第一話 俺は土佐に生まれて姉ちゃんに殺されかける
俺の名は坂本龍馬だ。
年齢は十二歳。男の子だ。
天保六年十一月十五日、土佐の郷士坂本家に俺は生まれた。家族は両親と兄の権平と三人の姉(千鶴、栄、乙女)である。
俺の背中には馬のタテガミのような毛が生えていたのと、前の晩に母が龍が空を駆ける夢を見たことのことで、龍馬と名づけられた。
鹿の夢でなくて良かった。
坂本家というのは才谷屋という商家の分家であり、先祖が郷士株を買って侍となった家だ。身分も侍の中では低いのだが、商売をしてるだけあって金に困ったことはない。そんな裕福な家庭だったので子供時代はのんびり気ままに過ごしてたと思う。
また、俺が生まれた時は親父はかなり年だったこともあり、弟は出来なかった。
金持ちで責任の無い次男で皆に可愛がられる末っ子というおいしいポジションを得ていた俺はのびのびと気ままに育った。気まますぎて武士としての気概に欠けていたと思われる。この頃の俺の渾名は不名誉なことに「泣き虫龍馬」というものだった。
あまり思い出したくはないが、学問の塾に入った時に上士の子の侍に苛められてすぐ辞めたということがあった。それ以来、塾にも道場にもいかずに姉達に勉学を教えてもらっている。
イジメ、駄目、絶対。
この土佐という地域は上士と郷士とで大きな差がある。城勤めをしている身分の高い侍が上士。武士であるものの雑用やキツイ仕事をしている身分の低い侍が郷士である。
上士と郷士はいろいろな掟で差別されており、決して逆らえない。泣き寝入りするしかない。
「龍馬は優しい子じゃからね」
とは、母ちゃんの言。
ものは言いようである。気が弱いだけである。
「龍馬はもう少し気張らんといかんぜよ」
乙女姉ちゃんの言。そう言いながらもガキ大将たちから庇ってくれた。まあ、近所で最強のガキ大将が乙女姉ちゃんだったわけだが。
その優しかった二人は俺が十二歳の頃に居なくなってしまった。
母・幸は体調を崩し寝込んだ後であっさりと死去した。労咳だった。
人の死はあっけないものである。特にこの時代はそういうものだ。俺は悲しみにくれた。
母ちゃんは死ぬ間際に弱虫であった俺のことを心配していた。それは有難いことなのだろう。しかし、今際の際に言った一言が俺の運命を変えて優しかった乙女姉ちゃんをこの世から消し去ったのである。
「こらぁ、龍馬! 逃げるなぁ!」
鬼の形相で仁王様が追いかけて来る。捕まれば命の危機である。本気で逃げる。
「逃げ切れると思っちょったかぁ!」
あっさりと追いつかれて首根っこを押さえられた。
「い、命だけは助けて」
「何いっちょるがか。剣の特訓ぜよ」
右手に木刀を抱えて左手で俺を押さえつけている仁王様がじろりとにらむ。
「亡くなった母上に龍馬を一人前に育てると約束したきに」
仁王……坂本のお仁王様と近隣一帯にその名を轟かせている女傑、乙女姉ちゃんだ。
母ちゃんは今際の際に乙女姉ちゃんに「龍馬を頼む」とか言い残してしまったのだ。それを必要以上に本気で受け取った乙女姉ちゃんは、俺を一人前に育てるべく鬼のシゴキを開始した。
それからは地獄の日々。
ホントにヤバイ。いや、マジで。死にそう。
確かに幼い頃の俺はちょっとばかり虚弱で弱虫だった。
俺の行く末を案じたゆえの行動であろうというのは分からないでもない。
でも、世の中には限度どいうものがあるのだ。この鬼!
「いくぞ龍馬!」
木刀が振り下ろされる。俺はなんとかそれを自分の木刀で受け止めようとするが、力負けして木刀は弾き飛ばされ体勢は崩れて地面に倒れる。
男女の差はあれど十二歳と十五歳。力では乙女姉ちゃんの方が上・・・というレベルではない。乙女姉ちゃんは並みの男よりも体格が良く同年代で乙女姉ちゃんに勝てる子供はいなかった。
「泣き虫龍馬」と「坂本のお仁王様」とでは天と地ほどの圧倒的な力の差があり、俺に乙女姉ちゃんの攻撃を受けることなど出来るはずもない。
尻餅をついて地面にへたり込んでいる俺に容赦なく木刀を叩きつける乙女姉ちゃん。
まさしく鬼の所業。人の仕業とは思えぬ。
ホントにヤバイ。マジヤバイ。殺される。助けて死ぬ。
「龍馬には基礎的な体力が不足しちょるな」
そう言ってある日のこと乙女姉ちゃんは俺に十㎏相当の石を体中にくくりつけた。縄と風呂敷を駆使して全身に石の重りをつけた俺はフラフラに成りながら立っている。
「まさかこのまま一日中過ごせなんていう・・・」
どこの少年漫画の修行だ。
「そんな変な格好をずっとはさせられんぜよ。そうさな、山道を五里ほど走ってくる間だけでええ」
五里! いわゆる二十㎞! それを十㎏の重りをつけたまま山道で!
そんなの亀の甲羅つけて牛乳配達する漫画の主人公じゃないんだから!
「安心せい。姉ちゃんもいっしょに走ってやるから」
サボったりインチキしたり出来ねぇ!
いや、無理だから。何を言ってるんだね、この人の皮を被った仁王様は。
この日、二里で倒れて目を回した俺は乙女姉ちゃんにおぶられて家路につく。
クリアするまで何度もやらされることになったがな!
余談だが二年後には十里走らされることになっていた。
ある日、乙女姉ちゃんは俺の胴を縄できっちりと縛った。縄は俺の体から二メートルほど伸びていて、その先端は棒に括り付けられた。逃げられないように捕獲された罪人のようであった。
「龍馬、おんしはその年になっても泳げないそうじゃの」
そう言う乙女姉ちゃんの顔はニヤニヤと笑っていた。何かよくないことを考えた時の笑いだ。
なんでしょうか。
この縛られて捕らえられたことと泳げないことが何か関係があるのでしょうか。
「水練の特訓じゃき」
川につれてこられた。
嫌な予感がする。
「飛び込め」
嫌な予感当ったー!!
「お姉さま、着物を着たままでございます」
「服を着たまま川に落ちることもあるやき。その特訓じゃ」
それは泳げない初心者にはハードルが高すぎるのではないだろうか。
いや、無理っす。マジで。本気で溺れ死ぬ。
「溺れたら竿を引いて吊り上げてやる」
いやいや、溺れるの前提かよ!
てゆうか、竿とか俺は釣りの餌かよ!
俺が必死で無理だと説明するが聞く耳もたない。乙女姉ちゃんは有無を言わさず俺の首根っこを掴まえると川へ放り込んだ。
「溺れたらひっぱりあげるけぇ、死ぬ気でもがけや。何度か溺れたらその内に泳げるようになるきに」
死ぬかと思った。マジで溺れたし。ひとつ間違えたら死んでたって!
この水練特訓は俺が泳げるようになるまで続けれた。
四回溺れた。
後に五㎏ほどの重りをつけて放り込まれた。
更に三回溺れた。
何度も死に掛けたせいで俺の水泳技術は上達し、かなりのものにはなった。
後に船乗りの訓練をしたときに水練が非常に上手くて役に立つことになる。
あまり感謝はしたくないが・・・トラウマだよ。
よく水嫌いにならなかったものである。自分でも不思議だ。