十年間、誕生日だけメッセージを送り合っていた同級生から「今年で最後にしよう」と届きました
十月十二日、午後十一時二十六分。
洗い終えたマグカップを伏せていると、スマートフォンが鳴った。
『誕生日おめでとう。』
瀬尾拓海。
今年も、その名前だった。
『ありがとう。今年も覚えてた。』
送信して、流し台に残った泡を水で流す。
二十九歳の誕生日は、昼に友人とご飯を食べて、帰りに洗剤を買って終わった。冷蔵庫には、食べきれなかったケーキが半分ある。
もう一度、通知が鳴った。
『今年で最後にしようと思う。』
水を止めた。
濡れた手をズボンで拭きかけて、タオルを取る。
最後。
結婚するのかな、と思った。
そういう相手がいるなら、昔の同級生に毎年連絡するのをやめても、別におかしくない。
入力欄に『そっか』と打った。
その先に何を足すか考えながら、拓海のアイコンを見た。海なのか湖なのかも分からない、小さな青い写真。
私は、この写真がどこで撮られたのか知らない。
今の拓海がどこに住んでいるのかも、知らない。
『そっか』を消した。
『なんで?』
既読がつくまで、スマートフォンを持って立っていた。
『十年やったし。』
『回数制だったの?』
『そういう意味じゃない。』
『じゃあどういう意味?』
すぐについた既読の下に、返信は増えなかった。
私は台所の明かりを消し、ソファに座った。
部屋には脱いだカーディガンが置きっぱなしで、テレビのリモコンがその下にある。探すのも面倒で、画面を上へたどった。
去年の十二月。
その前の十月。
さらに、十二月。
拓海とのメッセージには、毎年、二つの月しかなかった。
*
最初に届いたのは、十九歳の誕生日だった。
大学の講義から帰って、母が買ってきたケーキを食べていた。
通知に拓海の名前を見つけて、フォークを置いたことを覚えている。
『誕生日おめでとう。』
『覚えてたんだ。』
『まあね。』
『ありがとう。』
高校二年、三年と同じクラスだった。
誕生日の話もした。十月生まれの私は、十二月生まれの拓海より先に十八歳になって、二か月だけ年上だと威張ったりもした。
けれど、卒業して七か月経っても覚えているとは思わなかった。
拓海は県外の大学に進んでいた。私は県内の大学で、実家から電車で通っていた。
高校の帰り道ではよく話したのに、大学に入ってからは一度も二人で連絡していなかった。
『大学どう?』
『一限がつらい。そっちは?』
『自分で朝飯作るのがつらい。』
『食べなよ。』
たいした話ではなかった。
五、六往復して、拓海が『じゃあ、また』と送ってきた。
十二月七日。
私は大学帰りの電車で、拓海の名前を開いた。
自分だけ祝ってもらって、送らないのも変だ。
そう思ったのは本当だし、そう思えることに少しほっとしたのも本当だった。
『誕生日おめでとう。』
『ありがとう。覚えてたんだ。』
笑いそうになって、窓の方を向いた。
『まあね。』
拓海から、雑に手を振るスタンプが返ってきた。
翌年も、十月十二日にメッセージが来た。
私も十二月七日に送った。
二十歳になった冬、成人式のあとの集まりで一度顔を合わせている。
同級生が十数人集まった居酒屋で、拓海は私から離れた席にいた。帰りに『大学どう?』と聞かれて、『課題多い』と答えた。誰かが写真を撮ろうと呼んで、それ以上は話さなかった。
帰宅してから、今日は楽しかったね、と送ることもできた。
でも、送らなかった。
拓海からも来なかった。
大学では、同じゼミの人と半年ほど付き合った。
会える日が楽しみだったし、別れたあとは、しばらくその人の好きだった店に入れなかった。
その人の誕生日には、一緒にケーキを食べた。プレゼントを選ぶのにも、ずいぶん迷った。
二十二歳の十月には、就職先の話をした。
『就職決まった?』
『決まった。信用金庫。そっちは?』
『俺も決まった。医薬品の卸。』
『そっちで働くの?』
『うん。』
『そっか。お互いよかったね。』
どこの会社、とまでは聞かなかった。
春になって、ちゃんと入社した、と連絡することもなかった。
二十四歳の誕生日は、ひどく短かった。
『誕生日おめでとう。』
『ありがとう。』
それで終わった。
