八
八話目です。
アカネと別れた後、私はいつものように図書館が閉まるギリギリまで勉強机にしがみつき、夜七時には帰宅した。母がキッチンで食事を作っており、珍しいことに父が居間でテレビをぼんやりと眺めていた。風呂に入ったのか、寝間着姿でいる。
私は父の隣に座った。これほどの至近距離での接触は、たぶん、半年ぶりくらいだった。
「…博人か」父が、僕の方を見て呟いた。
「土沢アカネって子にあったよ」私は父の顔を直視して言った。
「え?」彼はマネキンのように固まった。「…え、あったって?」それから、焦り始める。
「お父さん。暴力団にいるの?」私は真剣な声で訪ねた。
これは、私があれからずっと父に訊こうと考えた質問の一つであった。ただ、こんなにも早く訊くことが出来るとは予想がいであった。他にも質問はいくつかあるが、今の私は、そのいくつかを全て言えるほど健全な精神をしていない。たぶん、一、二個訊いただけで精神に支障をきたし、すぐに寝たいと思うだろう。それくらい、神経質になっていた。
「……。ああ」父は、私の目線を逸らし、テレビの向こうの小窓を見つめた。「…ごめん」
テレビの音が、急に五月蠅く私の耳に入って来た。私は、次に投げかける言葉を数秒間忘れていた。
「…。言い訳はしない。これは、俺の堕落が原因だから」父が、自分に言い聞かせるように呟いた。「博人には内緒にしたかったんだけどな」そして、薄く、苦笑いをした。
私はとっさに、泣きそうになった。私が思い描いていた父と、今目の前にいる儚い父とのギャップがあり過ぎたからだ。暴力団と関わる父は、もっと、人間味が無いと思っていた。だが、それは私が父の性質を直視せず、外枠だけで判断していたからであって、彼の本質は、いつでも、弱気なのだ。彼は今、とても儚い存在として私の目の前にいた。他人事ではない、と言うのもあるだろうが、私はとても、父に同情したくなった。
「…お母さんはしってたんだね」しかし、私の声はしゃんとしていたし、涙も出なかった。
「ああ、知ってる」
私は台所に居る母を見た。彼女は私たちの会話を聞いているのか、そうではないのか、何か炒め物をしていた。あるいは、食材が焦げる音で、声が届いていないのかもしれない。
「いつ、辞めるの?」声が枯れていた。
これが、二つ目の質問である。
そして、私の願いでもあった。
「…ああ。すぐに辞めるよ」父は、六秒ほど言い淀んだ。そして、考えるように喋る。「お父さんから、アカネさんとの接触を辞めるよう言う。そして、お父さんも辞める」
「…本当に?」私は訝しんだ声を出した。
「ああ、本当だ。明日、そう言う」父はすぐに言った。彼の声は、その時は真剣なものに変わっていた。
「お願いします」私は頭を下げた。
それから、私は静かに席を立った。もう、私にできることは何もないのだ。
逃げるように部屋に戻った。やけに寒い部屋だった。
私は椅子に座り、木を加工した机の表面を、執拗に撫でていた。その冷たさに、同情してもらうように。
私は、土沢アカネと言う存在について考えた。
彼女は、私のことをどう思っているのだろうか?否。どのような存在として、接しようとしているのか。
彼女は私と父の見分けがついているのか?父の人格と私の人格が違うことを知っているのだろうか?
長谷、と言う同じ苗字だけで、私たちを同一の存在として扱おうとしては居ないか?
つまり、父の影響で、私の身の安全が危うくならないか?
