友人は拓海の知らない人だし、今住んでいる部屋にも、高校時代のものはほとんどない。


『まだ、そっちに住んでると思ってる。』


 県外の大学に行って、そのまま県外で就職した。

 私が知っている拓海の住所は、それで止まっている。


『俺も、千尋は実家だと思ってた。』


『一人暮らしだよ。五年くらい。』


『そうなんだ。』


 その返事を見て、ため息が出た。

 五年も知らなかった。

 五年も言わなかった。


『結婚するのかと思った。』


 打ってから、さっきは聞けなかったのに、と思った。


『しない。相手もいない。』


『そうなんだ。』


 私も同じ返事を送っていた。


『もう遅いし、寝ようか。』


 拓海から届いた。

 私は『うん』と答えた。


『おやすみ。』


『おやすみ。』


 最後にするかどうかは、決まらないままだった。


 歯を磨いて、明日の天気を見て、充電器を挿した。

 眠る前に一度だけ画面をつけると、十二時を過ぎていた。


     *


 翌朝は、目覚ましより先に起きた。

 十月十三日。私は休みで、洗濯を二回するつもりだった。


 洗濯機に服を入れてから、スマートフォンを持って座った。

 拓海との画面には、昨夜のおやすみが二つ並んでいる。


 今日は、私の誕生日ではない。

 拓海の誕生日でもない。


 入力欄を押した。


『今日、会えない?』


 送って、洗濯機の開始ボタンを押しに行った。

 洗剤を入れていなかったので、戻って入れた。


 台所で食パンを焼いていると、返信が来た。


『会える。』


『どこいるの?』


『南川市。』


 焼き上がったパンが跳ねた。


 南川市。

 私が住んでいる桜岡市から、電車で三十六分の街だった。


『今、帰省中?』


『住んでる。去年の春に異動した。』


『私、桜岡なんだけど。』


『え、近い。』


『近いよ。』


 私はパンを皿に移し、バターを塗った。

 この一年半、拓海は電車一本で会える場所にいたらしい。


『全然知らなかった。』


『言ってなかったな。』


 だいぶ大きな近況報告を、一つ忘れていたような返事だった。

 思わず笑って、パンの端をかじった。


 昼過ぎ、桜岡駅の西口で待ち合わせることになった。

 駅前にはカフェが何軒かある。どこかに入ればいい、という程度しか決めなかった。


 服を選ぶのに、洗濯より時間がかかった。

 最初に着たワンピースを脱ぎ、いつものパンツにした。いつもすぎる気がして、ブラウスだけ替えた。

 玄関を出る直前、鏡の中の自分に、何してるんだろう、と思った。


 けれど、もう一度着替えに戻るのはやめた。


     *


 拓海は、駅の柱のそばに立っていた。


 紺色のシャツに、薄いグレーの上着。髪が短くなっていた。

 高校時代はいつも前髪を気にしていたのに、今は額が見えている。知らない男の人みたいで、声をかける前に一度足が止まった。


 向こうが気づいて、手を上げた。


「千尋?」


「うん。久しぶり」


「久しぶり」


 声も少し低くなった気がした。

 私が近づくと、拓海は背中を柱から離した。


「髪、そんな短かったっけ」


「高校のとき? もっと長かったよ」


 私は肩に届かない髪の先を触った。


「切ったんだ」


「一昨年からね。拓海も短い」


「朝、楽だから」


「それは分かる」


 それだけ話して、二人とも黙った。


「とりあえず、何か飲もうか」


 私が言うと、拓海は駅前の通りを見た。


「あの店でいい?」


「いいよ」


 入ったのは、仕事帰りに何度か寄ったカフェだった。

 窓際の席が一つ空いていたので、向かい合って座った。


 私はカフェラテ、拓海はホットの紅茶を頼んだ。


「コーヒーじゃないんだ」


「最近、午後に飲むと眠れなくて」


「そんな理由?」


「けっこう大事な理由」


 笑うときに片方だけ目が細くなるのは、覚えていた。

 でも、その目尻には知らない線があった。


「二十九って、どんな感じ?」


 拓海に聞かれ、私は少し考えた。


「昨日からだから、まだ分かんない。拓海も、あと二か月で分かるよ」


「俺はもうちょっと二十八でいる」


「いていいけど、すぐだよ」


