第四話 俺は女で失敗して江戸に逃げる
この時代、外を男女で歩くものではない。夫婦と言えども並んで歩くことはなかった。
男女の仲というのは屋内の秘め事である。
と、いうことで油断していた。
俺は望月亀弥太と茶屋で休憩していた。望月兄弟の弟の方だ。
「羨ましいなあ。坂本さん、どうしてそんなにもてるんぜよ」
顔が違う顔が。男は顔だ。
「自然体が一番ぜよ。無理にかっこつけようとするとボロがでるからな」
嘘だ嘘。常に女にもてるにはどうすればいいのかと研究している成果だ。
「どうぞごゆっくり」
茶屋の娘が俺と亀弥太の前に茶を出す。その際にチラッと俺に目配せをした。
察しのとおり茶屋の娘は馴染みである。客としてだけでなく、男女の仲という面でも馴染みである。
亀弥太が小声で俺に言う
「そういえばここの娘も………」
ニヤニヤ。
その時に俺の背後にちょうど別の客が座る気配を感じた。
ん? と振り返ると見知った顔だった。俺と深い男女の中にある後家さんである。
「坂本さんもすみにおけないなぁ。ここの茶屋の娘は可愛いって狙ってた奴多かったのに、もう落としたんでしょ?」
ちょい黙れ! 聞こえる聞こえる!
「手が早いんだから女殺しの坂本さん」
亀弥太、殺す!
そこへ茶屋の娘が後家さんのところへ注文を取りに来て茶を置く。茶を置いたその手を後家さんが掴む。緊迫する俺。
「え、お客様、いかがなさいました?」
「………」
「あの、何か粗相が?」
「………」
変な汗が出てきた。
どうするこの空気。俺、どうする。
緊張感に耐えられない。
「と、とにかく落ち着け!」
俺は立ち上がると二人の方を向いた。
殺気だった目で俺を睨む後家さん、訳の分からないといった表情から何か得心がいったという表情へ移り変わる茶屋の娘。
あれ、俺、間違えた?
後家さんがお茶を俺の顔めがけてかけた。
熱ッ! いや、それはマズイ、熱ッ!
娘が御盆で俺の頭をガンガン叩く。
そこは角!角は止めよう!
このことは後に龍馬の茶屋事件と呼ばることになる。
なんとかその場は収まったものの人の口は軽い。あっという間に噂千里を走る。
その噂は当然ながら他に関係を持っていた女性たちの耳にも届く。
危険である。窮地である。四面楚歌である。
一計を案ずることにした。
まず俺は日根野道場の日根野弁治先生のの元を訪ねた。
「先生!私に日根野道場の目録を下さい!」
日根野先生は目を丸くする。弟子が目録をねだるなど前代未聞の出来事だろう。
「私は既に道場で一位二位を争う実力であり目録をいただくだけの資格はあると思います」
俺は先生の家の土間に土下座をして必死に訴えかける。
「確かに近いうちに目録を与えようとは考えてはいたが、いったいどうしたんだ」
本来なら怒るところなのだろうが、あまりのことに呆れたのか日根野先生は俺に聞いてきた。
「江戸に剣術修行に出たく思います。日根野道場から目録を授与され推薦を受けさせていただければ、江戸留学が出来ます」
「ああ、そうか、土佐から逃げるか・・・」
先生の元にも噂は届いていたようである。
「女というものはやっかいだからのぉ」
あ、なんか先生が遠い目をしておられる。
「しかし、こんなことで目録を渡すことは・・・」
「お願いします!」
土間に額を擦り付け涙声で懇願する。
しばらく、土佐にはいられん。ホント困る。
「分かった、分かった。目録授与は以前から考えていたことだ。いいだろう」
先生の呆れた声が聞こえた。
「ありがとうございます!」
このまま土佐にいたら刺されかねん。
数日後、目録を授与した俺は江戸の三大道場、千葉道場の分家である、千葉定吉先生の小千葉道場への紹介状も受け取った。藩に私費留学の願いを出して数日たった頃に許可が出て旅支度を始める。
龍馬の茶屋事件、一部でこう呼ばれていた不名誉な事件から一月も立たない間に俺は土佐を離れることになる。幸いなことに刺されるようなことはなかった。懇意にしてた女性たち皆からは絶縁をくらってしまったが。
表向きは剣術修行ということで、祝福を受けつつも事情を知る皆からは内心呆れられて、俺は旅に出ることになった。ちょうど江戸に旅立つ予定のあった溝淵広之丞と日を合わせて共に出立することになる。
「龍馬、江戸での心得を書いて渡しておく。しかと精進せよ」
親父の八平は旅立つ前に俺に訓戒書を渡した。
”女に現を抜かさないように剣の道に励め”との一文があった。
まあ、しばらく女はこりごりだ。