実際、父が暴力団に居るから、私の元にアカネが来たのだ。
もう、影響は出始めている。
それが、悪い方向に行かないとは、限らない。
私は猛烈な恐怖に襲われた。
私は、土沢アカネに運命を握られている。
まるで、奴隷になった気分だった。
それから私は何を考えたのだろう。少しだけ、希望を見ていた気がする。
少し、記憶が飛ぶ。
私はいつの間にか食卓で母の作った手料理を食していた。若干の空腹と、箸を持つ手の固さが意識される。父も母も居たが、会話は無かった。いや、家族全員が一緒に食事を取ること自体、半年ぶりである。しかし、そんな奇跡は、次の日からもう無かった。この出来事は、神が施した奇跡なのか、それとも、私たちが意識して作った晩餐だったのか、今でも分からない。ただ、当時の私には、それが最後の晩餐になるのだと、そう思っていた節がある。
翌日の月曜日。私は学校から帰った後、図書館へ向かった。二分ほど行くのを迷ったが、習慣を途絶やすことは難しかった。それに、ここで行くのを辞めたら、私が土沢アカネに怯えているようで厭だった。
昨夜の恐怖は、一次的なものでしかない、と私は考えていた。土沢アカネ単体で考えれば、彼女は頭の悪い中学二年生でしかないのだ。そのバッグや家柄の特性を視野に入れても、やはり、大人では無く少女のアカネから近づいてきたのだから、私に危害を加えるつもりなど毛頭ないだろう。アカネは私に勉強を教えてもらいに来たのだ。不思議なことに。勉強の方は父から教えて貰っているはず(これは確認が取れていないためまだ不確定の情報であるが)なのだが、彼女は昨日接した限り相当な勉強嫌いだから、上手く行っていないのだろう。次の案として、同年代である私に白羽の矢が立ったのかもしれない。
私はこのストーリーを半ば確信していた。それもあって、自転車をこいで街中をゆったりと進んでいる間は、不安など一切なかった。
「やあ」
駐輪場で自転車の鍵をかけていると、声をかけられた。ショートボムの黒髪ににやにやとした笑み。土沢アカネである。彼女はまた白いハンドバッグを持っている。その後ろに、昨日と同じスーツの男が居た。
「こんにちは」私はスーツの男を意識して言った。
「こんにちわ」アカネが面白そうに返す。男の反応はない。「驚いた?」
「いや…」私は笑顔を作り、アカネの方に視線を向けた。「想像は出来ていた」
「へぇ…」アカネはとたんにすねた顔をする。「なんだ、つまんない。じゃ、行こ」彼女は歩き出す。
「勉強?」私は訊く。
「そうよ」彼女は一度こちらを向いて、また歩いた。後ろにスーツの男が続く。私は急いで追いかけた。
図書館の中は冷房がきいていて涼しかった。私はアカネの隣を歩き、ゆっくりと目的の二階に足を進める。
「ねえ、貴方。学校は楽しい?」階段の踊り場でアカネが言った。「私はつまらないわ」
「つまらないよ」私は小声で簡単に同意した。
「それじゃあさ、どうして学校なんて行ってるわけ?」彼女の声は誰かを憎んでいるようだった。
「それが最善だから」私はまた、すぐに答えた。「僕は学校へ行く以外の選択肢を知らないんだよ」
「なんか、言い訳をしてるみたいだわ」アカネがぼそりと呟く。
私は黙った。
二階に着く。目の前の空間に机が三席あり、そのすべてが空いていた。右手奥に個人用の自習室がある。アカネが先に座り、隣に私が座る。スーツの男はアカネの後ろに立った。
アカネは机の上に問題集を取り出した昨日の続きだろう。
「これだけど…今日も教えてちょうだい」アカネは大層機嫌よさそうに言った。
「うん。いいけど…いつもこうなの?」私は自分のハンドバッグから筆箱を取り出した。
「どういう意味かしら?」アカネは私を見つめる。
「いつも一人で勉強しているの?」私は少し能弁になる。「家庭教師、居るんじゃないの?ほら、僕のお父さん…」私は後ろの男が気になった。
「私、大人が嫌いなの」アカネは口角をこれでもかと上げて、そう言った。「特に、おどおどしてるだけの大人にはね、失望しかないわ」
「そう…それじゃあ、どうして僕に?」私は筆箱からシャーペンを取り出し、問題集を目の前に寄せた。
「さあ」アカネは微笑む。「まだ、貴方と決めたわけじゃないわよ」
「…僕は選ばれるの?」
「まだ選考段階よ」アカネはペンを取り出した。「まだ、ね」
「まだって?」