「仕事、医薬品だったよね」


「卸ね。物流の方」


「倉庫?」


「うん。入荷とか出荷とか、人の配置とか。予定どおり終わらせる係、みたいな」


「終わる?」


「予定が甘かった日には終わらない」


 拓海は苦笑した。


「千尋は、信用金庫だよな」


「事務。今は本部だから、窓口には出てないよ」


「じゃあ、お客さんと話す仕事じゃないのか」


「支店から電話は来る。確認とか、書類のこととか。地味に同じこと聞かれる日もある」


「それ、答える方も大変だな」


「たまに私の説明が悪かったんだなって、三回目くらいで気づく」


 拓海が、声を出して笑った。

 高校時代より、笑う前の間が短かった。


「一人暮らしは、就職してから?」


「異動したとき。地元から通うとちょっと遠いから。駅の反対側に住んでる」


「俺は南川の東口。駅から十五分くらい」


「車は?」


「ある。会社が駅から遠い」


 勤務先のある場所を聞いて、私は驚いた。

 仕事でやり取りする支店が近くにあった。


「そこ、先月行った」


「ほんとに?」


「会議。車で行ったから駅は通らなかったけど」


「俺、普通に働いてたと思う」


 そのあと、お互いの最寄りのスーパーを比べた。

 拓海の住む街の方が、家賃が少し安いらしい。代わりに、夜遅くなると食事のできる店が減ると言った。


 私がいつも買い物をする店も、拓海には知らない店だった。

 高校時代、途中まで一緒に歩いた帰り道を、どちらも今は使っていない。


「変な感じ」


「何が?」


「毎年連絡してるから、知ってる人だと思ってた」


 拓海は紅茶のカップを持ち上げ、飲まずに置いた。


「俺も」


「私が実家を出たの、二十四のときだよ」


「五年前か」


「あの年、ちょっと忙しくて。引っ越しとか、慣れない仕事とか」


「そうだったんだ」


「返信、すごく短かったでしょ。拓海の」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかなと思った。

 拓海は斜め上を見て、考えている。


「二十四って、千尋が二十四になった年?」


「うん」


「ああ。彼女いた」


「やっぱり」


「分かってた?」


「そうなのかなって思っただけ。仕事忙しいのかもしれないし」


「仕事も忙しかったけど。あんまり長く話すのもなって」


 私はうなずいた。

 それは自分にも覚えがある。


「千尋も、二十六のとき短かった」


「いたよ」


「やっぱり」


 拓海が同じ言い方をしたので、笑ってしまった。


「それも覚えてるの?」


「その年、俺の誕生日、ケーキのスタンプだけだったから」


「文章打つのが面倒だったわけじゃないよ」


「そこまでは疑ってない」


 カフェラテの泡は、ほとんど消えていた。

 私はカップを両手で持った。


「結婚するつもりだった?」


「社会人になってからの人とは、考えたことはあった。千尋は?」


「私も。話したけど、うまく決まらなくて」


「そっか」


「いい人だったんだけどね」


 拓海はうなずいた。

 自分の元恋人について、何か悪く言うこともなかった。


 私は、別れた日のことをもう少し話すか迷って、やめた。

 今日は、目の前の人の話が聞きたかった。


「大学のときも付き合った?」


「一人。千尋は?」


「私も、一人」


「ちゃんと大学生だったな」


「ちゃんとって何」


「いや、俺が知らないところで」


「当たり前じゃん」


 笑ってから、私はふと十九歳のときの返事を思い出した。


「一限つらいって送ったの、覚えてる?」


「最初?」


「そう。あれ、乗り換え間違えて遅刻した日だった」


「寝坊じゃないのか」


「朝起きるのはできてたよ。反対の電車に乗った」


「そっちの方が深刻じゃない?」


「一年生だったから。拓海も、朝ご飯作れないって言ってた」


「あの頃は、パン買って終わり。今は食べる」


「何を?」


「ご飯と納豆と、あれば味噌汁」


「ちゃんとしてる」


「作るときは、何日か同じ味噌汁だけど」


 いつ作るの、何を入れるの、と聞いていたら、拓海が笑った。


「朝飯の話、こんなにする?」


