第6章 光の中でほころぶ擬態
朝のオフィスは、いつもと変わらないざわめきに包まれていた。
コピー機の音、電話のベル、同僚たちの軽い雑談。
みつきは、その中で“完璧な朝倉みつき”を纏っていた。
背筋を伸ばし、落ち着いた笑顔で「おはようございます」と返し、デスクに座ると同時にスケジュールを確認する。
(……大丈夫。昨日のことは顔に出てない)
そう思いながらも、胸の奥はまだ少しだけ熱を帯びていた。
ひよりの衣装を描いた夜。
コスプレ友達とのチャット。
そして――
黒瀬の横顔。
(落ち着け、私)
深呼吸をして、パソコンを立ち上げる。
*****
「朝倉さん、昨日の資料ありがとうございます。助かりました」
「いえ、こちらこそ。今日の会議、よろしくお願いしますね」
完璧な笑顔。
完璧な声のトーン。
完璧な社会人。
(……ひよりの新曲の話したいなんて、絶対思われたくない)
そんな本音は、胸の奥にそっと押し込める。
「朝倉さん、今日ちょっと寒くないですか?」
「そうですね、暖房弱いですよね。あとで設定見てきます」
(……袖口のレースの話したいなんて、絶対言えない)
昨日の夜、あれだけ夢中で描いていたのに。
*****
一方そのころ――
オフィスの反対側。
黒瀬もまた、“会社の黒瀬玲央”を纏っていた。
「黒瀬さん、昨日のデータ確認しました。問題なかったです」
「……分かりました。ありがとうございます」
淡々とした声。
無駄のない動き。
感情を表に出さない、静かで仕事ができる人。
(……朝倉さん、来てるかな)
そんなことを考えている自分に、黒瀬は気づかないふりをした。
「黒瀬さん、今日の会議の資料、あとで共有しますね」
「はい。お願いします」
(昨日の帰り道……楽しかったな)
その余韻を、表情に出さないように気をつけながら。
*****
みつきが資料を取りに立ち上がったとき、ちょうど黒瀬が廊下を歩いてきた。
ほんの一瞬、視線が重なる。
(……っ)
みつきは、慌てて視線をそらした。
(なんで……そんな目で……)
黒瀬の視線は、驚くほど柔らかかった。
昨日の帰り道の余韻を、そのまま引きずっているような。
でも、会社ではそれを表に出さない。
黒瀬はすぐに無表情に戻り、軽く会釈して通り過ぎた。
(……擬態してる)
みつきは気づいた。
(私と同じだ)
*****
「黒瀬さん、今日の会議、緊張しますね」
「……そうですね」
(緊張してるのは……会議じゃなくて……)
「黒瀬さん、昨日遅くまで残ってました?」
「いえ。普通に帰りました」
(帰り道……朝倉さんと話した)
そんなこと、言えるはずがない。
「黒瀬さんって、ほんと落ち着いてますよね」
「……そうですか」
(落ち着いてなんか……ない)
胸の奥が、昨日より少しだけ熱い。
給湯室の入り口。
コピー機の前。
廊下の角。
二人の視線は、何度も重なった。
でも、どちらも声をかけない。
(昨日のこと……忘れてないよね)
(今日も……話したい)
擬態の中で、心だけが素のまま揺れていた。
みつきは席に戻り、マグカップを両手で包んだ。
(……今日、話せるかな)
黒瀬もまた、自分のデスクで静かに息を吐いた。
(……話したいな)
すれ違いそうで、でも確かに重なっていく視線。
その距離は、まだ言葉にならないまま、朝の光の中でそっと揺れていた。
午前の仕事がひと段落したころ、みつきはコピーを取りに席を立った。
(……落ち着いて。普通にしてれば大丈夫)
そう言い聞かせながら歩いているのに、胸の奥はずっとざわついていた。
コピー機の前には、すでに誰かが立っていた。
黒瀬玲央。
(……っ)
みつきは一瞬、足を止めた。
でもすぐに、“完璧な社会人の顔”を貼りつけて歩き出す。
「お疲れさまです」
