「お父さんに首を絞められそうになった」――あの日、母から届いた最後のメール
警察署に着いた瞬間、僕はすぐに指紋を取られ、取り調べ室に通された。
こんな空間、自分には一生無縁だと思っていた。
まるで自分が犯罪者になったかのような錯覚に、思わず背筋が伸びる。
「お母さんの首を……お父さんが絞めたらしいんだ。
……何か思い当たることはあるかい?
その時、君は何をしていたのかな?」
初老の警察官が、パソコンに向かって一文字ずつ、指で慎重にキーを叩いていく。
口調は穏やかだけど、その目の奥にあるのは、同情だけじゃない。張りつめた緊張感が確かに見えた。
——もしかして、僕がやったのを父が庇ってる、そう疑われてるのか?
そう思った瞬間、空気が一気に重くなる。
でも僕の頭の中では、すでに整理が始まっていた。
パトカーの中で、沈黙の中、父の姿を何度も反芻していたからだ。
まるで他人のことを説明するかのように、僕は淡々と、事実だけを話し始める。
実は——事件の2日前、母からメールが届いていた。
「お父さんに、首を絞められそうになった。」
何度開いても、画面には同じ文字列が並んでいた。
だけど僕は、それを現実として受け入れることができなかった。
まさか、母のアドレスから、そんな言葉が送られてくるなんて——想像もしていなかったんだ。
ただ、正体不明の恐怖だけが、じわじわと全身を包みこんできた。
あのとき、逃げずに向き合っていたら——
今でも、そう思わずにはいられない。
父はシステムエンジニアだった。寡黙で、真面目で、責任感のかたまりみたいな人。
子どもの「なんで?」にも、理屈を立てて一から説明してくれる現実主義者で……正直、ちょっと退屈だった。
でも、職人気質というわけでもなくて、休日は少年野球の練習に毎週つきあってくれた。
僕たち兄弟にとっては、優しい父だった。
一方の母は、声が大きくて明るくて、いつも誰かの中心にいた。
感情豊かで、人とのつながりを何より大事にしていた。
ちょっと大雑把で、たまに生焼けの料理が出てくることもあったけど……僕のたち兄弟のしつけには、友人が引くくらい厳しかった。
そんな両極端なふたりが、どうして一緒に生きているんだろう。
そう思って、ある日思い切って聞いてみたことがある。
「どうしてお母さんは、お父さんを選んだの?」
母は笑って言った。
「確かにね、お父さんは口数少ないし、気難しいところもあるよ。
それに、もっとお金持ちの人がいいんじゃない?って周りからもよく言われた。
でもね……お父さんは、私の知ってる誰よりも優しかったの。それだけ。」
そのときの僕は、何だか誇らしくて、胸が熱くなったのを覚えている。
一方、父に同じ質問をしたときは、ちょっと困ったような顔で——
「そういうのは……いいんだよ」
それだけ言って、すぐに話題を変えてしまった。
太陽と月。まるで真逆のふたりだった。
でも、不思議と喧嘩している姿を見たことは、一度もなかった。
あえて口には出さなかったけど、僕は両親を尊敬していたし、心から信頼していた。
——それなのに、「事件」のあった年の春、あの絶妙なバランスが、ゆっくりと崩れはじめた。
父は早期退職して、子会社に異動していた。
詳しいことはわからない。だけど、あの頃から父は明らかに変わっていった。
苛立ちが、顔にも態度にも、じわじわとにじみ出ていた。
「リモコンの反応が悪い」
「犬がまた粗相をした」
……今までは気にもしなかったような些細なことに、突然怒り出すようになっていた。
ある日曜日の昼下がり。天気はよかったはずだ。
二階の自室にいると、階下から怒声が響いてきた。
祖母と母の、必死な声が交錯している。
「どうしちゃったの……?」
「そんなこと、やってみなきゃわからないじゃない!!」
床ごしに伝わる、断片的な会話。
僕は、イヤホンの音量を上げて、耳を塞いだ。
聞いちゃいけない「大人の話」みたいな気がして——。
僕はどんなときも父が正しくて、強い存在であってほしかった。
だから、見ないふりをした。
何も起きていないことにしたかった。
……だけど父はもう、静かに、深く、自分でも戻れない場所に沈んでいた。