第4章 夜更けのレースと、胸にしまった秘密
カフェを出ると、外の空気は少し冷たくて、街灯の光が二人の影を長く伸ばしていた。
「駅、こっちですか?」
みつきがそう尋ねると、玲央は少しだけ驚いたように瞬きをして、小さく頷いた。
「……はい。同じ方向です」
その言い方が、どこか嬉しそうに聞こえたのは、気のせいではないと思う。
二人は並んで歩き出した。
歩幅は違うのに、なぜか自然と同じリズムになっていく。
沈黙が落ちる。
でも、重くはない。
みつきがそっと口を開いた。
「……ひよりちゃんの新曲、サビの入り、すごく綺麗でしたね」
玲央の横顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
「……分かります。あの入り方、反則ですよね」
「反則、ですよね……!」
二人の声が重なって、みつきは思わず笑ってしまった。
(あ……こんなふうに笑うの、久しぶりかも)
玲央は、その笑顔に気づいたのか、少しだけ視線をそらした。
「……僕、ひよりちゃんの声が好きなんです」
「うん……分かります。透明感があって、でも芯があって……」
「……そう。芯があるんです」
玲央の声は、ひよりの話をするときだけ、ほんの少し熱を帯びる。
その熱が、みつきの胸にじんわりと広がっていく。
(この人……本当にひよりちゃんが好きなんだ)
そして、その“好き”を隠して生きてきたのだと分かる。
自分と同じように。
「……朝倉さんは、
ひよりちゃんのどこが好きなんですか?」
玲央の問いに、みつきは一瞬だけ言葉を失った。
(どこが、って……全部……全部好きだけど……)
でも、それをそのまま言うのは違う気がした。
「……衣装、です。ひよりちゃんの衣装が、すごく好きで」
「衣装……」
玲央は、その言葉をゆっくり噛みしめるように繰り返した。
「……朝倉さん、衣装のこと、すごく詳しいですよね」
「えっ……」
みつきの心臓が跳ねた。
(やば……やばいやばいやばい……同人誌描いてるなんて、絶対言えない……!)
「い、いえ……そんな……ただ、好きなだけで……」
「好きなだけで、あそこまで細かいところに気づけるんですか?」
(ひよりちゃんの袖口レースのこと……気づいてたの、バレてる……!?)
みつきは、胸の奥がぎゅっと縮まるのを感じた。
(言いたい……“同人誌描いてます”って言いたい……でも……言えない……)
過去の傷が、喉の奥で固くつかえている。
「……朝倉さん?」
玲央が、少しだけ心配そうに覗き込んだ。
みつきは、笑顔を作るのに少し時間がかかった。
「……ただ、好きなだけですよ。ほんとに」
その笑顔は、自分でも分かるくらい不器用だった。
玲央はそれ以上追及せず、
ただ静かに頷いた。
「……そうなんですね」
その優しさが、逆に胸に刺さる。
(言えない……でも、いつか……この人になら……)
そんな“未来の予感”だけが、夜風の中でそっと揺れていた。
*****
家に着くころには、夜風が少し冷たくなっていた。
玄関の鍵を閉め、靴を脱ぎ、リビングの灯りをつける。
その瞬間、机の上に置きっぱなしにしていた同人誌の下書きノート が目に入った。
(……あ)
帰り道の会話が、一気に胸の奥で蘇る。
「朝倉さん、衣装のこと……すごく詳しいですよね」
「好きなだけですよ」
(好きなだけ、なんて……嘘ついた……)
みつきはコートを脱ぎながら、胸の奥がじんわり痛むのを感じた。
ソファに座り、ノートをそっと開く。
そこには、ひよりの“月光ドレス”の細密なスケッチ。
袖口のレースの構造、光の反射の角度、ステージ照明での色の変化。
(こんなの……“好きなだけ”で描けるわけないよね)
ページをめくるたびに、自分の嘘が胸に刺さる。
「……朝倉さん、衣装のこと、すごく詳しいですよね」
あのときの玲央の声は、責めるようなものではなかった。
むしろ、興味と、少しの尊敬が混ざっていた。
(言えばよかった……“同人誌描いてます”って……)
でも、言えなかった。
過去の記憶が、喉の奥で固くつかえている。
「え、そんなの描いてるの?意外〜」
「オタクなんだ……」
「すごいね、そういうの描ける人って」
褒め言葉のようでいて、どこか距離を置かれたあの感じ。
(また、ああいうふうに思われたら……怖い……)
みつきはノートを閉じ、胸の前でぎゅっと抱きしめた。
スマホを手に取り、今日やっと聴けた新曲を再生する。
ひよりの透明な声が、部屋の静けさに溶けていく。
(……今日、あんなに新曲を聴きたかったのって……玲央さんと話したかったから……?)