「どんな生活してるか、知らないから」


「確かに」


 少し気が楽になって、私は椅子に座り直した。

 会う前に想像した拓海は、制服を着ていたり、大学生だったりした。

 向かいにいる人は、出荷の予定を立てて、味噌汁を温めて、眠れなくなるから紅茶を選ぶ人だった。


「今、付き合ってる人は?」


 拓海が聞いた。


「いないよ。拓海は昨日聞いたけど」


「うん、いない」


 私はカップに視線を落とした。

 拓海は指先で、紙のおしぼりの袋を畳んでいた。


「昨日の、あれ」


 顔を上げると、拓海もこっちを見た。


「最後にするってやつ?」


「うん。何も知らないって思ったなら、聞けばよかったんじゃない?」


「そうなんだよな」


 あっさり認められて、少し拍子抜けした。


「なんで最後になったの?」


「昨日、文章打って、何回か消して。久しぶり、も変だし。毎年送ってるのに」


「それは分かる」


「いつまでこうやって送るんだろうって思った。千尋が結婚しても同じの送って、ありがとうって来て、それだけなのかって」


 拓海は、畳みすぎた袋を指で広げた。


「大事な友達なんだったら、もうちょっと話しててもいいはずだろ。なのに、誕生日終わると、送ることなくなる」


「送ることがない、っていうか」


「送れなくなる」


「うん」


「これ、千尋に返事もらうために続けてるだけなのかなって。それも嫌で。やめようと思ったんだけど」


 そこで一度、言葉が切れた。


「やめるって送る時点で、返事待ってるんだよな」


 私は少し笑った。

 拓海も、困った顔で笑った。


「なんで、って聞かれて焦った」


「そっか、って打ったよ。一回」


「それ来てたら、終わってたかも」


「十年やったし、って来るとは思わなかった」


「あれは、ごめん」


 ちゃんと私の方を見て言ったので、私は『いいよ』と返した。


「でも、なんで毎年送ってたんだろうね」


「千尋は?」


「拓海が送ってくるから」


「俺の誕生日は?」


「私だけ祝われるの変じゃん」


「それで十年?」


「……十年」


 口にすると、二人で同じことをずいぶん長くしていた。


「十二月って、店で手帳売ってるでしょ」


「うん」


「新しいの買うと、七日を見てた。まだ先だなって」


「カレンダーに入れてた?」


「入れてない。覚えてたから」


 拓海は、しばらく黙っていた。


「俺、十月になるとケーキ屋の前で思い出してた」


「誕生日に?」


「その前から。もうすぐだなって」


 私は、カップの持ち手に指を通した。

 持ち上げても、もう一口分しか入っていなかった。


「その話、一回もしてないね」


「今した」


「うん」


 店の奥で、食器が重なる音がした。

 窓の外に目をやると、さっきまでの日なたが細くなっていた。


 拓海は腕時計を見て、私に聞いた。


「このあと、用事ある?」


「洗濯物、取り込むくらい」


「生活だな」


「拓海は?」


「明日の弁当、作るくらい」


「そっちもじゃん」


 会計は別々にした。

 店の前で拓海が上着を羽織るのを待ち、二人で駅まで歩いた。


「高校のとき、一回映画行ったよね」


 私が言うと、拓海は少し眉を上げた。


「あの、最後が分かりにくいやつ」


「そう。帰りにずっと説明してくれた」


「俺も本当は半分くらい分かってなかった」


「え、今言う?」


「今なら言える」


 私が呆れた顔をすると、拓海は笑った。

 高校三年の夏。見たい映画が同じだったから、一緒に行った。

 帰りのファミレスで何を食べたかは、もう覚えていない。

 ただ、誘うときにずいぶん緊張したことは覚えていた。


 駅には、もう拓海の乗る電車の案内が出ていた。


「今日、ありがとう。急に誘って」


「俺こそ。変なの送ってごめん」


「ちゃんと話せたから、いい」


 改札の手前で足を止めた。

 拓海は、まだ財布を出さなかった。


「じゃあ、今年で最後っていうのは」


「うん」


 私がうなずくと、拓海の口が少し開いた。


「誕生日だけに送るのは、最後でいいよ」


 開きかけた口が閉じた。

 私はかばんの紐を持ち直した。


「今度から普通の日に送るから」