十二月に私から送ったときも、同じだった。
彼女がいるのかな。
夕飯を食べながら、そんなことを考えた。
聞こうとは思わなかった。好きな人がいても当然の歳だし、私だって、拓海に恋人ができるたび報告してもらう立場ではない。
二十六歳の誕生日には、私の方が短くした。
付き合っている人と食事に出ていて、帰宅してからお礼を一通送った。
十二月のメッセージも挨拶だけにした。
その人とは一年ほど付き合った。
将来どこに住むか、どんな暮らしをしたいか。話すたび、どちらかがかなり譲らなければならなかった。
最後まで意地悪をされたわけではない。別れると決めた日に、借りていた本を返した。向こうも私の傘を持ってきた。
何も悪いことがなくても、終わることがあるのだと知った。
そして去年。
『二十八、おめでとう。』
『ありがとう。あと二年で三十だよ。』
『俺もあとで行く。』
『毎年二か月遅れるよね。』
『それはどうにもならない。』
どちらかに恋人がいる年も、いない年も、誕生日の挨拶は来た。
話が少し続くこともあれば、一往復で終わることもあった。
それ以外の日に、送ろうか迷ったことはある。
地元の駅が改装されたときや、高校の担任が退職すると聞いたとき。
大学時代には、拓海と見に行った映画の続編が出たこともあった。
送る文面は考えた。
でも、急にどうしたの、と返ってきたら、なんと答えればいいか分からなかった。
別に、と答えるのも、話したかった、と答えるのも嫌だった。
誕生日なら、そういう説明はいらなかった。
*
スマートフォンが、手の中で震えた。
『このまま毎年おめでとうだけ言ってても、何も知らないままだなと思って。』
少し経って、もう一通。
『今、どんな生活してるかとか。』
時計は十一時四十三分になっていた。
『私も知らない。』
送ってから、冷蔵庫の中のケーキを思い出した。
拓海は、私が今日誰と食事をしたか知らない。
昼に会った友人は拓海の知らない人だし、今住んでいる部屋にも、高校時代のものはほとんどない。
『まだ、そっちに住んでると思ってる。』
県外の大学に行って、そのまま県外で就職した。
私が知っている拓海の住所は、それで止まっている。
『俺も、千尋は実家だと思ってた。』
『一人暮らしだよ。五年くらい。』
『そうなんだ。』
その返事を見て、ため息が出た。
五年も知らなかった。
五年も言わなかった。
『結婚するのかと思った。』
打ってから、さっきは聞けなかったのに、と思った。
『しない。相手もいない。』
『そうなんだ。』
私も同じ返事を送っていた。
『もう遅いし、寝ようか。』
拓海から届いた。
私は『うん』と答えた。
『おやすみ。』
『おやすみ。』
最後にするかどうかは、決まらないままだった。
歯を磨いて、明日の天気を見て、充電器を挿した。
眠る前に一度だけ画面をつけると、十二時を過ぎていた。
*
翌朝は、目覚ましより先に起きた。
十月十三日。私は休みで、洗濯を二回するつもりだった。
洗濯機に服を入れてから、スマートフォンを持って座った。
拓海との画面には、昨夜のおやすみが二つ並んでいる。
今日は、私の誕生日ではない。
拓海の誕生日でもない。
入力欄を押した。
『今日、会えない?』
送って、洗濯機の開始ボタンを押しに行った。
洗剤を入れていなかったので、戻って入れた。
台所で食パンを焼いていると、返信が来た。
『会える。』
『どこいるの?』
『南川市。』
焼き上がったパンが跳ねた。
南川市。
私が住んでいる桜岡市から、電車で三十六分の街だった。
『今、帰省中?』
『住んでる。去年の春に異動した。』
『私、桜岡なんだけど。』
『え、近い。』
『近いよ。』
私はパンを皿に移し、バターを塗った。
この一年半、拓海は電車一本で会える場所にいたらしい。
『全然知らなかった。』
『言ってなかったな。』
だいぶ大きな近況報告を、一つ忘れていたような返事だった。
思わず笑って、パンの端をかじった。
昼過ぎ、桜岡駅の西口で待ち合わせることになった。
駅前にはカフェが何軒かある。どこかに入ればいい、という程度しか決めなかった。
服を選ぶのに、洗濯より時間がかかった。
最初に着たワンピースを脱ぎ、いつものパンツにした。いつもすぎる気がして、ブラウスだけ替えた。
