第10章 昼の沈黙、夜のささやき
朝のオフィスは、いつもより静かだった。
昨日の“ノート事件”の余韻がまだ胸の奥に残っていて、みつきはバッグを抱えたまま、席に着く前に深呼吸した。
(……今日は絶対に、何も漏らさない)
そう自分に言い聞かせてから、そっとバッグを置く。
昨日のようにノートが滑り落ちないよう、持ち手を椅子の背に引っかけないよう、慎重に。
そんなみつきの動きを、黒瀬は、いつもの落ち着いた声で迎えた。
「おはようございます、朝倉さん」
「おはようございます」
声は普通に返せた。
でも、目を合わせるのは少し怖い。
昨日のあの瞬間――
ノートが開き、ミラのラフが露わになったときの、黒瀬の“理解しようとする目”。
あれを思い出すと、胸がざわつく。
(……気づいてない。気づいてないはず)
そう思いながらパソコンを立ち上げていると、黒瀬がふとこちらを見た。
「……朝倉さん、今日、少し……目の下が赤いですね」
(えっ……!?)
声はいつも通り落ち着いている。
けれど、観察が細かい。
「寝不足ですか?」
「っ……い、いえ……その……」
(寝不足……寝不足だけど……理由は言えない……!)
昨夜、ミラの“覚醒前”のシーンを描き込みすぎて、気づけば深夜を回っていた。
光の入り方、髪の揺れ、影の落ち方。
ひよりの新ビジュアルを参考に、何度も線を重ねた。
その余韻が、まだ抜けていない。
「……ちょっと、考えごとをしてて」
「そうなんですね」
黒瀬は、そこで話を終わらせる。
会社では踏み込まない。
それが彼の擬態だ。
でも、ほんの一瞬だけ、目が細くなった。
「……昨日の続き、ですか?」
(昨日の……!?)
ノートのことを言っているのかと思って、みつきは心臓が跳ねた。
「えっ……あ、あれって……?」
「昨日の会議の資料ですよ。追加で考えることがあったのかなって」
(……そっち……!!)
みつきは胸を押さえたくなるほど安堵した。
「そ、そうです。資料のことです」
「なるほど。じゃあ寝不足は仕方ないですね」
黒瀬は、どこか納得したように頷いた。
(……危なかった……)
でも、そのあと黒瀬は、ほんの少しだけ首をかしげた。
「……でも、“資料のこと”を考えてる顔じゃなかった気がします」
(っ……!!)
声は穏やか。
けれど、観察が鋭い。
「えっ……ど、どういう……」
「なんというか……“何かを思いついた人”の顔でした」
(やめて……!!)
それは完全に、ミラの構図が浮かんだときの顔だ。
「い、いえ……そんな……」
「いえ、別に悪い意味じゃないですよ」
黒瀬は、あくまで仕事の話の延長線のように、淡々と続ける。
「朝倉さんって、時々……表情が柔らかくなるので」
(柔らかく……!!)
「仕事中に、ですか?」
「はい。ほんの一瞬ですけど」
(やめて……!!)
みつきは慌てて視線をそらした。
「し、仕事に集中します!」
「どうぞ」
黒瀬は、どこか楽しそうに笑った。
でも、声はいつも通り落ち着いている。
擬態は崩れていない。
ただ――
観察眼だけが、鋭すぎる。
資料作成に集中しようとするのに、
頭の片隅にはミラの姿が浮かんでしまう。
(……昨日のあの表情、もう少し描き込みたいな)
髪の揺れ。
光の入り方。
敵キャラの影の落ち方。
(……あの影、もっと深くしてもいいかも)
そんなことを考えていると、
自然とみつきの表情が“素”になってしまう。
眉が少し上がり、目が細くなり、口元が緩む。
完全に“創作の顔”。
その瞬間――
「……朝倉さん」
「っ!!?」
黒瀬の声に、みつきは椅子から飛び上がりそうになった。
「い、いえ……なんでもないです!」
「いえ、別に……」
黒瀬は、淡々とした声で続ける。
「……今、すごくいい表情してました」
(いい表情……!?)
「仕事の顔とは、ちょっと違う感じで」
(やめて……!!)
「……楽しそうでしたよ」
(やめて……!!)
みつきは耳まで赤くなった。
黒瀬は、あくまで“仕事の話”のように言う。
「集中してるときの朝倉さん、分かりやすいので」
(分かりやすい……!!)
「し、仕事に戻ります!」
「どうぞ」
声は穏やか。
でも、目だけは鋭い。
昼休み。
みつきはスープを飲みながら、できるだけ無表情を保とうとした。
(……今日は絶対に素の顔を見せない)
そう決意していたのに――
「朝倉さん」
黒瀬が、また近づいてきた。
「はい……?」
「さっきから、右手の指が動いてますよ」
「えっ……」
「なんか……空中に線を描いてるみたいに」
(っ……!!)
それは、ミラの構図を考えるときの癖だ。
黒瀬さんは、あくまで“仕事の癖”として扱う。
「資料のレイアウト、考えてました?」
「っ……そ、そうです……!」
(違うけど……!!)
「なるほど。そういうとき、指が動くんですね」
(やめて……!!)
声は淡々としているのに、観察が細かすぎる。
午後の仕事中。
みつきが資料をまとめていると、黒瀬がふと声をかけた。
「朝倉さんって……“仕事の顔”と“考えてる顔”が全然違いますよね」
「えっ……」
「仕事の顔は、ちゃんとしてて。
考えてる顔は……なんか、柔らかいというか」
(柔らかい……!!)
