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ウィンター・ピープル(ある社会学者の独白)

作者: まるま

 生きづらさを抱えたあなたへ。

 この物語は、雪に閉ざされた森の奥で、自分の居場所を探し続ける一人の女性の話です。彼女は現代社会の冷たい歯車の中で働き、疲れ、孤立しながらも、どこかで小さな光を見つけようともがきます。

 アカデミアという厳しい世界で、女性として、研究者として、人間として、何倍もの努力を強いられ、それでも認められない息苦しさ。失った兄の影と、雪に埋もれた故郷の記憶が、彼女を追い詰める。

 でも、この小説は絶望だけを描くものではありません。暖炉の火が小さくても温かいように、冷たい風の中で凍えた心がわずかに息を吹き返す瞬間がある。生きづらさは、きっとあなたにも私にもある。完璧でなくてもいい。逃げ込める森が、心のどこかにあればいい。

 この物語が、あなたの膝に積もった雪を少しだけ溶かすものであればと願います。白銀の中で、自分の言葉を見つけられたら、それでいい。どうか、ページをめくってみてください。

 北海道の森の奥に、ペンションと呼ぶには古風すぎる屋敷がある。2025年の冬、私はここへ戻った。両親が営む実家だ。雪に覆われた風景は、子供の頃から変わらない。私はT大学の社会学准教授として働いている。12月、入試の喧騒が大学職員を包みはじめる。願書処理、試験監督、採点準備。忙しさが目に浮かぶ。最終講義が終わり、学生の去った教室でデスクに座った。肩が重く、机にはレポートの束。ノートパソコンが開いたまま、冷めたコーヒーカップが横にあった。縁に小さなシミが残り、触れるとザラつく。


 この一年、休暇を取らなかった。講義と会議に追われ、年末年始もアパートで論文を校正した。正月の夜、インスタントラーメンを食べた。鍋の底に焦げ跡があり、スープは冷めていた。湯気が窓を曇らせ、街灯がぼんやり光る。母と電話で少し話した。「元気?」と聞かれ、「忙しい」と答えて切った。手が震え、目がかすんだ。

 正月明け、学科主任に呼び出された。彼はかつて、「研究者は昼も夜もない。休むのは甘えだ」と徹夜を強いた男だ。今は立場が変わり、「人事部から年休を5日以上取らせろとせっつかされている。入試の対応からお前を外す。休みを取れ、これは命令だ」と言った。昔は疲弊する私を嘲り、今は規則を盾に突き放す。人事部からも「休暇を申請しろ」とメールが来た。入試は繁忙期だ。私が抜ければ同僚に負担がかかる。だが、彼は「規則だ」と言い捨てた。反論できなかった。女性としてアカデミアで生きるには従うしかない。会議室の窓から灰色の空が見え、雪が降り始めていた。


 荷物をまとめ、コートと論文集をスーツケースに入れた。空港へ行き、飛行機で北海道へ飛び、レンタカーで雪道を走った。雪が膝まであり、コートの裾に白い塊が付く。乾いた雪は沁み込まず、くっつくだけだ。ペンションの玄関で、軋む木のドアを開けた。古い木の匂いがした。

 食堂でコートを脱ぐと、母が「最近、珍しく長く泊まった人がいたよ」と呟いた。父は暖炉の前で新聞を読み、頷くだけ。私は「そう」と答え、2階へ上がった。客室は寒く、窓の隙間から冷気が入る。その瞬間、やりかけの仕事が頭をよぎった。現代社会の構造と個人の疎外が研究テーマだ。マルクスが言う。「労働者は自己の生産物に疎外され、その生命活動を他者に奪われる」。私の論文も、私の時間も、誰かに奪われているのだろうか。


 このペンションは、少女時代の避難所だった。両親は農家で、雪が降れば家に閉じ込められた。友達はいなかった。学校は遠く、冬はバスが止まる。兄がいた。双子で、文武両道。家族の希望だった。高校生の冬、事故で死んだ。電話越しの母の泣き声が耳に残る。私は兄の分まで生きねばならなかった。両親は農家をやめ、田を売り、学費を工面し、残ったお金でこのペンションを始めた。

 部屋の隅で、古い文庫本を読んだ。ページが黄ばみ、指にザラつく。雪が窓を覆い、物語だけが逃げ場だった。母が「ご飯だよ」と呼ぶ声が聞こえた。階段を降りると、暖炉の暖かさと料理のいい香りが私を待っていた。雪は全てを閉ざし、私を孤立させた。その記憶が、この屋敷に戻るたびに蘇る。


 アカデミアで生きてきた。博士号を取り、准教授になった。だが、そこは徒弟制度の古い体質に縛られている。大学院時代、学科主任は師匠だった。私を酷使し、徹夜でデータをまとめさせた。疲れても口を閉ざした。師匠の機嫌を損ねれば終わりだ。学会では、男性教授が「女性らしい感性」と皮肉った。私は感情を捨て、論理を磨いた。准教授になっても、「女性枠だ」と陰口が聞こえた。会議で発言すれば「感情的」、黙れば「無能」。過労でも休めなかった。女性ゆえに、隙はみせられない。そして二倍の努力と三倍の成果を求められた。


 私の研究は、マルクスの疎外論に根ざしている。資本主義は若者に「夢を追え」と煽る。だが、それは搾取の餌だ。アカデミアの世界も同じだ。私は研究に魂を込めた。論文の質、学生の評価。それが私の価値だ。だが、大学は成果と効率を求めた。私の情熱は、労働に飲み込まれた。私はその構造を研究しながら、自分がその中にいる。雪深いこの地は、私の育ちと重なる。

 雪は全てを閉ざし、夢を凍らせる。私はここで孤立し、アカデミアで孤立した。そんな夜は、心の奥底にある故郷の森へ逃げ込んだ。雪が膝まであり、足跡はすぐに消えた。静寂が耳を塞ぎ、心臓が響いた。どこへ行くのかもわからない。ただ、アカデミアの冷たい視線、学科主任の嘲笑、兄のいない空白から逃げたかった。森の白銀は、私を呑み込むように広がっていた。涙がにじみ、冷たい風に凍えた。


 部屋に戻り、窓を見た。雪が降り続けていた。私は兄の死を乗り越え、これまでアカデミアで生きてきた。だが、何を失ったか。女性として、研究者として、人間として。私は白銀へ逃げ込む孤独な魂だ。それでも、小さな光を信じたい。暖炉の音が遠くから聞こえ、母が台所で鍋をかき混ぜる気配がした。大きなため息をついて、私はカバンからノートパソコンを取り出し、電源を入れた。画面が明るくなり、書きかけの原稿が現れる。マルクスが言う。「人間は自らの労働によって世界を変える」。

 私はキーボードに指を置き、打ち始めた。雪が静かに降り、白銀の森が窓の外に広がる。幼い兄の笑顔が浮かんだ。あの冬の日、兄が雪だるまを作りながら「見ててね」と笑った。膝まで雪に埋まりながら、私たちは転げ回り、冷たい頬を寄せ合った。私はその記憶を原稿に綴った。暖炉の暖かさが背中を包み、白銀の中で、私は初めて自分の言葉を取り戻した。疎外された魂が、幼い兄の笑顔とともに、ここでわずかに息を吹き返した。

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