「俺から送ってもいい?」


「誕生日じゃなくても?」


「うん」


「いいよ」


 拓海はうなずいて、ようやく財布を出した。


「洗濯物、忘れないように」


「そっちもお弁当ね」


 改札を通った拓海が、一度振り返って手を上げた。

 私も上げた。


 帰宅して、洗濯物を取り込んだ。

 畳む前にスマートフォンが鳴った。


『着いた。意外と近かった。』


『三十六分だからね。』


『洗濯物は?』


 取り込んだ服の山を写真に撮って送った。


『今からやる。』


 拓海から笑っているスタンプが来た。

 十九歳のときに見たものとは、違うスタンプだった。


     *


 水曜日、仕事帰り、ホームで電車を待っていると、拓海から初めて誕生日でも休日でもない連絡が来た。


『そっち、雨降ってる?』


 ホームの屋根を叩く雨を見て、私は答えた。


『かなり。』


『傘忘れた。』


『車通勤じゃなかった?』


『駐車場までが遠い。』


 私はかばんから折り畳み傘を出した。

 拓海が車まで走る姿を想像して、雨脚の強さをもう一度見た。


『もう少し待ったら?』


『待つ。今週の土曜、空いてる?』


 読み返してから、電車の扉を見た。

 雨の話のあとに、普通に次の予定が来ていた。


『夕方なら。』


『ご飯行かない?』


『行く。』


 その土曜日、南川駅の近くで食事をした。

 拓海が選んだ定食屋は、テーブル同士が近くて、隣の人の生姜焼きまでおいしそうに見える店だった。


「嫌いなものある?」


 メニューを渡しながら、拓海が聞いた。


「特には。拓海、辛いの食べられるようになった?」


「普通に食べる」


「高校のとき、学食のカレーで水ばっかり飲んでなかった?」


「それはもういいだろ」


 その日のおすすめには、麻婆豆腐があった。

 拓海は迷わず注文した。

 私は鯖の塩焼きにした。


「魚、焼く?」


「家では焼かない。あとが面倒だから」


「分かる」


「拓海は、弁当作るんだもんね」


「作るって言っても、昨日の残りとか冷凍のやつ。そんなにちゃんとしてない」


「この前、何作ったの?」


「卵焼きと、鶏肉。ちょっと焦げた」


 写真を見せてもらった。

 確かに、鶏肉の端が黒い。

 白いご飯の脇には、大きな卵焼きが二切れ入っていた。


「卵焼き、甘い?」


「甘い。千尋は?」


「甘くない方」


「そこ合わないな」


「二種類作ればよくない?」


 口にしてから、私はメニューを閉じた。

 家の卵焼きを一緒に決めているようで、ちょっと変だった。

 拓海は写真を引っ込めて、うなずいた。


「面倒じゃなければ、それでいいか」


 生姜焼きの匂いがしてきて、私たちは隣のテーブルを見た。

 二人とも同じことをしていて、今度は笑った。


 食後、拓海は会計の伝票を見て言った。


「今日、俺が誘ったから出すよ」


「じゃあ、次は私が出す」


「うん」


 次がある、と決まっただけで、駅までの道が短く感じた。


 改札の前で、私は思い出して聞いた。


「結局、あの日、雨止んだ?」


「十分くらい待ったら弱くなった。走らず済んだ」


「よかった」


「千尋は濡れなかった?」


「靴下だけ。靴、間違えた」


 拓海は私の足元を見た。

 今日は、天気予報を見てから靴を選んでいた。


「そっちは、教えてくれればよかったのに」


「靴下濡れたって?」


「うん。別に直せはしないけど」


 それくらい送ってもよかったらしい。

 帰りの電車で、次は店を選んでおく、とメッセージを送った。


 十月の終わり、私たちは初めて電話をした。


 会う予定を相談していたとき、拓海から『ちょっと電話していい?』と聞かれた。

 私は洗い物を終え、テレビを消してから『いいよ』と返した。


「文字打つの面倒になった」


 第一声がそれだったので、笑った。


「先にそれ言う?」


「ごめん。手が冷たくて」


「外?」


「家。まだ暖房つけるの早いかなって」


「つけなよ」


 リモコンを探す音がした。

 私もソファに移って、膝にブランケットを掛けた。


 日曜日に会う時間を決め、夕飯の話をした。