玄関を出る直前、鏡の中の自分に、何してるんだろう、と思った。
けれど、もう一度着替えに戻るのはやめた。
*
拓海は、駅の柱のそばに立っていた。
紺色のシャツに、薄いグレーの上着。髪が短くなっていた。
高校時代はいつも前髪を気にしていたのに、今は額が見えている。知らない男の人みたいで、声をかける前に一度足が止まった。
向こうが気づいて、手を上げた。
「千尋?」
「うん。久しぶり」
「久しぶり」
声も少し低くなった気がした。
私が近づくと、拓海は背中を柱から離した。
「髪、そんな短かったっけ」
「高校のとき? もっと長かったよ」
私は肩に届かない髪の先を触った。
「切ったんだ」
「一昨年からね。拓海も短い」
「朝、楽だから」
「それは分かる」
それだけ話して、二人とも黙った。
「とりあえず、何か飲もうか」
私が言うと、拓海は駅前の通りを見た。
「あの店でいい?」
「いいよ」
入ったのは、仕事帰りに何度か寄ったカフェだった。
窓際の席が一つ空いていたので、向かい合って座った。
私はカフェラテ、拓海はホットの紅茶を頼んだ。
「コーヒーじゃないんだ」
「最近、午後に飲むと眠れなくて」
「そんな理由?」
「けっこう大事な理由」
笑うときに片方だけ目が細くなるのは、覚えていた。
でも、その目尻には知らない線があった。
「二十九って、どんな感じ?」
拓海に聞かれ、私は少し考えた。
「昨日からだから、まだ分かんない。拓海も、あと二か月で分かるよ」
「俺はもうちょっと二十八でいる」
「いていいけど、すぐだよ」
「仕事、医薬品だったよね」
「卸ね。物流の方」
「倉庫?」
「うん。入荷とか出荷とか、人の配置とか。予定どおり終わらせる係、みたいな」
「終わる?」
「予定が甘かった日には終わらない」
拓海は苦笑した。
「千尋は、信用金庫だよな」
「事務。今は本部だから、窓口には出てないよ」
「じゃあ、お客さんと話す仕事じゃないのか」
「支店から電話は来る。確認とか、書類のこととか。地味に同じこと聞かれる日もある」
「それ、答える方も大変だな」
「たまに私の説明が悪かったんだなって、三回目くらいで気づく」
拓海が、声を出して笑った。
高校時代より、笑う前の間が短かった。
「一人暮らしは、就職してから?」
「異動したとき。地元から通うとちょっと遠いから。駅の反対側に住んでる」
「俺は南川の東口。駅から十五分くらい」
「車は?」
「ある。会社が駅から遠い」
勤務先のある場所を聞いて、私は驚いた。
仕事でやり取りする支店が近くにあった。
「そこ、先月行った」
「ほんとに?」
「会議。車で行ったから駅は通らなかったけど」
「俺、普通に働いてたと思う」
そのあと、お互いの最寄りのスーパーを比べた。
拓海の住む街の方が、家賃が少し安いらしい。代わりに、夜遅くなると食事のできる店が減ると言った。
私がいつも買い物をする店も、拓海には知らない店だった。
高校時代、途中まで一緒に歩いた帰り道を、どちらも今は使っていない。
「変な感じ」
「何が?」
「毎年連絡してるから、知ってる人だと思ってた」
拓海は紅茶のカップを持ち上げ、飲まずに置いた。
「俺も」
「私が実家を出たの、二十四のときだよ」
「五年前か」
「あの年、ちょっと忙しくて。引っ越しとか、慣れない仕事とか」
「そうだったんだ」
「返信、すごく短かったでしょ。拓海の」
言ってから、少し踏み込みすぎたかなと思った。
拓海は斜め上を見て、考えている。
「二十四って、千尋が二十四になった年?」
「うん」
「ああ。彼女いた」
「やっぱり」
「分かってた?」
「そうなのかなって思っただけ。仕事忙しいのかもしれないし」
「仕事も忙しかったけど。あんまり長く話すのもなって」
私はうなずいた。
それは自分にも覚えがある。
「千尋も、二十六のとき短かった」
「いたよ」
「やっぱり」
拓海が同じ言い方をしたので、笑ってしまった。
「それも覚えてるの?」
「その年、俺の誕生日、ケーキのスタンプだけだったから」
「文章打つのが面倒だったわけじゃないよ」
「そこまでは疑ってない」
カフェラテの泡は、ほとんど消えていた。
私はカップを両手で持った。
