第13章 月曜日の光、ふたりだけの秘密
月曜日の朝。
外は薄い雲に覆われていて、光がやわらかく差し込んでいた。
みつきは、昨日描きかけたラフを思い出しながら、ゆっくりと身支度を整えた。
(……過去の衣装、全部描きたい)
ひよりのバースデーカード。
真ん中には今回の衣装を置く。
その周りに、ひよりの“これまで”を並べたい。
ひよりが歩んできた道を、ひとつの絵に閉じ込めたい。
その気持ちは、昨日よりもずっと強くなっていた。
けれど――
資料が足りない。
初期衣装は、もう公式サイトにも残っていない。
ファンの写真も断片的で、細部が分からない。
(……黒瀬さんなら、全部覚えてるかもしれない)
そう思った瞬間、胸が跳ねた。
相談したい。
でも、怖い。
創作のことを話すなんて、今まで一度もしたことがない。
(……でも、聞かないと描けない)
その決意を胸に、みつきは会社へ向かった。
オフィスに入ると、黒瀬はすでに席に着いていた。
いつも通り落ち着いた表情で、資料に目を通している。
その横顔を見ただけで、胸がざわつく。
(……言えるかな)
黒瀬はふと顔を上げ、みつきに軽く会釈した。
その自然な仕草に、みつきの心臓が跳ねる。
「おはようございます」
「おはよう」
短い挨拶なのに、胸の奥が熱くなる。
仕事をしながらも、ひよりの衣装のことが頭から離れない。
初期衣装の袖の形。
二期衣装のスカートの重なり。
三期衣装の髪飾りの位置。
(……分からないところが多すぎる)
黒瀬のひより知識は“ガチ”だ。
昨日のライブでも、細かい動きや光の入り方まで語っていた。
(……黒瀬さんなら、絶対に分かる)
でも、創作のことを話すのは怖い。
「月影ミラ」という名前は絶対に言えない。
でも、衣装の話だけなら――。
(……聞いてみよう)
胸の奥で、決意が少しずつ強くなる。
昼休み。
黒瀬は席に戻ってきて、資料を置きながら小さく息をついた。
「……昨日の衣装、やっぱり初期の意匠が残ってたな」
独り言のような、誰に向けたわけでもない声。
擬態を崩さない、落ち着いたトーン。
でも、ひよりをよく知る人間にしか出てこない言葉。
みつきの胸が跳ねた。
(……初期の意匠……やっぱり黒瀬さん、分かってる)
黒瀬はみつきに気づいていない。
ただ、自然にこぼれた言葉。
その“自然さ”が、みつきの背中を押した。
(……今だ)
昼休みの終わり。
みつきは意を決して声をかけた。
「あの……黒瀬さん。ひよりの衣装のことで、少し聞きたいことがあって……」
黒瀬は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに真剣な表情になる。
「衣装?どの時期の?」
みつきは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じながら言った。
「……全部、です。過去の衣装を全部……描きたくて」
黒瀬の目がわずかに見開かれる。
「全部?それ、相当大変だぞ」
「分かってます。でも……どうしても、ちゃんと描きたくて」
声は震えていた。
でも、その目は真剣だった。
黒瀬は、その“本気”に胸を打たれる。
「……描くって、イラストか?」
みつきは一瞬迷ったが、逃げなかった。
「……はい。趣味で、絵を描いていて。
ひよりのバースデーカードを描くことになって……
どうしても、過去の衣装を正確に描きたくて」
黒瀬の表情が変わった。
驚きと、尊敬が混ざったような目。
「……朝倉さん、そんなに本気で描いてるんだな」
その言葉に、みつきの胸が熱くなる。
黒瀬は、ひよりの初期衣装から順に丁寧に説明した。
「初期衣装は袖が長めで、動くと光が入りやすい。
二期はスカートの重なりが特徴で、ひよりが回ると影が綺麗に出る。
三期は髪飾りが左右で違ってて……」
みつきは必死にメモを取る。
黒瀬は、みつきの真剣な姿に心を奪われる。
