第2章 静かな人間の、静かに揺れる日々
黒瀬玲央は、会社で“無口な人”として知られている。
実際、話すのは得意ではないし、必要以上に誰かと関わるつもりもない。
ただ、黙っていると楽だから黙っているだけだ。
今日も、いつものようにエレベーターを待っていた。
スマホを確認すると、
「Lumière LIVE STREAM “Moonlight Talk”」
のカウントダウンが表示される。
(……あと十二分か)
ひよりの配信は、黒瀬にとって一日のご褒美だ。
仕事で疲れた心を、あの柔らかい声がそっと撫でてくれる。
エレベーターの扉が開き、乗り込む。
そのとき、隣に立った女性がふと視界に入った。
落ち着いた雰囲気で、
整った身だしなみで、
周囲から“頼れる人”として扱われているのが分かる。
朝倉みつき。
同じビルで何度か見かけたことがある。
彼女はいつも静かで、丁寧で、
どこか近寄りがたいほど“完璧”に見えた。
(……こういう人は、俺とは縁がない)
そう思って、視線をスマホに戻した。
*****
――袖口のレースなんて、誰も気づくはずがないと思っていた。
黒瀬は、朝が早い。
まだ誰もいないオフィスに、パソコンの起動音だけが響く時間が好きだった。
人の声がない空間は、ライブ前の会場のように落ち着く。
デスクの端には、黒いマグカップ。
底には小さく「Lumière」のロゴが刻まれている。
誰にも気づかれないように選んだ、ささやかな推し活の証。
(昨日、見られたよな……)
エレベーターで、ひよりの配信カウントダウンがスマホに表示された瞬間。
隣にいた朝倉みつきが、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
(いや、気のせいだろ。あんなの、ただの通知だし)
そう思いながらも、胸の奥がざわつく。
「黒瀬さん、おはようございます」
後輩の田村がやってきた。
「……おはよう」
「昨日のログの件、助かりました。あれ見て、だいぶ理解進みました」
「……時間あるときでいいなら」
「ありがとうございます!」
田村は明るくて、誰とでも話せるタイプだ。
黒瀬は、そういう人を少し羨ましいと思う。
(俺は……ひよりの前でだけでいい)
そう思って、コーヒーを一口飲んだ。
*****
昼休み、黒瀬はビル裏のベンチでひとりサンドイッチを食べる。
スマホを開くと、ファンアカのタイムラインが流れてくる。
「今日のひより、髪型かわいすぎ」
「Moonlight Talk のアーカイブ神」
「3rd ライブ、セトリ予想しようぜ」
(……今日も平和だな)
ひよりの笑顔を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ふと、ビルのガラス越しに、朝倉みつきが同僚と話している姿が見えた。
落ち着いた声で、丁寧に、
でもどこか距離を置くように笑っている。
(……すごいな)
ああいうふうに自然に人と話せたらいいのに、と
思うことがある。
*****
数日後。
廊下の角で誰かとぶつかった。
「あっ、すみません!」
顔を上げると、朝倉みつきだった。
(……最悪だ)
バッグが少し開いている。
内側に付けていた、ひよりの“月光ドレス”の公式チャームが見えてしまっている。
外側に付ける勇気はない。
でも、どうしても持ち歩きたくて、内側のポケットにこっそり付けていたものだ。
(見られてないといいけど……)
彼女はファイルを拾いながら、
一瞬だけバッグの中を見た気がした。
胸がざわつく。
(いや、気のせいだろ。こんな綺麗な人が、ひよりのチャームなんて知るわけがない)
そう自分に言い聞かせて、軽く会釈してその場を離れた。
でも、心臓はしばらく落ち着かなかった。
*****
帰宅後、部屋の電気をつける前に、黒瀬はまずスマホを充電器に置く。
その横には、ひよりのアクリルスタンドが並んでいた。
(……チャーム、見られたかな)
バッグの内側に付けていた月チャーム。
ひよりの象徴。
ファンなら一発で分かる。
だが――
(いや、普通の人は知らない。あれを見て“ひより”なんて連想するのは、オタクだけだ)
そう思うと、少しだけ安心した。
ソファに座り、ひよりのライブ映像を再生する。
「Moonlight Symphony、楽しみにしててね」
画面の中のひよりが微笑む。
(……うん)
黒瀬は、ひよりの言葉にだけ素直になれる。
そのとき、スマホが震えた。
ファン仲間のグループチャットだ。
「3rd ライブ、セトリ予想しようぜ」
「Moonlight ドレス、絶対新バージョンくる」
「ひよりのソロ、泣く準備しとけ」
黒瀬は普段ほとんど発言しないが、このグループだけは別だ。
『Moonlight の袖、前よりレース細かくなってる。新衣装の伏線かも』
すぐに返信が返ってくる。
「黒瀬さん、観察力やば」
「衣装ガチ勢の黒瀬さんの言うことは信用できる」
「ひよりの袖口、確かに違う!」
(……まあ、こういうの気づくのはオタクだけだよな)
黒瀬は、そう思い込んでいた。
*****
朝のエレベーターで、黒瀬はいつものようにスマホを取り出した。
ロック画面には、ひよりの“月光ドレス”の袖口レースのアップ。
(……まあ、ただのレース模様にしか見えないだろ)
一般人には、ただの綺麗な布の写真。
そう信じていた。
だが、朝倉みつきが一瞬だけこちらを見た。
(……いや、気のせいだ。袖口のレースだけで気づく人なんて、いるわけない)
そう自分に言い聞かせる。
仕事中も、その表情が頭から離れなかった。
*****
昼休み、コンビニでコーヒーを買ったとき。
店員の女性が手首のアクセサリーを見せてきた。
細いチェーンに、小さな月と星のチャーム。
それは――
(……Lumière の会員限定アクセサリー)
半年継続特典として配布されたもの。
一般販売はされていない。
店員は嬉しそうに言った。
「ひよりちゃん推しで!」
(……やっぱり)
黒瀬は心の中で小さく頷いた。
店員は黒瀬を“興味を持った一般客”だと思っているらしい。
「ひよりちゃん、ほんと可愛いですよね!」
黒瀬は、ほんの少しだけ口元が緩むのを感じた。
「……そうですね」
店を出ると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
(……こんなところにも仲間がいるんだな)
でも、自分がその“仲間”だとは、誰も気づかない。
それが、黒瀬にはちょうどよかった。
*****
その日の帰り。
カフェでコーヒーを飲んでいると、隣に朝倉みつきが座った。
スマホが光り、ライブ当日のカウントダウンが表示される。
「開演まで 1:23:10」
(……終わった)
今度ばかりは、“気のせい”では済まない。
そう思った瞬間、みつきが静かに口を開いた。
「黒瀬くん、ひよりちゃん……好きなんですか?」
黒瀬は、逃げることも、隠すこともできなかった。
「…………はい」
その答えが、
自分の人生を少し変えることになるとは、
まだ知らなかった。