「結婚するつもりだった?」
「社会人になってからの人とは、考えたことはあった。千尋は?」
「私も。話したけど、うまく決まらなくて」
「そっか」
「いい人だったんだけどね」
拓海はうなずいた。
自分の元恋人について、何か悪く言うこともなかった。
私は、別れた日のことをもう少し話すか迷って、やめた。
今日は、目の前の人の話が聞きたかった。
「大学のときも付き合った?」
「一人。千尋は?」
「私も、一人」
「ちゃんと大学生だったな」
「ちゃんとって何」
「いや、俺が知らないところで」
「当たり前じゃん」
笑ってから、私はふと十九歳のときの返事を思い出した。
「一限つらいって送ったの、覚えてる?」
「最初?」
「そう。あれ、乗り換え間違えて遅刻した日だった」
「寝坊じゃないのか」
「朝起きるのはできてたよ。反対の電車に乗った」
「そっちの方が深刻じゃない?」
「一年生だったから。拓海も、朝ご飯作れないって言ってた」
「あの頃は、パン買って終わり。今は食べる」
「何を?」
「ご飯と納豆と、あれば味噌汁」
「ちゃんとしてる」
「作るときは、何日か同じ味噌汁だけど」
いつ作るの、何を入れるの、と聞いていたら、拓海が笑った。
「朝飯の話、こんなにする?」
「どんな生活してるか、知らないから」
「確かに」
少し気が楽になって、私は椅子に座り直した。
会う前に想像した拓海は、制服を着ていたり、大学生だったりした。
向かいにいる人は、出荷の予定を立てて、味噌汁を温めて、眠れなくなるから紅茶を選ぶ人だった。
「今、付き合ってる人は?」
拓海が聞いた。
「いないよ。拓海は昨日聞いたけど」
「うん、いない」
私はカップに視線を落とした。
拓海は指先で、紙のおしぼりの袋を畳んでいた。
「昨日の、あれ」
顔を上げると、拓海もこっちを見た。
「最後にするってやつ?」
「うん。何も知らないって思ったなら、聞けばよかったんじゃない?」
「そうなんだよな」
あっさり認められて、少し拍子抜けした。
「なんで最後になったの?」
「昨日、文章打って、何回か消して。久しぶり、も変だし。毎年送ってるのに」
「それは分かる」
「いつまでこうやって送るんだろうって思った。千尋が結婚しても同じの送って、ありがとうって来て、それだけなのかって」
拓海は、畳みすぎた袋を指で広げた。
「大事な友達なんだったら、もうちょっと話しててもいいはずだろ。なのに、誕生日終わると、送ることなくなる」
「送ることがない、っていうか」
「送れなくなる」
「うん」
「これ、千尋に返事もらうために続けてるだけなのかなって。それも嫌で。やめようと思ったんだけど」
そこで一度、言葉が切れた。
「やめるって送る時点で、返事待ってるんだよな」
私は少し笑った。
拓海も、困った顔で笑った。
「なんで、って聞かれて焦った」
「そっか、って打ったよ。一回」
「それ来てたら、終わってたかも」
「十年やったし、って来るとは思わなかった」
「あれは、ごめん」
ちゃんと私の方を見て言ったので、私は『いいよ』と返した。
「でも、なんで毎年送ってたんだろうね」
「千尋は?」
「拓海が送ってくるから」
「俺の誕生日は?」
「私だけ祝われるの変じゃん」
「それで十年?」
「……十年」
口にすると、二人で同じことをずいぶん長くしていた。
「十二月って、店で手帳売ってるでしょ」
「うん」
「新しいの買うと、七日を見てた。まだ先だなって」
「カレンダーに入れてた?」
「入れてない。覚えてたから」
拓海は、しばらく黙っていた。
「俺、十月になるとケーキ屋の前で思い出してた」
「誕生日に?」
「その前から。もうすぐだなって」
私は、カップの持ち手に指を通した。
持ち上げても、もう一口分しか入っていなかった。
「その話、一回もしてないね」
「今した」
「うん」
店の奥で、食器が重なる音がした。
窓の外に目をやると、さっきまでの日なたが細くなっていた。
拓海は腕時計を見て、私に聞いた。
「このあと、用事ある?」
「洗濯物、取り込むくらい」
「生活だな」
「拓海は?」
「明日の弁当、作るくらい」
「そっちもじゃん」
会計は別々にした。
店の前で拓海が上着を羽織るのを待ち、二人で駅まで歩いた。
