第六話 俺は馬を射て黒船来航の噂を聞く
小千葉道場へ入門した翌日から俺は熱心にほぼ毎日通い続けることにした。
俺は非常に真面目だった。かなりの優等生だったに違いない。
それにはもちろん下心があったのだけれども。
俺が負けた女剣士の名は千葉佐那子という。
察しのとおり、千葉定吉先生の娘である。そして、重太郎の妹だ。
道場の看板娘であり、とにかく彼女の目に止まるには真面目に小千葉道場に通い続けるのが一番なのである。
「佐那子さま、稽古をつけてください!」
「はい。構いませんけれど………」
佐那は少し困惑しているようだ。負けた俺があまりに無邪気に教えを請うてくるからだろう。
まずは無邪気な感じで相手の懐に入る作戦。武家の子女らしく堅物な佐那子だが、稽古では男も女もなく頼めば練習に付き合ってくれる。とにかく親しくならなければ何も始まらない。
「坂本くんは変わった奴だ。普通の男なら女に負けてバツが悪くて佐那とは稽古したがらないものだけどな」
重太郎は言う。俺の下心には気づいてないようで、一安心。
「佐那子さまもお強いですが、私の姉も豪傑で、子供の頃から負けなれてますきに」
「ほう、我が妹と同じように強い女も他にいるものか。あれは規格外だと思ってたよ」
「はい、私よりも背が高く力持ちで坂本のお仁王様と呼ばれちょります」
「仁王様か・・・そういえば、佐那にも二つ名がありましてね。千葉の鬼小町とちまたでは呼ばれています」
「鬼小町ですか」
「坂本君も仁王やら鬼やらにやられて大変ですな」
重太郎は笑う。
重太郎とはすぐ仲良くなった。裏表のない気のいいやつで扱いやすい。
将を射んとすればまず馬を射よだ。
佐那のような警戒心の強い相手は周囲を篭絡させると気を許すだろう。
重太郎と仲良くなっておくことにこしたことはない。佐那の情報もいろいろ手に入るしな。
「佐那子さまは鬼小町と呼ばれているようで」
佐那は俺を睨む。
「鬼ではありません!」
怒って去っていった。
どうやら禁句だったらしい。
乙女姉ちゃんは坂本家の仁王様というあだ名を喜んでたのに……。
重太郎、余計なこと教えるんじゃねー!
教えるなら言ったら怒ることもちゃんと伝えやがれ!
「重太郎先生、佐那子さまに怒られてしまったぜよ」
「佐那は鬼小町と言われるのが好きではないようだからな。直接言ったらいかんよ。あれが怒ると鬼小町というより本当の鬼だ」
確かに怒ると角が見えてくるかも。
小柄で可愛いのだけど迫力はあるもんな。
「ははは、重太郎先生も言いますね」
「何が面白いのでしょうか、坂本さん」
えっ?
背後から声がした。
偶然、佐那が通りかかったらしい。
「鬼で悪うございましたね」
一言だけ言うと足早に去って行く。
ちょっと、ちょっと、ちょっと。
なんか、重太郎とは仲良くなってるけど、佐那を怒らせてばかりなんですけど。
馬は射ても将に逃げられたら何にもならねーよ!
小千葉道場へ入門して一月が過ぎた。
「佐那子さま、稽古をつけてください!」
「はい。構いませんけれど………」
なんかほとんど仲が進展してねー。
策が裏目裏目にでてるのか、佐那が堅物で扱いにくいのか。どっちもか。
まあ、いい、気長にやろう。
それに道場に足繁く通うのは別に佐那のためだけではない。半分くらい佐那のためだけれども。それが第一の理由であるけれども。それだけではない。そもそも俺は剣術修行に来てるのだ。
小千葉道場の剣術のレベルの高さに魅せられているという理由も事実だ。一番好きなのは女であるが、二番目は剣である。日根野道場では味わえなかった剣術の面白さがここにはある。新しい技や基本の見直し、剣に対する心得、自分が強くなっているような充実感がある。
後はまあなんだかんだで道場のみんなとも仲良くなったしな。主に重太郎だが。
一応あれは剣術の先生なんだが、気安過ぎる。威厳がねぇ。強いんだけどな。
定吉先生など威厳の塊だというのに、重太郎も後二十年もすればあんな威厳が身に付くのだろうか。無理だと思うけど。
そんなおり、土佐藩中屋敷である話を聞いた。
「外国の軍艦が浦賀沖に来てるらしいぜよ」
小千葉道場に来て見るとその話題でもちきりだった。
「異国の船が来てるとは聞いてるよ。鉄の船で真っ黒に塗られているらしいね」
重太郎も興味があるらしい。
土佐沖にもたまに異国船が通ることがあり、その噂は聞いたことがある。
「何年か前にも浦賀あたりに来て、幕府の役人に追い返されていたよ。ここ数年で異国船が日本近海に来ることが増えたという噂は聞くな」
俺は子供の頃に下田屋で見た舶来品を思い出す。船の模型とかもあった。かっこ良かったな。
「なんかワクワクするぜよ。浦賀まで見に行ってみようかな」
「前に来た時は数日で追い返されたので、早く行かないと見れないかもしれませんよ。私は道場があって行けないですが」
早く行かないと見れないという話を聞いて急に見たくなってきた。
珍しいもの、見る機会の少ないものはどうしても見たくなるという人間心理だ。
偶然にも俺が江戸にいる時に近くまで来たのだ。これはチャンスでもある。
思い立ったら吉日。
「それでは、重太郎先生、さっそく浦賀まで行ってくるぜよ」
俺は準備もそこそこに浦賀に向けて物見遊山の旅に出ることにした。