第11章 絵画のような休日、気づかれない距離
休日の朝、カーテンの隙間から差し込む薄い光が、部屋の空気をゆっくりと温めていく。外はまだ静かで、遠くの車の音がかすかに聞こえるだけだ。
みつきは、目覚ましが鳴る前に自然と目を開けた。昨日の仕事の疲れは少し残っているけれど、胸の奥には別の熱が灯っている。
(……今日は、絶対に外に出ない)
そう決めていた。理由はひとつ。描きたいものが、山ほどあるから。
布団から起き上がると、机の上に置きっぱなしのスケッチブックが目に入る。昨夜描きかけのミラのラフ。覚醒前の静けさを描いた一枚で、光の入り方がまだ納得できていない。
机に近づくと、紙の匂いとインクの残り香がふわりと漂う。ペンを握ると、指先が自然に動き出した。
(……ここ、もう少し柔らかくしたい)
線を重ねるたび、ミラの表情が少しずつ“生きて”いく。
月影ミラの本垢に上げる予定の絵。裏垢ではない。これが自分の“本丸”。
(今日中に仕上げたいな……)
静かな休日が、ゆっくりと始まった。
同じころ、黒瀬は――
駅へ向かう道を歩きながら、黒瀬はいつもより少しだけ早足だった。今日は――推し・ひよりのコンサート参戦日。
会社では絶対に見せない“オタクの顔”が、ほんの少しだけ表に出てしまっている。冬の空気は冷たいのに、胸の奥は妙に温かい。
改札を抜けると、人混みの中から手を振る影が見えた。
「玲央、こっち!」
大学時代からのオタ友だ。黒瀬は軽く会釈して近づく。
「久しぶり。今日はよろしく」
「よろしくって……お前、顔がいつもより柔らかいぞ?」
「そうか?」
「そうだよ。推しの前だと表情変わるタイプだろ」
黒瀬は少しだけ目をそらした。
(……朝倉さんにも言われたな)
胸の奥がざわつく。けれど、今日はそれを深く考えないことにした。
会場に近づくにつれ、空気が熱を帯びていく。遠くから聞こえるリハの音。物販列に並ぶ人々のざわめき。推しの名前が印刷されたバッグやタオルが揺れる。
オタ友がスマホを見ながら言う。
「今回のひよりさ、ビジュ強すぎない?なんか……絵画みたいだったんだけど」
黒瀬は、少しだけ目を細めた。
「分かる。光の入り方が……舞台の上だけ別世界みたいで」
声は落ち着いているのに、言葉の選び方が“構図を見る人”のそれだった。
「そうそう!あの“覚醒前の静けさ”みたいな雰囲気、誰かが描いたイラストみたいだったんだよね」
「イラスト?」
「うん。SNSで見たんだけどさ、ひよりの新衣装を“絵画みたいに”描いてる人がいて」
オタ友がスマホを差し出す。
「この人。この“月影ミラ”って人」
黒瀬は、画面を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。
(……この線……)
昨日、会社で見た“ノートの線”と似ている。けれど、確信はしない。ただ、胸がざわつく。
「この人さ、コスプレ衣装の監修もしてるんだよ。布の質感とか、重心の置き方とか……説明がプロ」
黒瀬は、胸の奥が跳ねるのを感じた。
(文章が丁寧……仕事できそうな感じ…………朝倉さん……?)
オタ友はさらに投稿を遡りながら言う。
「しかもさ、ひよりの動きの“癖”まで理解してるんだよね。覚醒前の肩の角度とか、髪の揺れ方とか……」
黒瀬は、昨日のノートのミラの構図を思い出す。
(……似てる。でも、偶然かもしれない)
確信はしない。けれど、気になる。
「そういえばさ、今ひより運営が“バースデーカード企画”のイラスト募集してるじゃん?」
「知ってる」
「この“月影ミラ”の人に依頼したくない?ひよりのビジュ、めちゃくちゃ理解してるし、あの絵画みたいな雰囲気、絶対合うと思うんだよね」
黒瀬は、言葉を失った。
「……依頼……?」
「そう。DMで相談してみようかなって。この人、依頼受けてるっぽいし」
黒瀬は、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
(……依頼……?この人に……?朝倉さん……?)
