表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月のチャームが揺れた日  作者: かも@ろん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/15

第10章 昼の沈黙、夜のささやき

朝のオフィスは、いつもより静かだった。

昨日の“ノート事件”の余韻がまだ胸の奥に残っていて、みつきはバッグを抱えたまま、席に着く前に深呼吸した。

(……今日は絶対に、何も漏らさない)

そう自分に言い聞かせてから、そっとバッグを置く。

昨日のようにノートが滑り落ちないよう、持ち手を椅子の背に引っかけないよう、慎重に。

そんなみつきの動きを、黒瀬は、いつもの落ち着いた声で迎えた。

「おはようございます、朝倉さん」

「おはようございます」

声は普通に返せた。

でも、目を合わせるのは少し怖い。

昨日のあの瞬間――

ノートが開き、ミラのラフが露わになったときの、黒瀬の“理解しようとする目”。

あれを思い出すと、胸がざわつく。

(……気づいてない。気づいてないはず)

そう思いながらパソコンを立ち上げていると、黒瀬がふとこちらを見た。

「……朝倉さん、今日、少し……目の下が赤いですね」

(えっ……!?)

声はいつも通り落ち着いている。

けれど、観察が細かい。

「寝不足ですか?」

「っ……い、いえ……その……」

(寝不足……寝不足だけど……理由は言えない……!)

昨夜、ミラの“覚醒前”のシーンを描き込みすぎて、気づけば深夜を回っていた。

光の入り方、髪の揺れ、影の落ち方。

ひよりの新ビジュアルを参考に、何度も線を重ねた。

その余韻が、まだ抜けていない。

「……ちょっと、考えごとをしてて」

「そうなんですね」

黒瀬は、そこで話を終わらせる。

会社では踏み込まない。

それが彼の擬態だ。

でも、ほんの一瞬だけ、目が細くなった。

「……昨日の続き、ですか?」

(昨日の……!?)

ノートのことを言っているのかと思って、みつきは心臓が跳ねた。

「えっ……あ、あれって……?」

「昨日の会議の資料ですよ。追加で考えることがあったのかなって」

(……そっち……!!)

みつきは胸を押さえたくなるほど安堵した。

「そ、そうです。資料のことです」

「なるほど。じゃあ寝不足は仕方ないですね」

黒瀬は、どこか納得したように頷いた。

(……危なかった……)

でも、そのあと黒瀬は、ほんの少しだけ首をかしげた。

「……でも、“資料のこと”を考えてる顔じゃなかった気がします」

(っ……!!)

声は穏やか。

けれど、観察が鋭い。

「えっ……ど、どういう……」

「なんというか……“何かを思いついた人”の顔でした」

(やめて……!!)

それは完全に、ミラの構図が浮かんだときの顔だ。

「い、いえ……そんな……」

「いえ、別に悪い意味じゃないですよ」

黒瀬は、あくまで仕事の話の延長線のように、淡々と続ける。

「朝倉さんって、時々……表情が柔らかくなるので」

(柔らかく……!!)

「仕事中に、ですか?」

「はい。ほんの一瞬ですけど」

(やめて……!!)

みつきは慌てて視線をそらした。

「し、仕事に集中します!」

「どうぞ」

黒瀬は、どこか楽しそうに笑った。

でも、声はいつも通り落ち着いている。

擬態は崩れていない。

ただ――

観察眼だけが、鋭すぎる。


資料作成に集中しようとするのに、

頭の片隅にはミラの姿が浮かんでしまう。

(……昨日のあの表情、もう少し描き込みたいな)

髪の揺れ。

光の入り方。

敵キャラの影の落ち方。

(……あの影、もっと深くしてもいいかも)

そんなことを考えていると、

自然とみつきの表情が“素”になってしまう。

眉が少し上がり、目が細くなり、口元が緩む。

完全に“創作の顔”。

その瞬間――

「……朝倉さん」

「っ!!?」

黒瀬の声に、みつきは椅子から飛び上がりそうになった。

「い、いえ……なんでもないです!」

「いえ、別に……」

黒瀬は、淡々とした声で続ける。

「……今、すごくいい表情してました」

(いい表情……!?)

「仕事の顔とは、ちょっと違う感じで」

(やめて……!!)

「……楽しそうでしたよ」

(やめて……!!)

みつきは耳まで赤くなった。

黒瀬は、あくまで“仕事の話”のように言う。

「集中してるときの朝倉さん、分かりやすいので」

(分かりやすい……!!)

「し、仕事に戻ります!」

「どうぞ」

声は穏やか。

でも、目だけは鋭い。


昼休み。

みつきはスープを飲みながら、できるだけ無表情を保とうとした。

(……今日は絶対に素の顔を見せない)

そう決意していたのに――

「朝倉さん」

黒瀬が、また近づいてきた。

「はい……?」

「さっきから、右手の指が動いてますよ」

「えっ……」

「なんか……空中に線を描いてるみたいに」

(っ……!!)

それは、ミラの構図を考えるときの癖だ。

黒瀬さんは、あくまで“仕事の癖”として扱う。

「資料のレイアウト、考えてました?」

「っ……そ、そうです……!」

(違うけど……!!)

「なるほど。そういうとき、指が動くんですね」

(やめて……!!)

声は淡々としているのに、観察が細かすぎる。


午後の仕事中。

みつきが資料をまとめていると、黒瀬がふと声をかけた。

「朝倉さんって……“仕事の顔”と“考えてる顔”が全然違いますよね」

「えっ……」

「仕事の顔は、ちゃんとしてて。

考えてる顔は……なんか、柔らかいというか」

(柔らかい……!!)

