第1章 日常に紛れた違和感
朝倉みつきは、朝のオフィスの空気があまり好きではない。
まだ完全に立ち上がっていないパソコンのファンの音と、
コーヒーの香りと、誰かの小さなため息。
そういうものが混ざり合って、
「今日も一日、大人としてちゃんとしなきゃ」と思い知らされるからだ。
「朝倉さん、おはようございます!」
元気な声に振り向くと、後輩の佐伯が小走りで近づいてきた。
「おはよう。今日、資料の確認いるんだっけ?」
「はい!でも、朝倉さんの手が空いたときで大丈夫です!」
にこっと笑う佐伯に、みつきも“頼れる先輩”の笑顔を返す。
「午前中には見ておくから、午後イチでもいい?」
「助かります〜!ほんと朝倉さん、仕事早いですよね」
(それは、推しのために時間を捻出したいからです)
心の中でだけ、そう返す。
口に出すのは、当たり障りのない言葉だけ。
「慣れだよ。じゃあ、あとで持ってきて」
そう言って席に着き、パソコンを立ち上げる。
デスクの引き出しには、昨夜コンビニで買った新刊情報メモがこっそりしまってある。
今日の仕事をどれだけ早く終わらせられるかで、
同人ショップに寄れるかどうかが決まる。
(絶対に、寄るけどね)
自分にだけ聞こえる声で、心の中で笑った。
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午前中の仕事をひと段落させ、
昼休みの少し前、みつきはエレベーターに向かった。
社内カフェでコーヒーを買って、午後の作業に備えるつもりだ。
エレベーターホールには、すでに数人が待っていた。
その中に、見慣れた横顔がある。
黒瀬玲央。
同じビルの別会社の社員。
システム系の部署にいるらしい、という噂だけは聞いたことがある。
無口で、いつも静かで、
誰かと談笑しているところを見たことがない。
(今日も、相変わらず静かだな……)
そんなことをぼんやり思っていると、
彼の手元でスマホがふっと光った。
「Lumière LIVE STREAM “Moonlight Talk”
開始まで 00:12:48」
(……あれ?)
思わず目が止まる。
Lumière。
月城ひよりが所属する、三人組アイドルグループ。
みつきが衣装研究のために、何度もライブ映像を見返している存在。
(今日、配信あったっけ……?)
一瞬だけ胸がざわついたが、
すぐに視線をそらした。
(いや、たまたまおすすめ通知が来ただけかも。
この人、どう見てもオタクには見えないし)
黒髪は整えられ、スーツもシンプル。
余計なものを持たない、そんな印象の人だ。
エレベーターが到着し、扉が開く。
数人が乗り込み、みつきも続いた。
狭い空間の中で、
さっきの通知の文字だけが、頭の片隅に残り続けていた。
********
デスクに戻り、社内カフェのコーヒーを一口飲む。
画面の端には、プライベート用のチャットアプリの通知が光っていた。
「今日の新刊、どうする?」
オタク友人の由梨からだ。
『絶対行く。仕事、午前中で片付けた』
と打ち込みながら、さっきのことをふと思い出す。
『そういえばさ、同じビルの人のスマホに
Lumière の配信カウントダウン出てた』
すぐに返信が返ってくる。
「なにそれ、運命では???」
『いやいや、たまたまでしょ。
見た目、完全に“ちゃんとした社会人”って感じだったし』
「ちゃんとした社会人でもオタクはいる。
ここに一人いる」
『それはそう』
思わず小さく笑ってしまい、
慌てて口元を手で隠す。
(でも、あの人がオタクっていうのは……
ちょっと、想像つかないな)
チャットを閉じ、
みつきはまた“仕事モード”の顔に戻った。
********
夕方。
今日のタスクをほぼ片付け、
あとは上司の確認待ち、という状態になった。
(よし……これなら、定時ダッシュいける)
心の中でガッツポーズをしながら、
コピーを取りに廊下へ出る。
角を曲がった瞬間――
「……っ」
誰かとぶつかった。
「あっ、すみません!」
「……いえ、大丈夫です」
落ちたファイルを拾い上げながら顔を上げると、
そこにいたのは、昼にエレベーターで見かけた黒瀬玲央だった。
彼のバッグが少し開いていて、
その内側に、小さな月モチーフのチャームが揺れていた。
(……え?)
それは、見慣れた形だった。
丸い月に、細い星のライン。
Lumière の3rdライブ「Moonlight Symphony」で販売された、
月城ひよりの公式チャーム。
(あれ、“月光ドレス”のチャーム……?)
