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アンチテンプレの棚

ガルガル期

作者: 埴輪庭
掲載日:2026/09/15

 ◆◆◆


『大ウクライナ百科事典というサイトがある。ウクライナの事ならなんでも載ってるサイトだ。それによれば、ウクライナの錫埋蔵量は0だ。生産実績もない』──などというクソつまらない文章をつらつら書いたところで、長谷川 浩二はキーボードから指を離し、ふう、と一つ溜息をついた。


 なんとなく椅子をぐるりと回し、「やっぱり窓でもつければよかったな」などと思う。書斎には窓がなく、壁際の本棚にはみっちりと資料がつまっている。おかげでなにやら狭苦しく感じる。


 仕事部屋に閉じこもっていても、廊下の向こうから微かに赤ん坊のぐずる声が聞こえてきた。かつてはその声に大きな圧を覚えたものだ。失(・)敗(・)す(・)る(・)こ(・)と(・)が(・)とにかく怖かったな、と浩二は苦笑する。


 ちら、とモニターを見ると先ほど書いた文章がテキストエディタに中途のまま放り出されていた。書かれた文章は何の技巧も施されてはおらず、なんだったら稚拙ですらある。しかし浩二はその文章──ウクライナのどうこうというそれを見て満足そうに頷いた。


 ウクライナ? 


 錫の埋蔵量? 


 はっきり言ってそんなものはどうでもいいし、そんなものについて書かれた文章の技術が屑でもカスでも浩二にとってはどうでもよい。人間、どうでもよいモノに対しては寛容になれるのだ。出来に不満が生まれるのは、我慢がならなくなるのはどうでもよくないからである。執着があるからである。ウクライナについてのアレコレについてなど、浩二にとっては心の底からどうでもよい。だからなんとも思わない。


 そう、今の浩二には心の余裕があった。


 数か月前とは大違いだ。


 ・

 ・

 ・


 子どもが生まれてから、もうすぐ三ヶ月になる。


 妻の美穂は、出産を境にまるで別の生き物に生まれ変わってしまったかのようだった。世間で言う「ガルガル期」というやつなのだろう。

 ホルモンバランスの急激な乱れや慢性的な睡眠不足が、母親の精神を著しく変容させることは知識として知っていた。妊娠中に何冊も育児書を読み漁り、頭では十全に理解していたつもりだ。しかし、理屈で分かっていることと、実際にやってどうかというのはまったく別の問題だった。


 浩二は作家だ。一般的な会社員に比べれば家事や育児に割ける時間は圧倒的に多い。決してベストセラー作家というわけではないが、生活に困るほど落ちぶれてもおらず、週に二日は家事代行のヘルパーに来てもらう余裕もあった。恵まれた環境を整えている自負はあったし、浩二自身、できる限りの協力を惜しむつもりは毛頭なかった。


 が、上手くいかなかった。


 浩二の手際は別に悪くはないが、決して良くもない。つまりは完璧ではない。そ(・)こ(・)が美穂にとっては我慢がならなかったようで、どれほどしんどくても、辛くても、自分がやると言って聞かなかったのだ。


 美穂の棘というか、ガルガルな牙が自身に刺さる痛みはまあ仕方ないと受け入れて、次の改善につなげる事は出来る。実際至らない部分があることは間違いないのだし、浩二はその辺を切り分け、俯瞰して視る事は得意だった。そのあたりは職業的な資質がものをいったのかもしれない。


 ただ、お前は必要ないのだとばかりに排除されるのは中々心に来るものがあった。


 ◆◆◆


 昼過ぎ。


 書斎のドアを開けると、廊下の冷たい空気が肌を撫でた。リビングの方から、カチャリと哺乳瓶が触れ合う硬い音が響いてくる。浩二は喉の渇きを潤す名目で、努めて足音を忍ばせながらキッチンへと向かった。


「ねえ、なんで毎回そうやって抜き足差し足で歩くの? 泥棒じゃないんだから普通に歩いてよ。かえって神経に障るんだけど」


 リビングのカウンター越しに、美穂が氷のように冷たい視線を投げて寄越した。抱っこ紐の中でようやく寝息を立て始めた赤ん坊を、彼女は浩二から隠すように背中で庇っている。浩二は息を殺したまま、小さく「ごめん」と唇を動かした。


「謝れば済むと思ってない? それ、反省してない人の典型的な反応だからね。本当に赤ちゃんの睡眠サイクルを理解しようとしてる?」


 喉の奥に小骨が刺さったような不快感が広がり、浩二はマグカップを持つ手を止めた。反論など到底許されないことは、ここ数ヶ月で嫌というほど骨身に染みている。何か一言でも言い返せば、十倍の理屈で武装された刃となって返ってくるだけなのだ。