声は落ち着いている。
完璧な大人女子のトーン。
黒瀬もまた、いつもの静かな声で返した。
「……お疲れさまです」
でも、その声の奥にある“揺れ”に、みつきは気づいてしまう。
コピー機が動き出す。
二人の間に、機械の低い音だけが響く。
沈黙。
でも、重くはない。
(……話したい)
みつきは、胸の奥で小さく呟いた。
そのとき――
黒瀬が、ほんの少しだけ息を吸った。
「……あの」
みつきの心臓が跳ねた。
「昨日の……ひよりちゃんの話なんですけど」
擬態が、ほんの少しだけ崩れた。
みつきは、驚きと嬉しさが混ざった声で返す。
「……はい」
黒瀬は、コピー機の光に照らされた横顔で続けた。
「袖口のレース……やっぱり変わってましたよね」
(……っ)
胸の奥が一気に熱くなる。
(気づいてた……やっぱり……)
みつきは、抑えきれない笑みを浮かべてしまった。
「はい。前より細かくなってて……光の入り方も違ってて」
黒瀬の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「……やっぱり。そうですよね」
その“そうですよね”には、昨日の夜から胸に溜めていた
“誰かと共有したかった気持ち”が滲んでいた。
みつきは、自分でも驚くほど自然に言葉を続けていた。
「今回のレース、既製品じゃ再現できないと思うんです。編み目が細かすぎて……」
(……言いすぎた!?)
一瞬焦ったが、黒瀬はむしろ嬉しそうに頷いた。
「……分かります。袖の揺れ方も、前より綺麗でした」
(……この人)
胸の奥がじんわり温かくなる。
(同じところを見てる)
擬態の下に隠していた“素の自分”が、少しだけ顔を出してしまう。
コピー機が止まる。
みつきが紙を取ろうとした瞬間、黒瀬も同じタイミングで手を伸ばした。
指先が、ほんの少し触れた。
(……っ)
二人とも一瞬固まる。
でも、
次の瞬間――
同時に手を引っ込めて、同時に小さく笑ってしまった。
「……すみません」
「いえ……こちらこそ」
その笑顔は、どちらも“会社の仮面”ではなかった。
みつきはコピーを抱えながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。
(……今日、話せた)
黒瀬もまた、自分のデスクに戻りながら思った。
(……朝倉さんと話すの、やっぱり……嬉しい)
擬態の中で、ほんの少しだけ素が触れ合った朝。
その小さな一歩が、二人の距離を確かに縮めていた。
昼休みのチャイムが鳴くと、オフィスの空気がふっと緩んだ。
午前中の緊張がほどけ、人々の声が少しだけ明るくなる。
椅子が引かれる音、弁当の袋を開ける音、給湯室へ向かう足音。
そのすべてが、昼休み特有の柔らかいざわめきを作っていた。
みつきは、デスクの上の資料を揃えながら、胸の奥がそわそわしているのを感じていた。
(……午前中のあれ、絶対に“ただの会話”じゃなかったよね)
コピー機の前での会話。
袖口レースの話題。
あの一瞬の指先の触れ合い。
(……落ち着け。私は会社では“完璧な朝倉みつき”)
そう言い聞かせながら、パソコンを閉じる。
「朝倉さん、今日ランチどうします?」
後輩の佐伯が声をかけてきた。
「今日は少し資料まとめたいので。先に行っててください」
完璧な笑顔。
完璧な声のトーン。
(……資料なんてないけど)
胸の奥のざわつきを落ち着かせたかった。
そして――
どこかで期待している自分がいた。
(黒瀬くん……どうするんだろ)
昼の光が、ブラインドの隙間から差し込んでいる。
デスクの上に落ちる影は、午前中よりも柔らかい。
人々の動きも、どこかゆったりしている。
その光の中で、みつきはマグカップを手に立ち上がった。
