第7章 夕暮れにほどける擬態、こぼれる熱
昼休みが終わり、オフィスは再び“仕事の顔”に戻っていた。
けれど、みつきの胸の奥はまだ昼休みの熱を抱えたままだった。
(……黒瀬さん、あんなに振付の話してくれるなんて)
サビ前の一拍の話。“月光の吸い込み”という謎の比喩。そして、ひよりの手の角度の話で二人同時にテンションが上がった瞬間。
(……やばい。完全にオタクの顔してた)
頬が熱くなる。
午後の資料作成に取りかかろうとするが、頭の中ではひよりの振付がぐるぐる回っていた。
(あのターン……描きたい……)
気づけば、資料の余白にペンが走っていた。
ひよりのターンのラフスケッチ。
(やばいやばいやばい!!仕事中に何描いてるの私!!)
慌てて手で隠した瞬間――
「朝倉さん、これ確認お願いできます?」
(ぎゃああああああああああああああ)
「は、はいっ……!」
同僚の視線が紙の上をかすめる。
(見られた!?見られてない!?いや絶対見られてないであってほしい!!)
心臓が跳ねる。
黒瀬は黒瀬で、昼休みの余韻が抜けていなかった。
(……朝倉さん、振付の話になると急に早口になるんだな)
そのことを思い出すたび、胸の奥がじんわり温かくなる。
(……可愛い)
そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。
(いやいやいやいや、落ち着け俺)
資料を開こうとしたとき、スマホが震えた。
《Moonlight民の集い》
「ひよりのターン、今日の動画で比較した人いた!!」
「一拍早い説、ほぼ確定」
「黒瀬さん見た???」
黒瀬は反射的に返信してしまった。
『見ました。朝倉さんも気づいてました』
送信した瞬間、固まる。
(……やらかした)
「誰それ!!!」
「黒瀬さんに“朝倉さん”なんて固有名詞が!!」
「え、もしかして……」
「え、え、え」
黒瀬はスマホを伏せた。
(……死ぬ)
みつきは自分のスケッチを隠しながら席を立った。
(……落ち着こう。午後は普通に仕事しよう)
そう思って廊下を歩いていると、曲がり角で黒瀬と鉢合わせた。
(……っ)
黒瀬も一瞬固まる。
二人とも、昼休みの熱を引きずったまま、“会社の顔”に戻ろうとして戻りきれていない。
「……お疲れさまです」
「お疲れさまです……」
声が、どちらもほんの少しだけ上ずっていた。
(やばい……絶対バレてる……)
(やばい……絶対動揺してる……)
すれ違ったあと、二人とも同じタイミングで深呼吸した。
――午後のオタク、バレかける
みつきは席に戻り、スケッチをそっと引き出しにしまった。
(……このままじゃ、いつか絶対バレる)
でも、胸の奥はなぜか少しだけ嬉しかった。
黒瀬もまた、スマホを伏せたまま天井を見上げた。
(……朝倉さんと話すの、やっぱり楽しい)
午後の光の中で、二人の“やらかし”は静かに積み重なっていった。
夕方のオフィスは、昼休みの柔らかさが消え、再び“社会人の顔”が戻りつつあった。キーボードの音が規則的に響き、電話のベルが時折鳴り、外の光は少しずつオレンジ色に変わっていく。
みつきは、午後のやらかし(資料の余白にひよりのターンを描いた件)をなんとか忘れようと、真面目な顔で資料をまとめていた。
(……落ち着け。午後のは……誰にも見られてない。たぶん。きっと。そうであってほしい)
自分に言い聞かせながら、画面に集中しようとする。
そのとき、スマホが震えた。
ひより公式アプリ:
「新曲“月光ステップ”追加情報公開!」
(……っ!!)
みつきの心臓が跳ねた。
(やばい……見たい……今すぐ見たい……!)
でも、ここはオフィス。社会人の顔をしていなければならない。
(落ち着け……落ち着け……)
深呼吸しながらスマホを伏せた瞬間、オフィスの反対側で、同じタイミングでスマホを伏せる人影がいた。
黒瀬玲央。
(……同時!?)
黒瀬もまた、“社会人の顔”を保とうとしていたが、耳の先がほんのり赤い。
(絶対……同じ通知だよね……)
(見たい……!でも見れない……!でも見たい……!)
資料の文字が頭に入らない。
(ひよりちゃん……何の情報……?衣装?振付?ライブ?まさか……新ビジュアル!?)
