第二十話 俺は悩みぬいて佐那に諭される
歴史MEMO
安政五年四月 井伊直弼、大老に就任。
安政五年六月 日米修好通商条約を締結。
安政五年七月 安政の大獄開始。
安政五年七月 徳川家定、死去。
安政五年七月 島津斉彬、死去。
安政五年一月、俺は北辰一刀流の目録を得た。
既に俺の実力は重太郎、佐那と並びぶほどで、塾頭という役もやっている。
剣の道に生きると決めて稽古に励む日々である。
だが、時代は粛々と動いてる。
「龍馬さん、最近元気がありませんね」
「え、昨日の夜は満足してませんか?」
「夜の話ではありません!」
冷ややかな声。
ああ、最近は佐那の冷たい叱責が気持ちいい。もっと、もっと俺を罵って!
「このままいけば北辰一刀流の免許皆伝もすぐではありませんか」
佐那は心配そうに俺を見つめる。
不安なのだろう。
まあ、俺も迷っている。決断したはずなのにどうも歯切れが悪い。
「そろそろ江戸留学の延長の申請もしなければいけませんし・・・」
そうなんだよなぁ。でも、次に延長するとほぼ確実に武市との縁が切れる。道がたがえる。
「聞いておられますか。龍馬さん?」
「ああ、今夜はがんば・・・」
いて、グーはいかんグーは!
「ふ・ざ・け・な・い・で・下さい!」
怒気交じりの声、ああ、もっと罵って、もっと!
大老井伊直弼が朝廷の勅許を得ぬままアメリカとの通商条約を結んだとの情報が流れたのは六月末のことであった。
志士たちの情報は早い。幕府上層部や大名たちに彼らの支援者がいるわけで、すぐに下級の志士たちの間にも噂は流れる。
金と銀の交換比率がおかしい。
この情報も比較的早く流れた。もっと広く条約内容を公開して吟味していればこのようなミスは起こらなかったであろう。秘密裏に条約締結を進めたためにアメリカに騙されたのだ。
幕府の金銀交換比率が一対五であるのに対し、海外では一対十五であった。よって日本で銀を金に交換して、海外で金を銀に交換する。これだけで三倍の利益が出る。
この条約が施行されると金が海外に流出して、日本は莫大な貿易赤字で破産してしまう。
この話を聞いた時に俺は愕然とした。
もはや日本はおしまいだ。幕府はもう駄目だ。俺はどうすればいいのか。
鬱々とした気分になった。
千葉家での夕食である、俺は土佐藩の中屋敷ではなく千葉家で食事を取ることが多くなっていた。そのまま泊まって行くことが度々だったし。
そのときに佐那が思いがけないことを言う。
「龍馬さん、土佐にお帰りになってはいかがでしょうか」
ピタッ、俺の時が止まる。
重太郎もご飯を口に入れる寸前で箸が止まってる。
定吉先生はお茶を持ち上げたところで固まっている。
数秒間、沈黙が支配した。
「はははは、何を冗談を言ってるのかな。佐那は。坂本くんも留学延長の申請が遅れてるのがいけないのだよ」
目が笑ってないよ。重太郎。
「坂本、お前はどう考えているのだ」
定吉先生が問う。俺は正直に答えた。
「迷っております」
おそらく自分の幸せは千葉家にあるだろう。だが、これからの世の中ではそれだけを求めてよいのだろうか。
正直なところ不本意だ。俺は元来自己中心的な人間なのだ。他人のために頑張る仕事なんか向いてない。自分の趣味と楽しみに生きる男なのだ。
だが、既に時代は切迫している。日本という国存亡の危機である。千葉家での幸せも日本が滅んでしまっては意味が無い。本末転倒である。一方、俺ごときに何が出来るものかという思いもある。千葉家の恩を捨て日本のために立っても何の役にも立たないのではないかと。
思考の迷宮にはまり込んだ俺に、佐那が静かに言う。
「ですから、土佐に戻るのがよいと思われます」
え、もしかして俺って愛想つかされた?
罵られたり冷たくされたりするのはドンと来いだけど、捨てられるのは嫌だー!
「私は明るくて自信家で前向きな龍馬さんを好いております。ですが、今の龍馬さんは違います。自分をごまかして無理をしている龍馬さんは嫌いです」
淡々と静かに佐那の独白が続く。
「例えそれがどんなに困難でも、何年かかろうとも、龍馬さんは自分の信じた道を突き進んでもらいたい。それが私が愛した坂本龍馬という男の生き方です」
佐那の目から涙が零れ落ちた。
「私は待ちます。何年でも、何十年でも。佐那は既に坂本龍馬の妻でございます」
安政五年九月、俺は土佐に帰国した。
北辰一刀流の目録と志を持って。