私立探偵より、新たな春を迎える君へ
三月下旬のある日、欠月世丸は玻璃元太を清香園という焼き肉屋に誘った。春休みでもあった元太は二つ返事で快諾した。
「まずは合格おめでとう。四月からは京都の大学に行くんだね?」
「はい、犯罪社会学を学んで探偵になりたいので」
「探偵かあ。大変だよ?」
カルビをトングで掴み、焼き網に並べながら世丸は笑う。
「知ってますよ。実家が探偵事務所ですから。『お姉さん』もそうでしょ?」
「意地悪言うならカルビあげない」
世丸は探偵になりたての頃、ある探偵の妹を騙っていた。その探偵の息子である元太だけが不正に気付き、それからというもの世丸はことあるごとに元太から家族扱いされて遊ばれている。大抵のことは世丸も許しているが、元太が『叔母さん』と呼ばないのだけは二人の暗黙の協定である。
「いや、本当に大変なんだよ。まず最初はお客さんが来ない。ネームバリューがないから不審なんだろうね。来たら来たで浮気調査とか逃げたペット探しが九割九分。事件の捜査依頼なんかそうそうないよ。警察が自力で解決しちゃうから。あっても個人情報は流せないわけで男Aが男Bを殺したらしいんだけど証拠がない、とか言われてさ。全然内容を把握できないの。そうそう、お客さんも変な人が多くて、先月あった浮気調査なんか……」
自分は社会人の愚痴を聞かされに来たのだろうか。これまでも年上の女性に振り回されることの多い人生を送ってきた元太は、焼けたカルビをそっと頬張りながらそのようなことを考えていた。
「あっ、ごめん。こんな話をしたいんじゃなかった」
散々あれこれ述べたのち、世丸は水を一杯飲んだ。肉の一皿目はほとんど元太が食べてしまった。世丸がタッチパネルで追加注文を終えると、元太をじっと見つめた。
「なんですか?」
「……不安じゃない?」
焼け焦げた肉を噛んだような苦味が、元太の口の中に広がったような気がした。目の前でついさっきまで一方的に喋り続けていた十歳年上の女性が、今度は何でも聞くというように構えている。
「……本当は、福岡を出たくないです。ずっと今のままならいいのに、って思ってます」
家族にも言っていない本音だった。
「だよね。私も東京に引っ越したときは怖かったなぁ」
「知らない土地に一人っていうことより、本当に大学でやっていけるのかが不安です」
「ああ、そうだよね。新しいことをやるのって怖いよね」
元太が本音を吐き出す度に、世丸は頷いた。元太の言葉が尽きたとき、世丸が元太の皿に一枚の肉を置いた。元太はそれをチシャに包んで飲み込んだ。皿に残っていた最後の一枚だった。
「……おいしいですね」
「……そうだね」
二人は微笑みを交わした。
会計を済ませて店を出た。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして。息抜きは大事だぞ、少年」
「それが言いたかったんですか?」
世丸は首を横に振った。
「君に売りこみをしたんだよ。欠月世丸という人間がいますよって」
「売りこみ? どうしてですか?」
「新生活が息苦しかったら、私の事務所に電話すればいいさ。話を聞く力はお客さんに鍛えられたからね。それに探偵事務所は個人情報厳守だから、君の名前は誰にも言わない。関門海峡を渡っても、これまで通りの付き合いをしてほしいなって」
それじゃ、頑張ってね。そう言い残して、世丸はバスに乗って行った。元太はきっと、今日の焼き肉の味を忘れないだろう。