「高校のとき、一回映画行ったよね」
私が言うと、拓海は少し眉を上げた。
「あの、最後が分かりにくいやつ」
「そう。帰りにずっと説明してくれた」
「俺も本当は半分くらい分かってなかった」
「え、今言う?」
「今なら言える」
私が呆れた顔をすると、拓海は笑った。
高校三年の夏。見たい映画が同じだったから、一緒に行った。
帰りのファミレスで何を食べたかは、もう覚えていない。
ただ、誘うときにずいぶん緊張したことは覚えていた。
駅には、もう拓海の乗る電車の案内が出ていた。
「今日、ありがとう。急に誘って」
「俺こそ。変なの送ってごめん」
「ちゃんと話せたから、いい」
改札の手前で足を止めた。
拓海は、まだ財布を出さなかった。
「じゃあ、今年で最後っていうのは」
「うん」
私がうなずくと、拓海の口が少し開いた。
「誕生日だけに送るのは、最後でいいよ」
開きかけた口が閉じた。
私はかばんの紐を持ち直した。
「今度から普通の日に送るから」
「俺から送ってもいい?」
「誕生日じゃなくても?」
「うん」
「いいよ」
拓海はうなずいて、ようやく財布を出した。
「洗濯物、忘れないように」
「そっちもお弁当ね」
改札を通った拓海が、一度振り返って手を上げた。
私も上げた。
帰宅して、洗濯物を取り込んだ。
畳む前にスマートフォンが鳴った。
『着いた。意外と近かった。』
『三十六分だからね。』
『洗濯物は?』
取り込んだ服の山を写真に撮って送った。
『今からやる。』
拓海から笑っているスタンプが来た。
十九歳のときに見たものとは、違うスタンプだった。
*
水曜日、仕事帰り、ホームで電車を待っていると、拓海から初めて誕生日でも休日でもない連絡が来た。
『そっち、雨降ってる?』
ホームの屋根を叩く雨を見て、私は答えた。
『かなり。』
『傘忘れた。』
『車通勤じゃなかった?』
『駐車場までが遠い。』
私はかばんから折り畳み傘を出した。
拓海が車まで走る姿を想像して、雨脚の強さをもう一度見た。
『もう少し待ったら?』
『待つ。今週の土曜、空いてる?』
読み返してから、電車の扉を見た。
雨の話のあとに、普通に次の予定が来ていた。
『夕方なら。』
『ご飯行かない?』
『行く。』
その土曜日、南川駅の近くで食事をした。
拓海が選んだ定食屋は、テーブル同士が近くて、隣の人の生姜焼きまでおいしそうに見える店だった。
「嫌いなものある?」
メニューを渡しながら、拓海が聞いた。
「特には。拓海、辛いの食べられるようになった?」
「普通に食べる」
「高校のとき、学食のカレーで水ばっかり飲んでなかった?」
「それはもういいだろ」
その日のおすすめには、麻婆豆腐があった。
拓海は迷わず注文した。
私は鯖の塩焼きにした。
「魚、焼く?」
「家では焼かない。あとが面倒だから」
「分かる」
「拓海は、弁当作るんだもんね」
「作るって言っても、昨日の残りとか冷凍のやつ。そんなにちゃんとしてない」
「この前、何作ったの?」
「卵焼きと、鶏肉。ちょっと焦げた」
写真を見せてもらった。
確かに、鶏肉の端が黒い。
白いご飯の脇には、大きな卵焼きが二切れ入っていた。
「卵焼き、甘い?」
「甘い。千尋は?」
「甘くない方」
「そこ合わないな」
「二種類作ればよくない?」
口にしてから、私はメニューを閉じた。
家の卵焼きを一緒に決めているようで、ちょっと変だった。
拓海は写真を引っ込めて、うなずいた。
「面倒じゃなければ、それでいいか」
生姜焼きの匂いがしてきて、私たちは隣のテーブルを見た。
二人とも同じことをしていて、今度は笑った。
食後、拓海は会計の伝票を見て言った。
「今日、俺が誘ったから出すよ」
「じゃあ、次は私が出す」
「うん」
次がある、と決まっただけで、駅までの道が短く感じた。
改札の前で、私は思い出して聞いた。
「結局、あの日、雨止んだ?」
「十分くらい待ったら弱くなった。走らず済んだ」
「よかった」
「千尋は濡れなかった?」
「靴下だけ。靴、間違えた」
拓海は私の足元を見た。
今日は、天気予報を見てから靴を選んでいた。
「そっちは、教えてくれればよかったのに」
「靴下濡れたって?」
「うん。別に直せはしないけど」