「なんていうかさ、浩二さんはどこか他人事なんだよね。自分の体から生まれたわけじゃないから、痛くも痒くもないんでしょ。作家だかなんだか知らないけど、日中パソコンの前に座っていられる人は気楽で羨ましいわ」


 締め切りのプレッシャーに胃を痛めながら執筆している時間のすべてを、気楽な逃避だと断じられてしまう。浩二は視線を伏せ、シンクに置かれた使用済みの哺乳瓶へと手を伸ばした。せめてこれだけでも洗っておこうと思ったのだが、その指先は途中で制止された。


「触らないでって言ってるでしょ! 浩二さんが洗うと乳首の溝にミルクかすが残るんだってば。何回言わせれば学習するの? これ以上私の仕事を増やさないでよ」


 それは三か月も前の話で、いまはいわゆるち(・)ゃ(・)ん(・)と(・)し(・)た(・)洗(・)い(・)方(・)は出来ているじゃないか──などとは言わない。浩二は乾ききった喉を一度だけ鳴らし、何も言わずに仕事部屋へと引き返した。


 ◇◇◇


 長谷川 美穂はここ最近、陳腐な言い方をすれば自分が自分ではないような気がしてならなかった。


 頭の芯では冷めた自分が「やめなさい」と警告しているのに、口を開けば凶器のような言葉ばかりが飛び出してしまう。仕事部屋へ逃げていく浩二の背中を見送りながら、美穂は奥歯をギリギリと噛みしめた。赤ん坊を抱く腕に無意識に力が入り、小さな寝息が乱れるのを感じてハッと我に返る。とにかく、このままではよくないとは自分でも思うのだ。だから声をかけてみる。


「浩二さん、ちょっといい? まだ話は終わってないんだけど」


 防音ドアが数センチだけ開き、浩二が恐る恐る顔を覗かせた。その眉間に刻まれた困惑と怯えの色を見た瞬間、美穂の胸の内側でどす黒い感情が再び跳ね上がる。どうしてそんな被害者みたいな顔をするのか、まるで自分が理不尽な怪物だと責められているように思えて耐えられなかった。


「どうしたの? まだ何か手伝えることがあった?」


「その『手伝える』って言い方、本当にやめてくれない? 自分の子どもの世話なのに、なんで外野のお手伝いさん気分でいられるわけ? そういう無責任な姿勢が一番腹立つのよ」


 違う、言いたいのはそんなことではない。浩二が仕事の合間を縫って協力を惜しまないでくれていることくらい、痛いほど理解しているはずなのだ。感謝して労わらなければならないと頭では分かっているのに、舌が勝手に最短距離で相手を傷つけるナイフを選び取ってしまう。


「……言葉が悪かったね、ごめん。オムツの確認だけでも代わろうか?」


「触らないでってさっき言ったよね! 浩二さんがやるとテープの留め方が甘くて、おしっこが漏れて肌着まで台無しになるの。赤ちゃんが不快な思いをするのが可哀想だと思わないの?」


「分かった、もう手は出さないよ。美穂、少しでもいいからベッドで横になってきなよ。一時間だけでも眠れば楽になるからさ」


 その穏やかで優しい提案すら、今の美穂の濁ったフィルターを通せば「お前は気が狂っているから隔離されて頭を冷やせ」という宣告に聞こえてしまう。我が子を奪われてしまうという動物的な恐怖が警報のように脳内で鳴り響き、視界が真っ赤に明滅した。全身の血液が逆流するような衝動に突き動かされ、彼女は決定的な言葉を喉から絞り出していた。


「寝られるわけないでしょ! 私が目を離したら、あなたがこの子を殺しちゃうかもしれないのに!」


 取り返しのつかない一線を越えてしまったと気づいた時には遅かった。浩二の顔から完全に温度が抜け落ち、ただ人形のように立ち尽くしている。美穂は自分の喉をかきむしりたいほどの激しい自己嫌悪に襲われ、膝ががくがくと震え出した。


「違うの、浩二さん……今の、本気で言ったわけじゃないの。私、どうかしちゃってて……ごめんなさい」


「……大丈夫だよ。美穂が一番疲れてるんだから、気にしないで」


「大丈夫なわけないじゃない! なんで怒らないのよ、殴るなり怒鳴るなりしてよ! そんな仏様みたいな顔されたら、私だけが異常者みたいじゃない!」


 泣き叫びながらも、内側の冷徹な美穂が「狂っているのは紛れもなくお前だ」と嘲笑っていた。我が子を守りたいという純粋な母性は、いつの間にか最も身近な味方を血祭りにあげる化け物へと成り果てている。彼女は我が子を抱いたままその場にへたり込み、乾ききった喉の奥で、出口のない嗚咽を押し殺した。