 拓海はもう食べていた。私はこれからで、冷凍していたご飯を温めるつもりだった。


「仕事、遅かった?」


「今日はちょっと。確認する書類、多くて」


「月末だから?」


「うん。それで、もう何年もいるのに、同じところで間違えた」


 言ってから、私はブランケットの端を指でつまんだ。

 誰かに話すほどのことでもない。自分で気づいて直せたし、仕事としては終わっている。

 それでも、家に帰ってからまで思い出していた。


「直った?」


「直った。自分で見つけたから、誰にも迷惑はかけてない」


「なら、確認した意味あったじゃん」


「そうなんだけど。七年目でこれか、って」


 拓海はすぐに、大丈夫とは言わなかった。

 少し間があってから、静かに言った。


「またやるかもって思って、俺は二回見る。同じところでやるから」


「二回見ても間違える日、あるよね」


「ある。三回目は、できれば別の人に見てもらう」


「その方がいいよね」


 息を吐いて、私はソファの背にもたれた。

 拓海の声が、カフェにいたときより近くに聞こえた。


「そっちは、仕事どうだった?」


「今日は俺も、ちょっと駄目だった」


「何が?」


「予定、詰めすぎた。終わらせたくて、人を何回も動かして。かえって遅くなった」


 拓海の話は、聞けば聞くほど、本人も分かっていたようだった。

 その場で判断したことを、あとから一つずつ言い直していた。


「忙しかったんでしょ」


「うん。でもそれ、俺の予定で忙しくしてたのもあるから」


「明日、言える?」


「何を?」


「昨日はごめんって。私、言うなら早い方が少し楽」


 拓海が低く、うん、と答えた。


「言う。今日は、終わったあとも気まずくて」


「分かる。声かけそびれるよね」


「そうなんだよ」


 少しして、ご飯を食べて、と言われた。

 私はまだ電子レンジの扉も開けていなかった。


「拓海は暖房ついた?」


「ついた。部屋、冷えてた」


「お互い、先にそっちやればよかったね」


「うん。また電話する」


「私からしてもいい?」


「もちろん」


 電話を切ってから、スマートフォンを台所に持っていった。

 ご飯を温めている間に、拓海から『明日、言うよ』と来た。


『うん。今、ご飯温めてる。』


 翌日の夜には、『朝、言った』と届いた。

 私は『おつかれさま』と返した。


 十一月になった。

 駅の反対側にある店を見つけて、拓海との画面を開いた。


『今度、ここ行かない?』


 店の案内を貼りつけ、送る前に止まった。

 誕生日のお返しは、この前の食事で済んでいる。電話で聞いた仕事のことも、もう返事をもらった。

 今度は、何かの続きだから会うのではない。


 ただ、会いたかった。

 拓海にも同じくらい会いたいと思っていてほしくて、急に送るのが怖くなった。


 入力欄を閉じた。

 冷蔵庫を開け、夕飯に使う卵を取り出した。二つ残っているのを見て、拓海は甘い卵焼きにするんだろうなと思った。

 そんなことを考えるなら、聞けばいい。


 スマートフォンへ戻り、さっきの文を送った。

 もう一通、続けた。


『また会って話したい。土曜、空いてる?』


 卵を割っている間に、通知が鳴った。


『空いてる。俺も会いたかった。夕方でいい?』


 私は画面を読んでから、ボウルに目を戻した。

 殻が一つ落ちていた。箸で拾い、火をつける前に返事をした。


『いいよ。楽しみ。』


 土曜日、少し早く着いたので席を取ったら、メニューに見覚えのない魚の名前が並んでいた。

 スマートフォンで調べているところに、拓海が来た。


「どれ、食べたいの?」


「今、どういう魚か調べてる。知ってる?」


「知らない。店の人に聞く?」


「聞けばよかった」


 結局、店員さんにおすすめを教えてもらった。

 私は焼き魚、拓海は煮つけを頼んだ。


 私は拓海の予定を、少しずつ知っていた。

 月曜日は帰りが遅くなりやすいこと。休日の朝でも、平日と同じくらいに目が覚めること。家で映画を見ると、途中で止めて飲み物を足すこと。


 拓海も、私が土曜日にまとめて掃除をすることや、昼休みにはできれば一人で外へ出たいことを知った。

 返事が来るのは何時頃になりそうか、少し分かるようになっていた。