それくらい送ってもよかったらしい。
帰りの電車で、次は店を選んでおく、とメッセージを送った。
十月の終わり、私たちは初めて電話をした。
会う予定を相談していたとき、拓海から『ちょっと電話していい?』と聞かれた。
私は洗い物を終え、テレビを消してから『いいよ』と返した。
「文字打つの面倒になった」
第一声がそれだったので、笑った。
「先にそれ言う?」
「ごめん。手が冷たくて」
「外?」
「家。まだ暖房つけるの早いかなって」
「つけなよ」
リモコンを探す音がした。
私もソファに移って、膝にブランケットを掛けた。
日曜日に会う時間を決め、夕飯の話をした。
拓海はもう食べていた。私はこれからで、冷凍していたご飯を温めるつもりだった。
「仕事、遅かった?」
「今日はちょっと。確認する書類、多くて」
「月末だから?」
「うん。それで、もう何年もいるのに、同じところで間違えた」
言ってから、私はブランケットの端を指でつまんだ。
誰かに話すほどのことでもない。自分で気づいて直せたし、仕事としては終わっている。
それでも、家に帰ってからまで思い出していた。
「直った?」
「直った。自分で見つけたから、誰にも迷惑はかけてない」
「なら、確認した意味あったじゃん」
「そうなんだけど。七年目でこれか、って」
拓海はすぐに、大丈夫とは言わなかった。
少し間があってから、静かに言った。
「またやるかもって思って、俺は二回見る。同じところでやるから」
「二回見ても間違える日、あるよね」
「ある。三回目は、できれば別の人に見てもらう」
「その方がいいよね」
息を吐いて、私はソファの背にもたれた。
拓海の声が、カフェにいたときより近くに聞こえた。
「そっちは、仕事どうだった?」
「今日は俺も、ちょっと駄目だった」
「何が?」
「予定、詰めすぎた。終わらせたくて、人を何回も動かして。かえって遅くなった」
拓海の話は、聞けば聞くほど、本人も分かっていたようだった。
その場で判断したことを、あとから一つずつ言い直していた。
「忙しかったんでしょ」
「うん。でもそれ、俺の予定で忙しくしてたのもあるから」
「明日、言える?」
「何を?」
「昨日はごめんって。私、言うなら早い方が少し楽」
拓海が低く、うん、と答えた。
「言う。今日は、終わったあとも気まずくて」
「分かる。声かけそびれるよね」
「そうなんだよ」
少しして、ご飯を食べて、と言われた。
私はまだ電子レンジの扉も開けていなかった。
「拓海は暖房ついた?」
「ついた。部屋、冷えてた」
「お互い、先にそっちやればよかったね」
「うん。また電話する」
「私からしてもいい?」
「もちろん」
電話を切ってから、スマートフォンを台所に持っていった。
ご飯を温めている間に、拓海から『明日、言うよ』と来た。
『うん。今、ご飯温めてる。』
翌日の夜には、『朝、言った』と届いた。
私は『おつかれさま』と返した。
十一月になった。
駅の反対側にある店を見つけて、拓海との画面を開いた。
『今度、ここ行かない?』
店の案内を貼りつけ、送る前に止まった。
誕生日のお返しは、この前の食事で済んでいる。電話で聞いた仕事のことも、もう返事をもらった。
今度は、何かの続きだから会うのではない。
ただ、会いたかった。
拓海にも同じくらい会いたいと思っていてほしくて、急に送るのが怖くなった。
入力欄を閉じた。
冷蔵庫を開け、夕飯に使う卵を取り出した。二つ残っているのを見て、拓海は甘い卵焼きにするんだろうなと思った。
そんなことを考えるなら、聞けばいい。
スマートフォンへ戻り、さっきの文を送った。
もう一通、続けた。
『また会って話したい。土曜、空いてる?』
卵を割っている間に、通知が鳴った。
『空いてる。俺も会いたかった。夕方でいい?』
私は画面を読んでから、ボウルに目を戻した。
殻が一つ落ちていた。箸で拾い、火をつける前に返事をした。
『いいよ。楽しみ。』
土曜日、少し早く着いたので席を取ったら、メニューに見覚えのない魚の名前が並んでいた。
スマートフォンで調べているところに、拓海が来た。
「どれ、食べたいの?」
「今、どういう魚か調べてる。知ってる?」
「知らない。店の人に聞く?」
