日記
朝の光は、薄いカーテンを透かして部屋の奥まで静かに入り込んでいた。
まぶたの裏に溜まっていた眠気をゆっくり押し出すように目を開くと、天井の白さがやけに広く感じられる。
空気は冷たくもなく、温かくもない。
ただ静かで、時間がまだ動き出していないような、半透明の朝だった。
起き上がり、足を床に置くと、板の感触がじんわりと伝わってくる。
リビングに向かえば、昨日の夜そのままに置き去りにされた食器や本がテーブルの上で互いに肩を寄せ合っている。
その間を縫うようにして椅子を引き、パンをひとつ掴んだ。
噛むと、表面がほんの少し固く、ところどころ香ばしい。
味は特別ではないのに、その音と感触が妙に心地よくて、二口、三口と進んでしまう。
窓の外では、雲がゆっくりと東から西へ流れていく。
どこへ行くわけでもないはずなのに、見ているとこちらの胸までそっと引っ張られるような感覚がある。
予定は空白、急かすものは何ひとつない。
それでも、外の光のほうへ歩いて行きたい衝動が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
食器を水に浸け、本を棚に戻す。
散らかった部屋が少しずつ整っていくと、空気の密度が変わったように感じる。
昼に近づくにつれて、窓から射し込む陽射しが濃くなり、床の上に長い影と光の帯を作る。
その光の道は、まるでどこか遠くの町まで続いているように見えて、視線を離せなかった。
気がつけば玄関に立ち、靴ひもを結んでいる。
行き先は決めていない。
ただ、光の差すほうへ向かうことだけははっきりしていた。
扉を開けると、午後の風がゆっくりと頬を撫でる。
木々の葉が小さく揺れ、その影が舗道にまだら模様を描いている。
一歩、また一歩。
足取りは軽くもなく、重くもない。
ただ静かに、何かを探すように進んでいく。
耳を澄ませば、遠くで子どもたちの笑い声がして、すぐそばでは小鳥が短く鳴いた。
そのすべてが、ひとつの物語の中の断片みたいに感じられる。
どれくらい歩いたのだろう。
ふと立ち止まって振り返ると、来た道が午後の陽に包まれて揺らめいている。
何も変わっていないはずの景色が、少しだけやわらかく、少しだけ遠くに感じられた。
そしてその瞬間、自分がどこかへ向かっていることよりも、ただ歩いている時間そのものが愛おしく思えた。
私はまた前を向く。
まだ光は長く伸びていて、その先には、私の知らない静かな場所がきっと待っている。