「そ、そんなこと……」

「いえ、悪い意味じゃないです。

むしろ……そっちのほうが、いいと思います」

(やめて……!!)

声は落ち着いているのに、言っていることがずるい。

「し、仕事に戻ります!」

「どうぞ」

黒瀬は、満足そうに微笑んだ。

でも、擬態は崩れていない。

ただ、観察眼だけが鋭い。


帰り支度をしていると、黒瀬が声をかけた。

「朝倉さん、今日……なんだか楽しそうでしたね」

「えっ……そんなこと……」

「ありましたよ。

“何かを考えてる人”の顔でした」

(っ……!!)

みつきは言葉に詰まる。

黒瀬は、昨日のノート事件を思い出すように、

少しだけ柔らかい声で言った。

「……無理に聞きませんけど。

その“考えてる顔”、また見れたらいいなって思いました」

(……っ)

みつきは、ノートを抱えたまま小さく頷いた。

「……考えておきます」

「はい。お疲れさまです」

黒瀬は、いつも通りの落ち着いた声で微笑んだ。

その笑顔に、みつきの心臓はまた跳ねた。


会社を出ると、夜風が頬を撫でた。

みつきはバッグを抱えたまま、深呼吸した。

(……今日は、なんとか擬態できた……はず)

そう思いながら駅へ向かう。

でも、胸の奥はまだざわついていた。

黒瀬の言葉が、何度も頭の中で反芻される。

――“楽しそうでしたよ”

――“何かを考えてる人の顔でした”

――“その顔、また見れたらいいなって思いました”

(……やめてよ……そんな言い方……)

耳まで熱くなる。

電車に揺られながら、みつきはバッグの中のノートをそっと撫でた。

ミラの“覚醒前”のラフが入っている。

昨日描いたばかりの、あの表情。

(……帰ったら、続きを描こう)

そう思うと、胸が少しだけ軽くなった。


部屋に入ると、みつきはバッグを置くより先にノートを取り出した。

机に広げ、昨日のページを開く。

ミラの瞳に宿る光。

髪の揺れ。

影の深さ。

(……やっぱり、ここ……もっとこうしたい)

ペンを握ると、線が自然に走り出す。

仕事の疲れも、会社での緊張も、全部忘れられる。

(……楽しい)

描いているときだけは、世界が静かになる。

そのとき、スマホが震えた。

画面には――

黒瀬玲央 の名前。

(……っ!!)

心臓が跳ねた。


黒瀬:

「今日はお疲れさまでした」

(普通の挨拶……よかった……)

みつき:

「お疲れさまでした」

すぐに返信が来た。

黒瀬:

「帰り道、少し急いでましたね」

(見てたの……!?)

みつき:

「えっ……そんなに急いでませんよ」

黒瀬:

「いえ、いつもより歩幅が少しだけ広かったので」

(歩幅……!?)

なんでそんなところ見てるの。

みつき:

「気のせいです」

黒瀬:

「そうですか。

でも……“何か考えてる人”の歩き方でした」

(やめて……!!)

まるで心を覗かれているみたい。


描きかけのミラを見ながら、みつきは返信を考えた。

(……どうしよう。顔が緩む)

ミラの表情が、昨日よりもずっと“生きて”見える。

その瞬間、またスマホが震えた。

黒瀬:

「……今、何かしてます?」

(っ……!!)

なんで分かるの。

みつき:

「い、いえ……別に……」

黒瀬:

「そうですか。

なんとなく……“考えてる顔”してる気がしたので」

(見てないのに……!!)

みつき:

「見てないのに分かるんですか?」

黒瀬:

「朝倉さん、考えてるとき返信が少し遅くなるので」

(観察眼……!!)

黒瀬:

「あと、句読点の位置が変わります」

(句読点……!?)

そんなところまで見てるの。


黒瀬:

「……もしかして、昨日の“続き”ですか?」

(続き……!?)

ノートのことを言っているのかと思って、みつきは固まった。

みつき:

「な、なんの続きですか……」

黒瀬:

「昨日の……“考えてる顔”の続きです」

(やめて……!!)

黒瀬:

「今日も、少しだけ……そういう顔してました」

(会社で……!?)

みつき:

「し、してません!!」

黒瀬:

「してましたよ。

ほんの一瞬ですけど」

(ほんの一瞬……!!)

どれだけ見てるの。

黒瀬:

「……ああいう顔、いいと思います」

(やめて……!!)

声に出してしまいそうになる。


ノートを閉じ、みつきはスマホを握りしめた。

(……どうしよう)

黒瀬は、会社では絶対に踏み込まない。

でも、こうしてメッセージになると、

“観察眼”が少しだけ素を覗かせる。

それが、怖くて、嬉しい。

みつき:

「……あまり見ないでください」

送信したあと、心臓が跳ねた。

すぐに返信が来た。

黒瀬:

「見てませんよ。

ただ……気づいてしまうだけです」

(気づいてしまう……!!)

黒瀬:

「朝倉さんの“考えてる顔”、分かりやすいので」

(分かりやすい……!!)

黒瀬:

「……でも、無理に隠さなくていいと思います」

(隠したいのに……!!)

黒瀬:

「その顔、僕は好きです」

(っ……!!)

胸が熱くなる。

みつきは、震える指で返信した。

みつき:

「……考えておきます」

黒瀬:

「はい。おやすみなさい」

みつき:

「おやすみなさい」

スマホを置くと、

ミラのラフが視界に入った。

(……見せたくないのに、見られてる)

でも、ほんの少しだけ。

(……見られても、いいのかもしれない)

そんな気持ちが、胸の奥で静かに芽生えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