「そ、そんなこと……」
「いえ、悪い意味じゃないです。
むしろ……そっちのほうが、いいと思います」
(やめて……!!)
声は落ち着いているのに、言っていることがずるい。
「し、仕事に戻ります!」
「どうぞ」
黒瀬は、満足そうに微笑んだ。
でも、擬態は崩れていない。
ただ、観察眼だけが鋭い。
帰り支度をしていると、黒瀬が声をかけた。
「朝倉さん、今日……なんだか楽しそうでしたね」
「えっ……そんなこと……」
「ありましたよ。
“何かを考えてる人”の顔でした」
(っ……!!)
みつきは言葉に詰まる。
黒瀬は、昨日のノート事件を思い出すように、
少しだけ柔らかい声で言った。
「……無理に聞きませんけど。
その“考えてる顔”、また見れたらいいなって思いました」
(……っ)
みつきは、ノートを抱えたまま小さく頷いた。
「……考えておきます」
「はい。お疲れさまです」
黒瀬は、いつも通りの落ち着いた声で微笑んだ。
その笑顔に、みつきの心臓はまた跳ねた。
会社を出ると、夜風が頬を撫でた。
みつきはバッグを抱えたまま、深呼吸した。
(……今日は、なんとか擬態できた……はず)
そう思いながら駅へ向かう。
でも、胸の奥はまだざわついていた。
黒瀬の言葉が、何度も頭の中で反芻される。
――“楽しそうでしたよ”
――“何かを考えてる人の顔でした”
――“その顔、また見れたらいいなって思いました”
(……やめてよ……そんな言い方……)
耳まで熱くなる。
電車に揺られながら、みつきはバッグの中のノートをそっと撫でた。
ミラの“覚醒前”のラフが入っている。
昨日描いたばかりの、あの表情。
(……帰ったら、続きを描こう)
そう思うと、胸が少しだけ軽くなった。
部屋に入ると、みつきはバッグを置くより先にノートを取り出した。
机に広げ、昨日のページを開く。
ミラの瞳に宿る光。
髪の揺れ。
影の深さ。
(……やっぱり、ここ……もっとこうしたい)
ペンを握ると、線が自然に走り出す。
仕事の疲れも、会社での緊張も、全部忘れられる。
(……楽しい)
描いているときだけは、世界が静かになる。
そのとき、スマホが震えた。
画面には――
黒瀬玲央 の名前。
(……っ!!)
心臓が跳ねた。
黒瀬:
「今日はお疲れさまでした」
(普通の挨拶……よかった……)
みつき:
「お疲れさまでした」
すぐに返信が来た。
黒瀬:
「帰り道、少し急いでましたね」
(見てたの……!?)
みつき:
「えっ……そんなに急いでませんよ」
黒瀬:
「いえ、いつもより歩幅が少しだけ広かったので」
(歩幅……!?)
なんでそんなところ見てるの。
みつき:
「気のせいです」
黒瀬:
「そうですか。
でも……“何か考えてる人”の歩き方でした」
(やめて……!!)
まるで心を覗かれているみたい。
描きかけのミラを見ながら、みつきは返信を考えた。
(……どうしよう。顔が緩む)
ミラの表情が、昨日よりもずっと“生きて”見える。
その瞬間、またスマホが震えた。
黒瀬:
「……今、何かしてます?」
(っ……!!)
なんで分かるの。
みつき:
「い、いえ……別に……」
黒瀬:
「そうですか。
なんとなく……“考えてる顔”してる気がしたので」
(見てないのに……!!)
みつき:
「見てないのに分かるんですか?」
黒瀬:
「朝倉さん、考えてるとき返信が少し遅くなるので」
(観察眼……!!)
黒瀬:
「あと、句読点の位置が変わります」
(句読点……!?)
そんなところまで見てるの。
黒瀬:
「……もしかして、昨日の“続き”ですか?」
(続き……!?)
ノートのことを言っているのかと思って、みつきは固まった。
みつき:
「な、なんの続きですか……」
黒瀬:
「昨日の……“考えてる顔”の続きです」
(やめて……!!)
黒瀬:
「今日も、少しだけ……そういう顔してました」
(会社で……!?)
みつき:
「し、してません!!」
黒瀬:
「してましたよ。
ほんの一瞬ですけど」
(ほんの一瞬……!!)
どれだけ見てるの。
黒瀬:
「……ああいう顔、いいと思います」
(やめて……!!)
声に出してしまいそうになる。
ノートを閉じ、みつきはスマホを握りしめた。
(……どうしよう)
黒瀬は、会社では絶対に踏み込まない。
でも、こうしてメッセージになると、
“観察眼”が少しだけ素を覗かせる。
それが、怖くて、嬉しい。
みつき:
「……あまり見ないでください」
送信したあと、心臓が跳ねた。
すぐに返信が来た。
黒瀬:
「見てませんよ。
ただ……気づいてしまうだけです」
(気づいてしまう……!!)
黒瀬:
「朝倉さんの“考えてる顔”、分かりやすいので」
(分かりやすい……!!)
黒瀬:
「……でも、無理に隠さなくていいと思います」
(隠したいのに……!!)
黒瀬:
「その顔、僕は好きです」
(っ……!!)
胸が熱くなる。
みつきは、震える指で返信した。
みつき:
「……考えておきます」
黒瀬:
「はい。おやすみなさい」
みつき:
「おやすみなさい」
スマホを置くと、
ミラのラフが視界に入った。
(……見せたくないのに、見られてる)
でも、ほんの少しだけ。
(……見られても、いいのかもしれない)
そんな気持ちが、胸の奥で静かに芽生えていた。




