「おやすみ」が最後の言葉だった──母が死んだ夜、僕は本当の意味で大人になった
「……お母さん、ダメだったって……」
玄関に足を踏み入れた瞬間だった。
真っ赤に腫れた目で、弟が絞り出すように言葉を落とす。
三つ下の弟は、たぶん僕よりもずっと、現実と向き合っていたのだろう。
「……そうか。頑張ろうな」
そう返す僕の声は、変に澄ましていて。
心の中では、今すぐにでも弟を抱きしめてやりたいのに、照れと妙な意地が邪魔をする。
あれが当時の僕にできた、精一杯の“兄”だった。
長く重たい取り調べのあいだ、誰一人として母の安否について語ることはなかった。
(何も言ってこないってことは……まだ治療中なのかもしれない。奇跡だって、ゼロじゃない)
そんなふうに、脳裏に焼き付いた“もう戻れない姿”を、都合よく塗りつぶしていた。
あれだけ冷静に証言できたのも、どこかで希望を手放しきれていなかったからだ。
……でも、本当はもう気づいていた。
ただ、それを認めたくなくて。確定してしまうのが、怖かった。
そして今。
その現実を、言葉として突きつけられてしまった。
辛い役を、弟にやらせてしまったんだな……。
その夜、僕は一人、母が運ばれた大学病院へ向かう。
煌々と光る街のネオンも、耳に入る雑踏の音も、まるで違う惑星のものみたいに感じた。
何も口にしていないはずなのに、空腹感すら消えていた。
(ここに、お母さんはいないんだ……)
そう思った瞬間、喉が詰まる。
涙が突然、堰を切ったようにあふれてくる。
生まれてきたときと同じくらい、訳もわからず、ただ泣いた。
悲しいとか寂しいとか、そんな言葉では足りない。
心の底から、どうしようもなく泣くことしかできなかった。
「お兄ちゃんなんだから、ちゃんとしなさい」
「高校生にもなって」「大学生なんだから」
口うるさい母の小言は、いつも少しだけ鬱陶しくて、気がつけば避けるようになっていた。
でも——
いじめられて帰ってきた小学生の僕を、無言で抱きしめてくれたあの日のこと。
その記憶を、僕は母がいなくなるまで、すっかり忘れていた。
本当は、ありがとうって言いたい日も、あった。
でも、もう遅い。もう二度と、叱ってくれることもない。
最後に交わした言葉は、何でもない夜に返した、「おやすみ」だった——。
病院に着くと、受付の女性に声をかけ、待合室で呼ばれるのを待った。
冷たい椅子の感触が、やけに肌に刺さる。
しばらくして、若い医師に呼ばれ、診察室へと通された。
「……一度、蘇生薬に心電図が反応したのですが……力及びませんでした」
申し訳なさそうに頭を下げるその人に、僕は目の腫れを気にしながら、かろうじて礼を伝えた。
そして、事件のため遺体は引き渡せないこと、司法解剖が必要になること——
大学の授業で聞いたような言葉が、まさか自分の母に向けられるなんて思ってもいなかった。
(もうこれ以上、母さんの体を……)
その言葉は、喉元まで来て、結局飲み込んだ。
だって、どうしようもないってことくらい、僕だってわかってたから。
病院を出ると、世界は何一つ変わらない顔をして、今日を回していた。
あまりにも、残酷だと思った。
無意識にポケットからスマホを取り出して、母にメールを送ろうとして、手が止まる。
(僕は自分の人生を生きていく、なんて言いながら、
本当はずっと、母さんの手を探していたんだな……)
……よくいる、愚かな息子だった。
本当の意味での“親離れ”は、突然、何の前触れもなく、やってくる。
そして、取り返しのつかない形で、すべてを教えていく。
——それが、僕の現実だった。