国家試験日、晴天なり
2025年1月26日、澄み切った青空の下で
齢四十で介護福祉士に合格できた。国家試験に挑んだのは人生初だ。
試験前日に、一週間後に入職する障害者施設の上司から、激励の電話をもらった。へそ曲がりな私は、「それくらいは受かれよ」とも聞こえてしまい、電話を切った後も、唇を横一文字にして、集中力が切れるまで鋭意邁進した。
当日は朝早くに、予約したタクシーに乗って、受験会場へ赴いた。道中に運転手が、こんな早朝に何の用があるのかと尋ねてきた。事情を説明すると、運転手はこちらが仰天することを話してくれた。運転手は元介護職で、約十年前に介護福祉士に合格し、社会福祉主事の資格まで取得しているというのだ。お互い話が弾み、緊張が和らぎ、ありがたかった。
会場の駐車場には、既にたくさんの自動車でいっぱいで、スクールバスまで二台停まっており、制服を着た学生が順に降りてきていた。その近場に停車すると、運転手は明るい声と笑顔で送り出してくれた。優しいオジサンに救われた。
緊張の塊の私を誘導してくれた試験監督員は、案外親切な人だった。会場が広大で、オロオロ迷子になっていると、見兼ねて声をかけてくれ、受験番号のシールが貼られた席まで連れて行ってくれた。こちらもありがたかった。
この会場は本来、フリーマーケット等の様々なイベントや、大相撲の取組の開催場所として建てられたため、天井以外はコンクリートのみで囲う体育館のような建造物で、殺風景なのは否めない。自席に座り、ふと天井を見上げると、ジブリ映画で描かれるような、数多の鉄棒が複雑に入り組んだ、温もりこそは感じられないものの、現代の人間の工学的叡智が伝わってくる、灰色と緑色が混合した、近未来的な風景が広がっていた。小心者の私は、会場の全てを前に怖気づき、真冬なのに手掌に汗がにじんだ。
試験開始寸前になって、妙な心配が全身を駆け巡った。通路側の机上に必ず提示しなければならない受験票になぐり書きしたメモが、いくら消しゴムでこすっても消えないのだ。メモとは、その日朝夕に世話になるタクシーの会社名と、送り迎えの予約をした時間。カンニングではと疑われたらどうしようと、間抜けな緊張が走った。実際は、複数の監督員が受験番号、氏名、そして顔写真が一致するか、午前と午後の二回チェックしに来たが、結局最後まで一切指摘されず、杞憂に終わった。
肝心の試験内容はというと、午後の部はスムーズに解けたが、午前の部は意表を突く問題がいくつかあり、甘く見るなと試験センターから牽制されたように思えた。延髄や三叉神経といった、聞き慣れない脳の問題や、神経性無食欲症という聞いたこともない病名も飛び出し、不意を突かれた。他にも、げっぷやしゃっくりの原因とはとか、滅多に出題されない救急蘇生法の問題もあった。瞬時に頭を絞り出し、奇跡的に正解した問題もある。昨年と一昨年には、現代社会の喫緊の課題であるヤングケアラーや性的マイノリティの方々に関する問題も出題されたが、今年度は登場しなかった。
試験が終わり、肩の荷が下りて、トイレへ駆け込むと、衝撃的な光景が目に飛び込んだ。試験開始前に、私の顔写真をチェックした初老の男性監督員が、あろうことか女性トイレで、幼男児用の便器に向かい、放尿をしていた。私と見ず知らずの女性の受験生が唖然と立ち尽くしているのを前に、男性は何食わぬ顔でその場を去った。私と女性は顔を見合わせ、互いに苦笑し、「お疲れ様でした」と労い合った。
帰りのタクシーの運転手も気前のいい男性だった。運賃を支払う際、十円玉が一つ足りず、一万円を差し出すと、「十円くらい、いいよ。今日頑張ったんでしょ」と、申し訳なかったが、嬉しい言葉をかけてくれた。
約二年勉強に励んだが、試験当日は印象的な様々なドラマを目の当たりにすることができ、何となく晴れやかな日になった。早速、燃え尽き症候群に襲われそうになる自分と、次の目標を探し始める生真面目な自分とが混在し、どこまでも人間臭い私であった。