想像が暴走し、胸の奥がざわざわしてくる。
(だめ……仕事……仕事……)
そう言い聞かせながら資料をスクロールした瞬間、ひよりのターンのスケッチが画面の端からひょっこり顔を出した。
(ぎゃああああああああああああああ)
慌てて閉じる。
(やばい……今日の私は……隠れオタクとしての危機……)
黒瀬もまた、通知を見てしまったことで集中力が吹き飛んでいた。
(……新情報……何だ……何が来た……)
資料の数字がまったく頭に入らない。
(朝倉さん……もう見たかな……いや、仕事中だし……でも、あの人なら……いや、でも……)
思考がぐるぐる回る。
そして、ついにやらかした。
資料のメモ欄に、無意識に書いてしまった。
「月光ステップ 新情報 要確認」
(……俺は何をしている)
スマホを伏せたまま、天井を見上げる。
(……朝倉さんと話したい)
定時が近づき、オフィスの空気が少しずつ緩んでいく。
みつきは帰り支度をしながら深呼吸した。
(……帰り道、黒瀬さんと会ったら……話せるかな)
そのとき、廊下の向こうから玲央が歩いてきた。
(……っ)
みつきの胸が跳ねる。
黒瀬も、ほんの一瞬だけ歩く速度がゆっくりになった。
すれ違う瞬間、二人の視線が重なる。
「……お疲れさまです」
「お疲れさまです……」
声が、どちらもほんの少しだけ上ずっていた。
(言いたい……ひよりちゃんの新情報……話したい……)
(言いたい……朝倉さん、もう見たのか……)
でも、どちらも言い出せない。
すれ違ったあと、二人とも同じタイミングで振り返りそうになって、同じタイミングで踏みとどまった。
(……やばい)
(……やばい)
夕方の光の中で、二人の“オタクの本能”は限界に近づいていた。
定時のチャイムが鳴ると、オフィスの空気が一気に緩んだ。椅子が引かれる音、帰り支度のざわめき、外から差し込む夕暮れの光。みつきはパソコンを閉じ、そっと息を吐いた。
(……帰り道、黒瀬さんと会ったら……話せるかな。ひよりちゃんの新情報……絶対話したい)
でも、社会人としての仮面はまだ外せない。落ち着いた表情を保ちながら、バッグを肩にかける。
廊下に出ると、ちょうどエレベーターの前に玲央がいた。みつきに気づいた瞬間、玲央の肩がわずかに跳ねる。
「……お疲れさまです」
「お疲れさまです」
二人とも、声がほんの少しだけ上ずっていた。
エレベーターが到着し、二人は自然と並んで乗り込んだ。扉が閉まると、外のざわめきが遠ざかり、静かな箱の中に二人だけが残された。
(……言いたい。言いたい。言いたい)
(……聞きたい。聞きたい。聞きたい)
沈黙が、妙に長く感じられる。
そして――
同時に口を開いた。
「ひよりちゃんの――」
「新情報、見ました?」
二人は固まった。
(……同時!?)
(……恥ずかしい!!)
でも、次の瞬間、どちらともなく笑ってしまった。
「……やっぱり、気になりますよね」
「気になりますよね……!」
エレベーターが一階に着く頃には、二人のテンションはすでに“隠れオタク”ではなく“ただのオタク”になっていた。
ビルを出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。自然と歩幅が揃い、二人は並んで駅へ向かう。
「今回の新情報……振付の追加でしたね」
「はい。あの“月光ステップ”の入り、やっぱり変わってました」
「ですよね!あれ、ひよりちゃんの得意な“重心移動”が活きてて……」
「分かります。あの一瞬で世界観が変わる感じが……」
二人の声がどんどん熱を帯びていく。
そして――
みつきのオタク心が暴走した。
「私、あのステップ……描きたくて……午後、資料の余白に……」
言った瞬間、口を押さえた。
(言っちゃったあああああああああ!!)
黒瀬は一瞬固まったが、すぐに目を輝かせた。
「……描いたんですか?」
「い、いや、その……ちょっとだけ……!」
「見たいです」
「だめです!!」
みつきは全力で首を振った。
(見せられるわけない!!あれは……あれは……!!)
でも、黒瀬は穏やかに笑った。
「……朝倉さんの視点、気になります」
その言葉に、みつきの胸が跳ねた。
(ずるい……そんな言い方……)
駅に近づいた頃、黒瀬のスマホが震えた。
《Moonlight民の集い》
「黒瀬さん!!“朝倉さん”って誰!?
新情報の話してた相手!?
もしかして……リア友!?
え、え、え」
みつきの横で、黒瀬の顔がみるみる赤くなる。
(……あ、これ絶対やらかしてる)
「黒瀬さん……?」
黒瀬はスマホを伏せ、深く息を吐いた。
「……昼休みに……つい……“朝倉さんも気づいてました”って……」
「言ったんですか!?」
「……はい」
みつきは思わず笑ってしまった。
「黒瀬さんも……やらかしてますね」
「……はい」
二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
夕暮れの駅前で、
隠れオタクたちの“やらかし”は静かに積み重なっていく。
――夕暮れの笑い声と、近づく距離
電車の時間が近づき、二人は改札前で立ち止まった。
「……今日、楽しかったです」
「私も……すごく」
夕暮れの光の中で、二人の距離はまた一歩近づいた。