「ふふふっ。内緒」
背筋が凍った気がした。
気がしただけだが――。
私は問題集を開く。昨日以降全く進んでいなかった。
「勉強、嫌い過ぎない?」私は少し飽きれながら言った。
「やれって、お父様が五月蠅いのよ」アカネは上品に微笑む。「でも、私はやらない。やりたくないから」私はその時、アカネが姫のように錯覚してしまった。
「まあ、いいけどさ」
私はゆっくりと、丁寧に、アカネに問題の解き方を教える。
「ここ分かる?」私は簡単な問題を指で指した。
「分からないわ」彼女は三度目の返事をした。
「じゃあ、そうだなぁ…」
そうやって、アカネに教えながらどんどん問題を解いていく。意外にも、雑談をすることは無かった。アカネは比較的、私の話をしっかりと聴いている。それは、彼女の言う『選考』に何か関係があるのだろうか。
三十分はあっという間に過ぎた。心の中で時間を数えていた訳もなく、急に、スーツの男に『時間です』と言われた時は、心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「え…もう?」そう言ったのは、意外にも、アカネだった。
「ええ。約束の三十分は終了しました。お嬢様さえ良ければ、まだ勉強していても構いませんよ」彼は、言いながら私の方を見る。
「…まあ、いいや。どうせまた明日も来るんでしょ?」アカネが後ろを向き、スーツの男に訊く。
「ええ。毎日」スーツの男はすっと答えた。
「うわぁ」アカネがとたんに厭な顔をする。「ねえ、どうして勉強をしなきゃならない訳?貴方、答えれる?」
「私は学がありませんから…」スーツの男は、静かに答える。「学があれば生きやすいだろうと思ったことはあります」
「それ、理由になってる?」アカネが首を傾げる。「ねぇ」と、彼女は私に振った。
「そうならそうなんじゃないかな」私は自然な返答を意識した。「僕も、学べるなら学んだ方がいいと思うよ。ただ、それが全てだとは思わないけど…」
「うそぉ。貴方、勉強が嫌いって言ってたわよね?」アカネが目を大きく開く。
「そうだけど…でも、言ったでしょ。それしか選択肢が無いって。たぶん、僕はそれ以外に得意なことが無いから…」
「じゃあ、勉強が苦手な私はどうなるの?損をしているとでもいうの?」
「違います」スーツの男がすぐに答えた。「お嬢様。別段、勉強が出来なくても生きていくことは出来ますし、損と言うわけでもありません。ただ――その際、勉強が出来た方が社会的に有利となるのは確かです。勉強をすることは思考力を働かせることなのです。思考力を養うために勉強をするのです。私はそう思っております」
「…それ、受け売りね」アカネは少し考えてから言った。「最後のは、お父様の言葉だわ。お父様なら、思考が全て、とおっしゃるはずよ」
「…ええ。すみません」スーツの男は抑揚の無い声で謝る。
「やっぱりね」アカネは得意げになった。「私、お父様の正論は嫌いなの」
彼女は席を立つ。私は急いでワークと筆箱を白いハンドバッグに入れた。私がそれをアカネに渡すと、彼女は終始にこにこしてそれを受け取った。
「明日も来るんだよね」私は彼女に向かって言う。
「来るわ」アカネは髪を掻きあげながら、スーツの男の方を向く。「そうでしょ?」
「ええ」スーツの男は頷いた。「図書館が休みの日以外は」
「休みの日はどうしてるの?」私は興味本位で聞いた。
「知りたい?」アカネは笑みを浮かべている。
「…まあ」
「それじゃあ、また明日教えてあげる」彼女は魅力的にウィンクをした。「ばあい」
彼女は階段を下りる。途中、私に向かって手を振ってくれた。私も手を振り返す。スーツの男が、去るアカネの後ろにくっつき、それにより彼女の姿が見えなくなった。足音だけが、静かな空間で寂しく響いている。
足音が完全に聞こえなくなるまで、私はその場から動かなかった。足が、鉛のように重く、意識が曇り空で覆われている。アカネの笑顔が、なぜか映像として頭の中に浮かび続けていた。胸が苦しい。これは、寂しさからなのか、恋心からなのか、当時の私には判断がつかなかったことを、ここに記しておく。
最近、結構色々(たくさんと言う意味)書いてるよなぁ、と思って振り返ってみると、まだ八話目!と驚く。なんだろうな、この感覚は。過去にはなかったんだけどなぁ。