ひよりの話をするときの玲央の横顔。
静かで、でも少しだけ熱を帯びる声。
(あの人と……同じ“好き”を共有したかったんだ)
そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
(……なのに、同人誌のことは言えなかった)
ひよりの衣装を描く自分を、誰かに知られるのが怖い。
でも――
玲央と話すのは、嬉しかった。
(言いたい……でも、言えない……)
その揺れが、みつきの胸の奥で静かに続いていた。
(……ひよりちゃん)
ひよりの歌声は、いつだってみつきの心をそっと撫でてくれる。
「好きなものを好きって言っていいんだよ」
そんなふうに言われている気がした。
(……でも、まだ言えないよ)
みつきは、
膝を抱えたまま小さく呟いた。
(玲央さんに……嫌われたくない)
その言葉が、胸の奥で静かに震えた。
ノートをそっと開き直す。ひよりの衣装の線をなぞりながら、みつきは思う。
(いつか……いつか言える日が来るのかな)
玲央の静かな声、優しい目、ひよりの話をするときだけ少し熱を帯びる横顔。
(あの人になら……いつか……)
ページの上で、ひよりのドレスが静かに輝いて見えた。
みつきの心も、ほんの少しだけ光を帯びていた。
部屋の灯りは、デスクのスタンドライトだけ。
白い紙の上に、ひよりの“月光ドレス”が少しずつ形を成していく。
みつきは、袖口のレース部分を描きながら、何度もMVのスクショを拡大して確認していた。
(……やっぱり今回のレース、違う)
前より細かく、光の入り方も変わっている。
(ステージ照明での反射……計算されてるなぁ)
ペン先が紙の上を滑る。
その音だけが、静かな部屋に響いていた。
ふと静寂を切り開くように携帯が震えた。
画面に表示されたのは、コスプレ友達のグループチャット。
《月光ドレス研究会(非公式)》
「みつき、今回のひよりの袖レース見た?」
「前のと違うよね!?絶対違うよね!?」
「スクショ送る!!」
次々と画像が送られてくる。
みつきは思わず笑ってしまった。
(……みんな、早いな)
『見た。編み目が細かくなってる。あと、光の反射が変わってる』
すぐに返信が返ってくる。
「やっぱり!みつきの観察眼は信用できる」
「今回の衣装、再現むずいよね……」
「袖のレース、既製品じゃ無理じゃない?」
「みつき、どう思う?」
みつきは、ペンを置いてスマホを手に取った。
『既製品は無理。自作するなら、レース重ねて光沢布を裏に入れると近いかも』
「天才か」
「さすが衣装班」
「ひよりの衣装、愛が深い」
「てかみつき、今日テンション高くない?」
(……え)
みつきは一瞬固まった。
(テンション……高い?私が……?)
『別に』
と返すと、すぐにスタンプが飛んできた。
「出た、みつきの“別に”は嬉しいとき」
「ひよりの衣装語れると元気になるよね分かる」
「ひよりは心の栄養」
みつきは、スマホを見つめながら小さく息を吐いた。
(……ひよりの衣装を語れるのは、嬉しいけど)
今日の“嬉しい”は、それだけじゃなかった。
(……玲央さんも、気づいてたよね)
帰り道の会話が胸の奥で蘇る。
「袖口のレースとか、細かいところまで綺麗で」
あのときの玲央の反応。
驚いたような、でもどこか嬉しそうな、あの微妙な表情。
(同じところを見てたんだ……)
胸の奥がじんわり熱くなる。
「みつき、今回の衣装で一番好きなポイントどこ?」
「袖?スカート?背中のリボン?」
「語れ」
(語れって……)
みつきは苦笑しながら返信する。
『袖。レースの変化が一番分かりやすいし、ひよりちゃんの動きが綺麗に見える』
「分かる!!!」
「袖の揺れ方、今回めっちゃ綺麗」
「ひよりの腕の動きが映えるんだよね」
「てかみつき、誰かに語った?」
(……っ)
一瞬、玲央の横顔が脳裏に浮かんだ。
(語った……けど……)
『……ちょっとだけ』
「誰に!?」
「え、気になるんだけど」
「ひよりの話できる相手いるの羨ましい」
みつきは、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
(……言えないよ)
玲央のことなんて。
新曲を再生すると、ひよりの透明な声が部屋に広がった。
(……ひよりちゃん)
ひよりの歌声は、いつだってみつきの心をそっと撫でてくれる。
「好きなものを好きって言っていいんだよ」
そんなふうに言われている気がした。
(……いつか、言えるかな)
玲央に。
自分の“好き”を。
同人誌のことを。
(……いつか)
その“いつか”を想像した瞬間、胸の奥が静かに熱を帯びた。
みつきは、ひよりの衣装の最後の線を引いた。
その線は、少しだけ震えていたけれど、確かに前へ進んでいた。