(……こんなに真剣に聞いてくれる人、初めてだ)
(……こんなに丁寧に教えてくれる人、初めて)
二人の距離が、確実に縮まっていく。
衣装の説明が終わったあと、みつきは小さく息を吸った。
「あの……本当にありがとうございます。
ひよりの衣装、全部描きたくて……
でも資料がなくて、どうしようもなくて……」
黒瀬は静かに頷いた。
「朝倉さんの絵、見たことはないけど……
その姿勢だけで分かるよ。
本気で描いてるんだって」
みつきの胸が熱くなる。
黒瀬は静かに言った。
「朝倉さんなら、絶対に描けるよ。
ひよりの“光”を分かってる人だと思う」
みつきは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(……黒瀬さんに言ってよかった)
午後の仕事に戻っても、みつきの胸はまだ熱かった。黒瀬の言葉が、何度も頭の中で反芻される。
「朝倉さんなら、絶対に描けるよ。ひよりの“光”を分かってる人だと思う」
その言葉は、ただの励ましではなかった。ひよりを深く理解している黒瀬だからこそ、重みがあった。
(……描ける。描きたい)
資料の不足で曇っていた視界が、すっと晴れていくようだった。
黒瀬はいつも通り落ち着いた表情で仕事をしている。けれど、みつきの視線に気づいたのか、ふとこちらを見た。
目が合う。一瞬だけ、黒瀬の表情が柔らかくなる。
みつきは慌てて視線をそらした。でも、胸の奥がじんわりと温かい。
黒瀬は、午後の資料を読みながらも、昼休みに見たみつきの表情が頭から離れなかった。真剣で、必死で、でもどこか不安そうで。それでも前に進もうとしていた。
(……あんな顔、初めて見た)
ひよりの衣装を描くために、過去衣装を全部調べる。そんなことを言い出す人は、普通いない。
(……本気なんだな)
胸の奥が静かにざわつく。それは不快ではなく、むしろ心を掴まれるような感覚だった。
(……朝倉さん、すごいな)
気づけば、黒瀬は小さく息をついていた。
退勤時間。みつきは、黒瀬に軽く会釈してオフィスを出た。
「今日は、ありがとうございました」
「うん。何かあったらまた聞いて」
その言葉に、胸が跳ねる。
(……また聞いて、って)
その一言が、みつきの背中をそっと押した。
外に出ると、夕暮れの光が街を淡く染めていた。その光が、ひよりのステージの光と重なって見える。
(……描きたい)
その気持ちが、もう抑えられなかった。
家に帰ると、みつきはすぐに机に向かった。スケッチブックを開き、深呼吸をする。
(初期衣装は……袖が長くて、光が入りやすい)(スカートの重なり……影が綺麗に出る)(髪飾りは左右で違って……)
黒瀬の声が、頭の中で静かに響く。
その言葉に導かれるように、線が走り出した。迷いがない。昨日まで描けなかった部分が、自然に形になっていく。
(……描ける)
ページの上で、ひよりが少しずつ“生きて”いく。
真ん中には、今回の衣装。その周りに、ひよりのこれまでの姿が並ぶ。
(……黒瀬さんのおかげだ)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
黒瀬は、ソファに座ったまま、昼休みにみつきが見せた表情を思い返していた。真剣で、まっすぐで、ひよりの衣装を語るときの自分と同じ熱を持っていた。
(……あんなふうに、何かに向き合ってるんだな)
胸の奥が静かに熱くなる。
みつきが絵を描いている。それを知っただけで、彼女の見え方が少し変わった気がした。
(……もっと話してみたい)
その気持ちが、自然に胸に浮かんだ。
みつきは、黒瀬の言葉を胸に絵を描く。黒瀬は、みつきの真剣さを胸に思い返す。
二人はまだ知らない。
今日交わした“ひよりの衣装”という小さな秘密が、これからの関係を確実に変えていくことを。
そして、“絵を描くみつき”を知った黒瀬の心が、静かに、確実に動き始めていることを。