 メッセージの履歴を読み返すより、目の前で返ってくる言葉の方がおもしろかった。

 拓海は、人と話す仕事が増えてから、以前より話すようになったと言った。


「前は、話さなくても周りが勝手にやってくれたから」


「今は?」


「何も言わないと、何も伝わらない」


「それ、今気づいたの?」


「二十代の前半くらいには、一応」


「なのに、あのメッセージ?」


 拓海が箸を止めた。


「仕事と同じにできてたら、あんなの送ってない」


「そうだよね」


 私は笑って、それ以上からかわなかった。

 私だって、拓海に誕生日以外の連絡をするまで、十年かかった。


 次の休日、二人で映画を見た。

 今度はどちらも結末が分かった。上映後、拓海は感想を尋ねてから、自分とは違うところがおもしろかったと笑った。


 歩きながら、私は来週も一緒に何か食べたいと思っていた。

 たぶん映画がなくても、休みが合うなら会いたい。


 駅前のパン屋で、拓海は翌朝の分を買った。

 私も一つ選んだ。

 紙袋を受け取った拓海が先に店を出て、開けた扉を押さえてくれた。


「ありがと」


「うん」


 その横を通るとき、袖が触れた。

 思わず少し距離を取って、紙袋を持ち直した。


 隣を歩くことには、もう慣れていた。

 でも、手が触れそうになると、歩く速さを考えてしまった。


     *


 十一月の二度目の日曜日。

 夕飯を食べた帰り、拓海はまだ駅へ向かいたくなさそうだった。


「時間、大丈夫?」


「大丈夫だけど」


「少し歩かない?」


 店の前から駅までは、十五分くらいあった。

 私はうなずいた。


「今日、送らなくても、ちゃんと電車で帰れるよ」


「そうじゃなくて」


 拓海は、一度口をつぐんだ。

 私は立ち止まらず、少しゆっくり歩いた。

 通り沿いの店に、クリスマスの飾りが出ていた。まだ十一月なのに、と言おうとして、やめた。


「高校のときさ」


「うん」


「俺、千尋のこと好きだった」


 私は、握っていたかばんの紐を少し緩めた。

 拓海は前を向いたまま、言葉を続けた。


「今さらだけど。映画行ったときも、誘ってくれて嬉しかった」


「私も、好きだったよ」


 言うと、拓海が私を見た。

 その顔に、私は笑いそうになった。


「付き合ってるの、って聞かれるたび、違うって言ったけど」


「あれ、言うよな」


「拓海も言ってた」


「俺は、千尋に違うって言われるのが嫌で、先に言ってた」


「私もだよ」


 しばらく、靴音だけになった。


 高校三年の秋、拓海が県外の大学の名前を挙げるたび、私は県内に残ると答えた。

 遠くに行きたい人に、好きだなんて言っても困らせる気がした。


 でも、言われたら嬉しいかどうかを、私は本人に聞いていない。


「受験があるし、卒業したら遠いしって、言わない理由にしてた」


 拓海が、私の考えていたことを口にした。


「私も。今言わない方がいいよねって」


「振られたくなかっただけだと思う」


「うん。私も、それが一番大きかった」


 拓海が、小さく息を吐いた。


「相手が先に言ってくれれば、って思ってた」


「どっちも待ってたんだね」


 卒業式の日、友達が撮ってくれた写真を思い出した。

 高瀬、もうちょっとそっち、と言われて寄った。

 二人で並んだ一枚は、肩の間が少し空いていた。

 また連絡する、と言われて、うん、と答えた。


 あの日の話を、今ならできる。

 それが嬉しかった。でも、それだけなら、懐かしかったね、と言って駅で別れられたと思う。


 信号で止まった。

 拓海は、向かい側を見てから私を見た。


「それで、今、好きなんだけど」


 声が急に小さくなった。


「昔の話のついでみたいになった。違うんだけど」


「うん」


「俺、高校のときは、千尋はあんまり失敗しない人だと思ってた」


「そんなことなかったよ」


「そうなんだよな。今も間違えるし、困るし、魚の名前も知らないし」


「それ、告白に入れる?」


「ごめん。うまく言えない」


 信号が青になった。

 並んで渡ると、拓海はかばんを肩に掛け直した。