給湯室へ向かう廊下は、昼のざわめきが少し遠くなる場所。
(……落ち着こう)
そう思って角を曲がった瞬間――
同じ方向から歩いてきた黒瀬と、視線が重なった。
(……っ)
胸が跳ねる。
黒瀬も、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
でもすぐに、いつもの静かな声で言った。
「……お疲れさまです」
その声は、午前中より少しだけ柔らかかった。
みつきも、自然と笑みがこぼれた。
「お疲れさまです」
たったそれだけの会話。
でも、昼休みの光の中では、それが小さな奇跡のように感じられた。
給湯室から戻ると、オフィスはすでに昼休みのざわめきに満ちていた。
弁当の蓋を開ける音、コンビニ袋のカサカサ、誰かの笑い声。
そのざわめきの中で、みつきは自分の席に座りながら、胸の奥のざわつきを落ち着かせようと深呼吸した。
(……普通にしてれば大丈夫)
そう思った瞬間――
視界の端に、静かに歩いてくる人影が映った。
黒瀬玲央。
(……来た)
黒瀬は、いつもの静かな足取りで近づいてきて、みつきのデスクの前で一瞬だけ立ち止まった。
「……昼、行きますか」
その声は、午前中よりも少しだけ柔らかかった。
みつきの胸が跳ねる。
(私に……?)
でも、表情には出さない。
「はい。行きましょうか」
完璧な大人女子の笑顔。
でも、胸の奥は静かに熱くなっていた。
二人で歩き出すと、オフィスのざわめきが少しずつ遠ざかっていく。
エレベーター前は、昼休みの人の流れが落ち着いたあとで、静かな空気が漂っていた。
みつきは、横に立つ黒瀬の存在を意識しすぎないように、視線をまっすぐ前に向けた。
(……落ち着け、私)
でも、胸の奥は落ち着かない。
黒瀬もまた、いつもの無表情を保ちながら、どこかぎこちない。
(……朝倉さん、緊張してる……)
そんなことを思ってしまう自分に、黒瀬は気づかないふりをした。
オフィスビルの一階にある小さなカフェテリア。
昼休みのピークを過ぎて、席には少し余裕があった。
みつきがトレーを持って席を探していると、黒瀬が自然な動きで隣の席を指した。
「……ここ、空いてます」
「ありがとうございます」
二人は、まるで最初からそう決まっていたかのように、自然に隣に座った。
(……隣、なんだ)
向かい合わせではなく、隣。
その距離が、みつきの胸を静かに揺らした。
黒瀬もまた、横目でみつきを見ながら思う。
(……隣に座るの、悪くない)
スープの蓋を開けた瞬間、みつきはふと口を開いた。
「……今日のひよりちゃん、SNSで“振付の裏話”出てましたね」
黒瀬の手が、ほんの少しだけ止まった。
「……見ました。あの、サビ前のターン……前より一拍早く入ってましたよね」
(……気づいてる)
みつきの胸が一気に熱くなる。
「そうなんです!あれ、普通の人は絶対気づかないですよ。ひよりちゃん、あの一拍で“月光の吸い込み”を表現してて……」
言いながら、自分でも熱量が漏れているのが分かった。
黒瀬は、その熱に押されるように続けた。
「……分かります。あの一拍で、曲の“重力”が変わる感じがして……」
(重力……)
みつきは思わず笑ってしまった。
「黒瀬さん、表現が……オタクですね」
黒瀬は一瞬固まり、少しだけ視線をそらした。
「……朝倉さんも、ですよ」
その言葉に、みつきの胸がまた跳ねた。
二人は、ひよりの振付の話から、ステージ照明の色の変化、新曲の歌詞の比喩表現、ファンの間で話題になっている“月光の手の角度”まで、自然と話題が広がっていった。
オフィスのざわめきの中で、二人の声だけが静かに重なっていく。
(……こんな昼休みが来るなんて)
(……また話したい)
昼の光の中で、二人の距離は確かに縮まっていた。