ひよりの象徴。
Lumière のファンなら誰でも知っている、あの月。
でも、普通の人は知らない。
ましてや、こんな落ち着いた男性が持つようなものではない。
「……これ、落ちました」
玲央が、みつきのファイルを揃えて差し出してくれる。
指先まできちんと揃えられた紙の束に、
彼の性格がにじんでいる気がした。
「あ、ありがとうございます」
受け取りながら、
視線はどうしても、バッグの内側のチャームに引き寄せられる。
(いや、でも……似てるだけかもしれないし)
自分に言い聞かせるように、
みつきは小さく息を吐いた。
玲央はそれ以上何も言わず、
軽く会釈して去っていった。
廊下に残されたのは、
コピー機の低い駆動音と、
みつきの胸の中で揺れる小さな違和感だけだった。
********
定時少し前。
上司からの確認も無事に終わり、
みつきはパソコンをシャットダウンした。
「朝倉さん、今日このあと飲み会行きません?」
隣の席の同僚が声をかけてくる。
「ごめん、今日はちょっと用事があって」
「え〜、またですか。
絶対、彼氏ですよね?」
「違うってば」
笑いながら、
“完璧な大人女子”の余裕を装う。
(彼氏じゃなくて、推しです)
心の中でだけ、本当のことを言う。
「じゃあ、また今度誘いますね〜」
「うん、そのときは考える」
軽く手を振って席を立つ。
エレベーターに向かう足取りは、
少しだけ早くなっていた。
********
エレベーターホールには、数人が集まっていた。
その中に、また彼がいる。
黒瀬玲央。
相変わらず静かで、
周囲の会話に混ざることなく、
ただエレベーターの到着を待っている。
扉が開き、乗り込む。
みつきは彼の斜め後ろあたりに立った。
そのとき、
玲央がスマホを取り出す。
ロック画面に映ったのは――
ひよりの“月光ドレス”の袖口レースのアップ。
(……っ)
思わず息を呑みそうになり、
慌てて口元を押さえる。
一般人にはただの綺麗なレース模様。
でも、衣装研究ガチ勢のみつきには分かる。
(このレース……ひよりちゃんの袖……
こんなマニアックな部分を壁紙にするなんて……
絶対、ただのファッション好きじゃない……!)
胸がドクンと鳴る。
(あのチャームに、このロック画面……
やっぱり、この人……)
でも、まだ言えない。
“オタクですか?”なんて、軽々しく聞けるわけがない。
過去に、
「え、そんなの好きなんだ。意外」
と言われたときの、あの微妙な空気を思い出す。
(期待して、また傷つくのは嫌だ)
エレベーターが一階に着き、
扉が開く。
玲央は、何事もなかったように歩き出した。
みつきは、その背中を目で追いながら、
胸の中のざわめきを持て余していた。
********
その夜。
同人ショップで新刊を買い込み、
帰り道のカフェで一息つきながら、
みつきは由梨にメッセージを送った。
『この前の人さ、やっぱりLumière のオタクかもしれない』
「え、進展あった???」
『バッグの中に月チャーム入ってた。
しかも今日、ロック画面が“月光ドレス”の袖レースだった』
「それもう確定では???」
『でも、まだ話しかける勇気はない……』
「朝倉さん、慎重すぎ問題。
でも、そういうところ好き」
『やめて』
画面の向こうで笑っている由梨の顔が、
なんとなく想像できて、
みつきも少しだけ笑った。
(でも……本当に、そうだったらいいな)
カップの底に残ったカフェラテを飲み干しながら、
みつきは、
自分でも気づかないうちに、
その“もしも”に期待していた。
********
数日後。
仕事帰り、ビルの一階のカフェ。
いつものように、
みつきはテイクアウトのコーヒーを買うつもりで入ったが、
ふと足が止まり、
窓際の席に座ることにした。
(今日は、ちょっとだけ、ゆっくりしてもいいか)
そんな気分の日もある。
カップをテーブルに置き、
スマホで今日のタイムラインを眺めていると――
隣の席に、人の気配がした。
顔を上げると、
そこにいたのは、また彼だった。
黒瀬玲央。
ネクタイを少し緩め、
コーヒーを一口飲んでから、
スマホを取り出す。
その瞬間、
画面が光った。
「Lumière 3rd LIVE “Moonlight Symphony”
開演まで 1:23:10」
みつきの心臓が、大きく跳ねた。
(……確定だ)
あの配信カウントダウン。
月チャーム。
袖口レースのロック画面。
そして今、
ライブ当日のカウントダウン。
(この人、ひよりちゃんのガチ勢だ……)
胸の奥で、何かがほどける音がした。
ずっと隠してきた“好き”が、
誰かと繋がるかもしれないという期待。
怖い。
でも、それ以上に――嬉しい。
みつきは、
自分でも驚くほど静かな声で、
口を開いた。
「……あの」
玲央が、ゆっくり顔を上げる。
近くで見ると、
思っていたよりも柔らかい目をしていた。
「ひよりちゃん、好きなんですか?」
一瞬、彼の目が大きく見開かれた。
時間が、少しだけ伸びる。
「…………はい」
その小さな声は、
みつきの胸にまっすぐ届いた。
(ああ……この人、仲間だ)
その瞬間、
みつきの世界が、
ほんの少しだけ明るくなった。