「聞けばよかった」
結局、店員さんにおすすめを教えてもらった。
私は焼き魚、拓海は煮つけを頼んだ。
私は拓海の予定を、少しずつ知っていた。
月曜日は帰りが遅くなりやすいこと。休日の朝でも、平日と同じくらいに目が覚めること。家で映画を見ると、途中で止めて飲み物を足すこと。
拓海も、私が土曜日にまとめて掃除をすることや、昼休みにはできれば一人で外へ出たいことを知った。
返事が来るのは何時頃になりそうか、少し分かるようになっていた。
メッセージの履歴を読み返すより、目の前で返ってくる言葉の方がおもしろかった。
拓海は、人と話す仕事が増えてから、以前より話すようになったと言った。
「前は、話さなくても周りが勝手にやってくれたから」
「今は?」
「何も言わないと、何も伝わらない」
「それ、今気づいたの?」
「二十代の前半くらいには、一応」
「なのに、あのメッセージ?」
拓海が箸を止めた。
「仕事と同じにできてたら、あんなの送ってない」
「そうだよね」
私は笑って、それ以上からかわなかった。
私だって、拓海に誕生日以外の連絡をするまで、十年かかった。
次の休日、二人で映画を見た。
今度はどちらも結末が分かった。上映後、拓海は感想を尋ねてから、自分とは違うところがおもしろかったと笑った。
歩きながら、私は来週も一緒に何か食べたいと思っていた。
たぶん映画がなくても、休みが合うなら会いたい。
駅前のパン屋で、拓海は翌朝の分を買った。
私も一つ選んだ。
紙袋を受け取った拓海が先に店を出て、開けた扉を押さえてくれた。
「ありがと」
「うん」
その横を通るとき、袖が触れた。
思わず少し距離を取って、紙袋を持ち直した。
隣を歩くことには、もう慣れていた。
でも、手が触れそうになると、歩く速さを考えてしまった。
*
十一月の二度目の日曜日。
夕飯を食べた帰り、拓海はまだ駅へ向かいたくなさそうだった。
「時間、大丈夫?」
「大丈夫だけど」
「少し歩かない?」
店の前から駅までは、十五分くらいあった。
私はうなずいた。
「今日、送らなくても、ちゃんと電車で帰れるよ」
「そうじゃなくて」
拓海は、一度口をつぐんだ。
私は立ち止まらず、少しゆっくり歩いた。
通り沿いの店に、クリスマスの飾りが出ていた。まだ十一月なのに、と言おうとして、やめた。
「高校のときさ」
「うん」
「俺、千尋のこと好きだった」
私は、握っていたかばんの紐を少し緩めた。
拓海は前を向いたまま、言葉を続けた。
「今さらだけど。映画行ったときも、誘ってくれて嬉しかった」
「私も、好きだったよ」
言うと、拓海が私を見た。
その顔に、私は笑いそうになった。
「付き合ってるの、って聞かれるたび、違うって言ったけど」
「あれ、言うよな」
「拓海も言ってた」
「俺は、千尋に違うって言われるのが嫌で、先に言ってた」
「私もだよ」
しばらく、靴音だけになった。
高校三年の秋、拓海が県外の大学の名前を挙げるたび、私は県内に残ると答えた。
遠くに行きたい人に、好きだなんて言っても困らせる気がした。
でも、言われたら嬉しいかどうかを、私は本人に聞いていない。
「受験があるし、卒業したら遠いしって、言わない理由にしてた」
拓海が、私の考えていたことを口にした。
「私も。今言わない方がいいよねって」
「振られたくなかっただけだと思う」
「うん。私も、それが一番大きかった」
拓海が、小さく息を吐いた。
「相手が先に言ってくれれば、って思ってた」
「どっちも待ってたんだね」
卒業式の日、友達が撮ってくれた写真を思い出した。
高瀬、もうちょっとそっち、と言われて寄った。
二人で並んだ一枚は、肩の間が少し空いていた。
また連絡する、と言われて、うん、と答えた。
あの日の話を、今ならできる。
それが嬉しかった。でも、それだけなら、懐かしかったね、と言って駅で別れられたと思う。
信号で止まった。
拓海は、向かい側を見てから私を見た。
「それで、今、好きなんだけど」
声が急に小さくなった。
「昔の話のついでみたいになった。違うんだけど」
「うん」
「俺、高校のときは、千尋はあんまり失敗しない人だと思ってた」
「そんなことなかったよ」
「そうなんだよな。今も間違えるし、困るし、魚の名前も知らないし」
