九
九話目です。
その日、父は家に帰ってこなかった。理由は分からない。昨日、父は自分は暴力団を辞めると言っていた。そのことに、何か関係が在るのかもしれない。アカネからは、何も聞かなかったけれど…。
深夜二時。眠っていた私は父に起こされた。強制的、と言うにはいささかその起こし方は優しくて、彼は私の肩を、ポンポンと叩いたのだ。私はゆっくりと瞼を開ける。父が僕の布団の横に胡坐をかいて座っていた。
「話しがしたいけど、いいか?」彼は、柔和な笑みを浮かべた。窓から月の明かりが父の暗い表情を照らしている。
「うん」私は無意識に頷いていた。
「居間に行こう」
「うん」今度は意志を持って答える。だが、まだ、夢心地で、瞼が重い。
父が立ち上がってから、私はゆっくりと起き上がり、父の後を追った。長い廊下は、とても静かで涼しくて、まるで異世界のように見える。
居間に入る。冷たい空気に震わされたのか、白いカーテンの裾がわずかに揺れていた。扉を閉めると、妙に大きな音が響いた。
「さあ、座って」
父が、食卓の席に座る。そこは、いつも母が座る席で、丁度私の席に真正面だった。私は、少しの抵抗を覚えながら、父の正面に座った。
父と見つめあう。沈黙が、永遠に続くようだった。
「無理だった」父は、口を何度も動かしてから、そう言った。
「…そう」私は何も考えていなかった。頭がぼんやりとしている。まるで、このイベントは夢の中の出来事であるかのように…。
「俺の離脱は絶対に許されなかった」父は、泣きながら言った。「無理だった…」
彼は顔を伏せる。
それはまるで、私に土下座をしているようだった。
父は私に、謝っているのだ…。
「いいよ、もう。たぶん、無理だから」私は、なだめるように言った。私は、彼のことを可愛そうだと思った。そして、許す気にも、なっていた。だって、父は弱いのだから。「もう、いいよ。自分で何とかするから」
「許してくれるのか?」父が顔を下げたまま、鈍い声をだした。
「いいよ。もう…」私はすぐに答える。
明日以降、私はきっと、土沢アカネと共に図書館にいることになるのだろう。それは、確定していることのように思える。だから、もう――。
「寝るね」私は席を立つ。だめだ。眠たくて思考が働かない。
「待ってくれ。もう一つ、話がある」父が、焦った声を出した。
「何?」私は席に座る。「教えて」私はきりっと返答した。
「あのな…お前、高校どうする?」
「高校?考えてない」私はすぐに答えた。なんだか、父の言いたいことがもう分かった気がした。
「向こうから提案されたんだ。K高にお前をアカネと共に入学させるように、と」
「どうして?」私はずっと、微笑んでいる。
「組長は――アカネの父親は、お前を利用したいと思ってるんだよ、その…」
「どういう風に?」
「だから――その、これは、俺の予想なんだが、たぶん、将来お前とアカネを結婚させようとしてる」
「だから?」私は小さく首を傾げた。まるで、演出をするように。
「え?だから――だから、その、お前が良ければ――」父は眉を細めた。
「だから、何?だから――どうなるって?」私は自分が何を言っているのか、理解していなかった。思考が宙に浮いていて、私は私を頭の中で正面から見ていた。「どうでもいいよ。そんなこと。どうでもいいから――寝かせてくれない?」
「眠たいの?」父が、ぽかんと口を開ける。
「眠たい。寝たい」私はわがままを言うように、勢いよく言った。「話しは明日でいい?」
「あ、ああ。そうだな」父は唖然と答えた。「夜遅くにごめん。うん、そうしよう」そう言って何かを諦めたように頷く。
「ありがとう」私は席を立つ。「お休み」
「あ、ああ。お休み」
私は居間を出て、静かな廊下に入った。風の冷たさが肌を撫で、寒気を覚える。部屋に入ると、すぐ暖かい布団に潜りたくなった。枕に頭を乗せ、仰向けで掛け布団をかける。数秒もすると、うとうとしてきた。
夢を見た。教室の中で、土沢アカネと私がクラスメイトとして、私と楽し気に会話をしてる。教室の中は二人きりで、確か、二人して体育の授業をさぼっていた。夕暮れの明かりが窓辺から教室に入り込み、私たちはとても近い距離で話し合っていた…。
目覚めても、私はその映像を数秒間現実として受け止めていた。夢から解放された時、私の落ち込みようは、過去一番だったと思う。それくらい、インパクトがあった。小鳥が鳴き、朝日が机を照らしている。時間は六時二十五分。朝だ。部屋を出て居間に行くと、父が食卓の定位置に座っていた。彼はコーヒーを飲んでいた。母が私たちの朝食のトーストを焼いている。
私は夢の映像をぼんやりと再生しながら、自分の席に座った。
「おはよう」父が柔和な笑みを浮かべて、私に言った。
「おはよう」私は父の存在を意識しながら答えた。
そして、ゆっくりと、昨晩の出来事を思い出していく。
「それで、どうするの?」私はぶっきらぼうに言った。まだ、昨晩の話を完全に思い出しては無かった。
「今日、学校を休んでいいよ」父が優しく言う。
「え?」私の頭はすっかりクリアになった。「どうして?」
「昨日の続きは車の中でする。十時になったら、外に出よう」
「どうして?」私は急に焦り始める。「何があったの?何をするの?」
「それも、車の中で話すよ」父は、変に顔をひきつって、微笑むだけだった。
意外と続いているような気がしなくもない。