確信はしない。けれど、心が揺れる。
会場が暗転し、ひよりの声が響いた瞬間、空気が震えた。
覚醒前の演出――光の入り方、髪の揺れ、影の落ち方。
それが、みつきのノートにあった“ミラの覚醒前”の構図と重なる。
(……似てる。でも、偶然かもしれない)
けれど、黒瀬の胸の奥では、何かが静かに動き始めていた。
ライブが終わり、会場の照明がゆっくりと明るさを取り戻していく。
ひよりの歌声の余韻がまだ耳の奥に残っていて、観客たちは名残惜しそうに席を立ち始めていた。
黒瀬は、しばらくその場から動けなかった。
ステージに残る光の残像を見つめながら、胸の奥で何かが静かに揺れている。
(……やっぱり、あの構図……)
覚醒前の演出。
光の入り方。
髪の揺れ。
影の落ち方。
それらが、昨日みつきのノートで見た“ミラの覚醒前”の構図と重なってしまう。
(偶然……だよな)
そう思おうとするのに、胸のざわつきは消えない。
「玲央、やばかったな今日……!」
オタ友が興奮した声で肩を叩いてきた。
黒瀬は小さく頷く。
「……ああ。すごかった」
「ひよりの覚醒前、鳥肌立ったわ。あれ、絵にしたら絶対映えるよな」
「……そうだな」
黒瀬の返事は短い。
けれど、その声にはわずかに熱が混じっていた。
会場を出ると、夜風が熱くなった身体を冷ましてくれた。
周囲には、ライブの感想を語り合うファンたちの声が溢れている。
オタ友はスマホを取り出し、画面を黒瀬に見せた。
「なあ、やっぱり依頼しようぜ。月影ミラさんに」
黒瀬は一瞬、呼吸を忘れた。
「……今?」
「今じゃなくてもいいけどさ、今日のひよりのビジュ、絶対描いてほしいんだよ。あの人なら、あの“絵画みたいな光”を再現できると思う」
黒瀬は視線を落とした。
スマホの画面には、月影ミラの最新投稿が表示されている。
ミラの横顔。
柔らかい光。
静かな影。
そして、線の流れが――
昨日みつきが描いていたものと、あまりにも似ている。
(……似てる。でも、違うかもしれない)
確信はしない。
しないようにしている。
「玲央、お前も気に入ってたよな?この人の絵」
「……まあ」
「じゃあさ、俺がDM送ってみるよ。断られたらそれまでだし」
黒瀬は、止めなかった。
止められなかった。
胸の奥で、何かが静かに疼いていた。
電車に揺られながら、黒瀬は窓の外の夜景をぼんやりと眺めていた。
街の光が流れていくたび、ひよりのステージの光が脳裏に蘇る。
(……月影ミラ)
名前を思い浮かべるだけで、胸がざわつく。
(あの線……あの構図……)
昨日、会社で見たノートのページ。
みつきが描いたミラの“覚醒前”の表情。
(……似てる。でも、偶然かもしれない)
何度もそう言い聞かせる。
けれど、心は静かに動き続けていた。
部屋に戻ると、黒瀬はコートを脱ぐより先にスマホを手に取った。
指が自然に動き、月影ミラのアカウントを開く。
画面には、今日の昼に投稿された新しいラフが表示されていた。
ミラの後ろ姿。
光に照らされる髪。
静かな影。
(……この構図……)
昨日みつきが描いていた“途中の構図”と、あまりにも似ている。
黒瀬は息を呑んだ。
(……似てる。でも、偶然……)
言い聞かせる声が弱くなる。
投稿文を読む。
丁寧で、落ち着いていて、言葉の選び方がどこかみつきに似ている。
胸が、静かに跳ねた。
(……この人に、依頼……)
オタ友の言葉が頭をよぎる。
黒瀬は、フォローはしなかった。
けれど――
通知だけはオンにした。
(……気になる)
その一言が、胸の奥に静かに沈んでいく。
みつきは、机に向かったまま時間を忘れていた。
ミラのラフを仕上げ、月影ミラの本垢に投稿したばかりだ。
(……今日もバレなかった)
胸を撫で下ろす。
誰にも知られたくない。
会社の人には絶対に知られたくない。
特に――黒瀬には。
(……明日も描こう)
そう思いながら、スマホを伏せた。
知らない。
黒瀬が、
その投稿を見ていることを。
知らない。
黒瀬が、
“依頼したい”と思っていることを。
知らない。
黒瀬が、
通知をオンにしたことを。
知らないまま、
二人の距離は静かに、確実に近づいていく。