「それ、告白に入れる?」
「ごめん。うまく言えない」
信号が青になった。
並んで渡ると、拓海はかばんを肩に掛け直した。
「電話したとき、聞いてもらえて助かった。俺が悪かったって言っても、全部否定しないでさ。次の日も、普通に返してくれて」
「拓海も、普通に聞いてくれたよ」
「うん。そういうのが、よかった」
拓海は一度、唇を結んだ。
「朝ご飯の話してても楽しいし、千尋が選ぶ店も行きたい。次、いつ会えるかなって、仕事中も考える」
私は足を止めた。
拓海も、半歩先で止まった。
「昔好きだっただけなら、今、ここで言わなくてもいいと思う。でも、また言わないで帰るのは嫌で」
拓海が、こっちを向いた。
「付き合ってほしい」
私はうなずきかけて、口を開いた。
「私も、今の拓海が好きだよ」
声に出してから、もう少し言いたくなった。
「今週、仕事で嫌なことあった日、電話していいかなって一番に考えた。時間遅かったから、しなかったけど」
「してよ」
「寝てたかもしれないでしょ」
「寝てたら、起きてから返す」
そういう返事が、今は聞ける。
「あと、お弁当の写真も、また見たい」
「焦げてないときのにする」
「焦げててもいいよ」
拓海は笑ってから、私をじっと見た。
「それ、返事は」
「うん。付き合いたい」
「よかった」
拓海が肩を下げた。
そんなに力が入っていたんだ、と気づいて、私もかばんを持ち直した。
「千尋、手、つないでもいい?」
「いいよ」
差し出された手に、私は自分の手を重ねた。
指先は冷たかった。握り直すと、拓海も少し力を入れた。
駅の方へ歩き出した。
今までより、拓海との距離が近い。
「来週も、会える?」
「土曜日なら」
「じゃあ、土曜」
私はうなずいた。
改札まで、つないだ手を離す必要のない方へ、かばんを持ち替えた。
*
十二月七日の朝。
『おはよう。』
私が送ると、少しして拓海からも『おはよう』と返ってきた。
『何か忘れてない?』
『夜言う。』
『今言ってもよくない?』
『直接言いたい。』
既読がついて、すぐに返事が来た。
『じゃあ、夜待ってる。』
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
化粧を終えて、薄い方のコートを選びかけ、窓の曇りを見て厚い方にした。
拓海と付き合い始めて、もうすぐ一か月になる。
先週は、仕事で会う予定が変わった。拓海から早めに連絡が来て、別の日にした。
会える日は会って、会えない日は電話をしたり、しなかったりした。
今日も、夕飯の約束をしている。
仕事帰り、駅のロッカーから紙袋を出した。
中には、拓海の新しい弁当箱が入っている。
以前見せてもらったものは、留め具が一つ欠けていた。まだ使える、と言うので、そろそろ替えなよ、と私が言った。
欲しいならどのくらいの大きさか聞いて、先週二人で売り場を見た。
何が好きなのか分からなくて、無難なものを探す必要はなかった。
店に着くと、拓海は先に来ていた。
前に私が選んだ魚の店だった。
窓際の席から、入口の私に手を上げた。
「寒かった?」
「ちょっと。遅くなってごめん」
「俺も今来たところ」
コートを脱いで、向かいに座った。
拓海の前に置かれたメニューには、今日のおすすめの紙が挟まっていた。
「もう決めた?」
「まだ。千尋は?」
「先に、これ」
紙袋を渡すと、拓海は両手で受け取った。
「ありがとう。開けていい?」
「いいよ。分かってると思うけど」
包みの端を指で探して、拓海が顔を上げた。
「これで鶏肉焦がしても、写真撮れるな」
「できれば焦がさないで」
拓海が笑った。
私も笑って、水を一口飲んだ。
午前中、仕事の合間に、なんと言おうか少し考えていた。
二十九歳だね、とか、私に追いついたね、とか。
でも、顔を見たら、言いたいのは一つだった。
「拓海」
「ん?」
包みを膝に置いた拓海と、目が合った。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
拓海が、いつもの少し片目を細める笑い方をした。
私はメニューを開いて、彼の方に寄せた。
「何、食べようか」
~完~