 ◆◆◆


 浩二はここ最近の生活で大分メンタルをやられていた。ただ、それで被害者ぶれるようならまだ楽だったのだが、浩二にはそれはできない。


 美穂の様子が狷介なのは、愛情の有無の問題ではなくホルモンだかなんだかの問題で、これは本人に制御できる問題ではない──と理解しているからだ。


 だから平気ではないにしても耐えられる。


 しんどかろうがなんだろうが、理由をつけて自分を多少なり自分を納得させる事が出来る。納得は大事だ。納得感があれば人間大抵のことは我慢できるのだ。それに、しんどいだとか辛いとか寂しいだとか。そんな事を美穂に言ってどうするのかという想いもあった。辛いで言うなら美穂のほうがずっと辛いのだし、そんな相手に自分の気持ちを慮ってほしいなどとは、浩二には口が裂けても言えない。


 ただ、浩(・)二(・)の(・)中(・)の(・)浩(・)二(・)は、こう囁いている。遅(・)か(・)れ(・)早(・)か(・)れ(・)だぞ、と。


 それが良くない事だとは理屈ではわかっている。しかしそれもまた、美穂のそれと同じように制御できるような事ではなかったし、なにより浩二にもも(・)は(・)や(・)制御する気は毛頭なかった。


 ◇◆◇


 あれから奇妙なほど、浩二の態度は柔らかく変わっていった。以前のようなおどおどした気遣いや、腫れ物に触るような卑屈さは、きれいに削ぎ落とされている。朝のリビングに現れる彼の足取りには、かすかな軽快さすら漂っていた。


「浩二さん、トースト焼けたけど食べる?」


「ありがとう、美穂。ちょうどお腹が空いてたんだ」


 カウンターに置かれた皿を受け取る仕草にも、かつての硬直は見られなかった。彼は美穂の顔を見て、穏やかに笑いかけてみせる。


「あ、マグカップの置き場所、そこだと手が当たって危ないかも」


「おっと、ごめんごめん。危うく大惨事になるところだったね」


 美穂の細かな指摘に対しても、浩二は嫌味なく屈託のない笑みを浮かべて位置を直した。以前なら「ごめん」と縮こまっていたはずの場面で、彼は少しも怯む気配を見せない。そのあっけらかんとした物腰に、美穂の胸を常に覆っていた鋭い棘が、音を立てずに削り取られていった。


「……なんか、最近ちょっと雰囲気変わった?」


「そうかな。少し要領が掴めてきたのかもしれないよ」


「それならいいんだけど。前は本当に、私のほうがどうかしてたから」


「美穂のせいじゃないよ。誰だって初めての育児は余裕がなくなるものさ」


 流れるようなその言葉に、美穂は深く息を吐き出し、胸の奥に灯る確かな温もりを感じていた。一時はこの家ごと崩壊してしまうのではないかと怯えていたが、どうやら最悪の時期は脱したらしい。この調子で互いに歩み寄っていければ、きっと三人で温かい家庭を築いていけるはずだと、美穂は久しぶりに未来への希望を信じ始めていた。


「美穂、顔色があまり良くないよ。今のうちに少し昼寝しておいで」


「でも、そろそろ次の授乳の準備もしなきゃいけないし……」


「ミルクの計量ならもう完璧に覚えたよ。あの子のことは任せて少しお昼寝でもしたらいいと思うよ」


「じゃあ……甘えちゃうね」


「うん、二時間くらいしたら起こすね」


 浩二に背中を優しく押され、美穂は吸い込まれるように寝室へと入っていった。ドアが閉まるのを見届けると、浩二はリビングへ戻り、寝息を立てる赤ん坊の腹をリズミカルにトントンと叩く。ぐずりかけた小さな体を揺りかごに預け、彼はダイニングテーブルの上のノートパソコンを開いて原稿に指を滑らせた。


「よし、ここまで書けば形にはなるな」


 誰に聞かせるでもない呟きをこぼし、浩二はポケットからスマートフォンを取り出した。担当編集者へ原稿の進捗と次回作のプロットについて短いメールを打ち、送信ボタンを押す。


「……容量がありません、か」


 画面の隅に表示された赤い警告アイコンに、彼は小さく片眉を上げた。近いうちに新しい機種へ買い替えなければならないなと思いつつ、動作を軽くするために写真フォルダを開く。そして機械的な手つきで、家族三人で撮った退院記念の写真や、産声をあげる我が子の短い動画を、ゴミ箱アイコンへと迷いなく放り込んでいった。

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― 新着の感想 ―
奥さん凄すぎガルガル期ってやつがあったとしても全方位に警戒して旦那さんにキレ散らかしている、旦那さん静かに奥さんと子供を切っている。
こういった続きが気になる、空白を残した小説好き。
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