「電話したとき、聞いてもらえて助かった。俺が悪かったって言っても、全部否定しないでさ。次の日も、普通に返してくれて」


「拓海も、普通に聞いてくれたよ」


「うん。そういうのが、よかった」


 拓海は一度、唇を結んだ。


「朝ご飯の話してても楽しいし、千尋が選ぶ店も行きたい。次、いつ会えるかなって、仕事中も考える」


 私は足を止めた。

 拓海も、半歩先で止まった。


「昔好きだっただけなら、今、ここで言わなくてもいいと思う。でも、また言わないで帰るのは嫌で」


 拓海が、こっちを向いた。


「付き合ってほしい」


 私はうなずきかけて、口を開いた。


「私も、今の拓海が好きだよ」


 声に出してから、もう少し言いたくなった。


「今週、仕事で嫌なことあった日、電話していいかなって一番に考えた。時間遅かったから、しなかったけど」


「してよ」


「寝てたかもしれないでしょ」


「寝てたら、起きてから返す」


 そういう返事が、今は聞ける。


「あと、お弁当の写真も、また見たい」


「焦げてないときのにする」


「焦げててもいいよ」


 拓海は笑ってから、私をじっと見た。


「それ、返事は」


「うん。付き合いたい」


「よかった」


 拓海が肩を下げた。

 そんなに力が入っていたんだ、と気づいて、私もかばんを持ち直した。


「千尋、手、つないでもいい?」


「いいよ」


 差し出された手に、私は自分の手を重ねた。

 指先は冷たかった。握り直すと、拓海も少し力を入れた。


 駅の方へ歩き出した。

 今までより、拓海との距離が近い。


「来週も、会える?」


「土曜日なら」


「じゃあ、土曜」


 私はうなずいた。

 改札まで、つないだ手を離す必要のない方へ、かばんを持ち替えた。


     *


 十二月七日の朝。


『おはよう。』


 私が送ると、少しして拓海からも『おはよう』と返ってきた。


『何か忘れてない?』


『夜言う。』


『今言ってもよくない?』


『直接言いたい。』


 既読がついて、すぐに返事が来た。


『じゃあ、夜待ってる。』


 私はスマートフォンをテーブルに置いた。

 化粧を終えて、薄い方のコートを選びかけ、窓の曇りを見て厚い方にした。


 拓海と付き合い始めて、もうすぐ一か月になる。

 先週は、仕事で会う予定が変わった。拓海から早めに連絡が来て、別の日にした。

 会える日は会って、会えない日は電話をしたり、しなかったりした。


 今日も、夕飯の約束をしている。


 仕事帰り、駅のロッカーから紙袋を出した。

 中には、拓海の新しい弁当箱が入っている。

 以前見せてもらったものは、留め具が一つ欠けていた。まだ使える、と言うので、そろそろ替えなよ、と私が言った。

 欲しいならどのくらいの大きさか聞いて、先週二人で売り場を見た。


 何が好きなのか分からなくて、無難なものを探す必要はなかった。


 店に着くと、拓海は先に来ていた。

 前に私が選んだ魚の店だった。

 窓際の席から、入口の私に手を上げた。


「寒かった?」


「ちょっと。遅くなってごめん」


「俺も今来たところ」


 コートを脱いで、向かいに座った。

 拓海の前に置かれたメニューには、今日のおすすめの紙が挟まっていた。


「もう決めた?」


「まだ。千尋は?」


「先に、これ」


 紙袋を渡すと、拓海は両手で受け取った。


「ありがとう。開けていい?」


「いいよ。分かってると思うけど」


 包みの端を指で探して、拓海が顔を上げた。


「これで鶏肉焦がしても、写真撮れるな」


「できれば焦がさないで」


 拓海が笑った。

 私も笑って、水を一口飲んだ。


 午前中、仕事の合間に、なんと言おうか少し考えていた。

 二十九歳だね、とか、私に追いついたね、とか。

 でも、顔を見たら、言いたいのは一つだった。


「拓海」


「ん?」


 包みを膝に置いた拓海と、目が合った。


「誕生日おめでとう」


「ありがとう」


 拓海が、いつもの少し片目を細める笑い方をした。


 私はメニューを開いて、彼の方に寄せた。


「何、食べようか」


~完~

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